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篠原眞 室内楽作品による個展|秋元陽平

篠原眞 室内楽作品による個展
Makoto Shinohara Portrait Concert

2021年7月16日 東京オペラシティ リサイタルホール
2021/7/16 Tokyo Opera City recital hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by 石塚潤一/写真提供:TRANSIENT

<曲目・演奏者>        →foreign language
Obsession <執念> オーボエとピアノのための(1960)
  荒木奏美(ob)、大須賀かおり(pf)
Evolution <進展>チェロのための(1986)
  山澤慧(vc)
Play <遊び> 9管楽器のための(1982)
  大西義明(cond)、梶原一紘(fl)、内山貴博(a-fl)、荒木奏美(ob)、菊地秀夫(cl)
  岩瀬龍太(b-cl)、中川日出鷹(fg)、庄司雄大(hr)、星野朱音(tp)、村田厚生(tb)
Passage B <移り行きB> ステレオ増幅された木管四重奏のための(fl.ob. cl. bn)(2003)
  大西義明(cond)、内山貴博(fl)、荒木奏美(ob)、岩瀬龍太(cl)、中川日出鷹(fg)、佐原洸(エレクトロニクス)
String Quartet <弦楽四重奏曲>(2016)
  亀井庸州、松岡麻衣子(vl)、甲斐史子(va) 、山澤慧(vc)
Sonata <ソナタ> ヴァイオリンとピアノのための(1958)
  松岡麻衣子(vl) 、大須賀かおり(pf)
Septet <七重奏曲>フルート、クラリネット、トロンボーン、ヴィブラフォーン、ピアノ、ヴィオラ、チェロのための(2013:日本初演)
  大西義明(cond)、梶原一紘(fl)、菊地秀夫(cl)、村田厚生(tb)、會田瑞樹(vib)
  大須賀かおり(pf)、甲斐史子(va) 、山澤慧(vc)

 

気鋭の演奏家ばかり17人も起用し、その上編成が目まぐるしく入れ替わる、コロナ下にあって企画者の苦労が誰の目にも推し量られる(そしてプログラムでもその旨述べられている)公演だ。タイムスパンにして1958年から2016年まで、ほとんど60年にもわたる作曲家の足跡を室内楽をとおして辿る試みであり、興味深いインタビューと作曲者本人の曲目解説も相まって、ひとりの芸術家の時間的経過のなかで、変わるものと変わらないものの双方が照らし出される、「個展」と呼ぶにふさわしい企画である。
皮切りとなる『Obsession 執念』(1960)は、明確な始まりと終わりを持ったオーボエの複雑な抑揚をともなうパッセージが、重複を含みつつ幾度も反復されることによって、ぐずぐずとした偏執的な持続の音楽を作り上げる。フレージングは明瞭であるにもかかわらず、フラグメントがそれぞれ精妙に鏤められることによって、沈黙と爆発といった偏りを生じず、なにかがずっと執拗に持続しているような、ひとつの空間化された主観性としての「ムード」を作り上げていることは興味深い。とある楽譜販売サイトではこの曲のタイトルが奇妙なことに『概念』と誤記されているが、これは反面教師的な誤りである。60年の時間を越えて篠原作品に貫かれているものがある、という企画者の石塚潤一による示唆を、篠原作品の実演に本演奏会で初めて接した私なりに再考するならば、それは、変化する作曲上の概念(コンセプト)にかかわらずつねに出発点となり、のちにさまざまに高度な抽象化を被るその素材となるような情動性、あるいは心理的な力動性ではないか。

それは、単に明確にそれが題からうかがえる『執念』にとどまらない。本演奏会でも際立った説得力を持った山澤慧のチェロ独奏による『Evolution 進展』(1986)にも明瞭に見て取れる。ポルタメントや噪音にしても、たとえばホリガーやラッヘンマンのような30年代生まれの作曲家のそうした技法に見られる、人間性の彼岸を志向するひんやりとした響きではなく、どこか常に実存的な意味で理解された心の蠢きの手触りが残されている。といっても、ここでいう実存的なものとは、表現主義的なパトスとして上り詰めて爆発するものではなく、むしろ高度に抽象化されて時間のなかに遍在し、進展するというよりは行きつ戻りつする心の状態(État d’âme)である。フランス滞在中に書かれた1958年のソナタにおいては、メシアンよりはフォルムにおいてずっとバルトークを彷彿とさせる「夜の音楽」ふうにあらわれてくるが、1960年代以降の作品においては、より希薄化された心的な屈託の亡霊が作品にそこはかとなく漂っている。『play 遊び』はコンテンポラリー・ビッグバンドを思わせる(マリア・シュナイダーばりの)ブギーな音色からはじまって、ねっとりした旋律線やスタッカートの走句を橋渡しし合う展開のただなかでも、位置の仕掛けやモメントの転換にもかかわらず滞留しつづけるひとつの屈託にみちた心象とでもいうべきものがあり、それは、沈黙、同じシークエンスの回帰、パッセージ同士の時差などによって意図的に演出されたユーモラスな冗長さというか、単線的な時間進行の拒否とも結び合っている。『移りゆきB』においては、楽器間を伝播する断片的なパッセージのなかにうずまく倦怠が、息の音やキートーンを介して肉体的なニュアンスを伴って立ち上がる(ところで、PAはこれらの特殊音を拾うためのものだったのだろうか、よくわからなかった)。

さて、最近作となる『弦楽四重奏曲』と『七重奏曲』だが、これがまた聴きものである。作品としてはむしろ形式的な透明感が増し、全てのエレメントが明瞭に分かれてすっきり聴き取れるような抽象的な明晰さに傾斜していく印象を与える。モメントの切り替えがすっぱりと小気味よく、幕切れも鮮やか、また楽器法にどこか懐かしくも清潔なエロスを感じる(そもそも、七重奏、という編成に、ソノリティのエロスを期待しない者があろうか)。それにしても、演奏の正確さもあってのことだが、篠原作品はつくづく演奏効果をあらかじめ十全に想定した書法によってしるされているようで、どんな細かい特殊奏法であっても、音がすべて差異化されてクリアに聴取できる。20世紀中葉の端正なモダニズムが、その鋭さを失わずに再び前線に躍り出たかのようなクリアカットな迫力を見せつけ、これらの最近作はこの公演のピークといってよい盛り上がりを形成していた。だがそれこそがこの演奏会が、「巨匠の回顧展」ではなく、現在進行形の芸術家の個展である証拠ではないか?最後に、演奏後に有料配信された映像と音声のクオリティに驚いた。プログラムも含めて至れり尽くせりのキュレーションと言うほかなく、企画者の熱意にたじろぐほどである。

関連評:篠原眞 室内楽作品による個展|齋藤俊夫

(2021/8/15)

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<Program>
Program (all works by Makoto Shinohara, order TBA):

Sonata, for violin and piano (1958)
Obsession, for oboe and piano (1960)
Play, for nine wind instruments (1982)
Evolution, for violoncello solo (1986)
Passage B,  for amplified woodwind quartet (2003)
Septet, for flute, clarinet, trombone, vibraphone, piano, viola and violoncello (2013, Japanese premiere)
String Quartet (2016)

Musicians:
Kazuhiro Kajihara, Takahiro Uchiyama, flutes
Kanami Araki, oboe
Ryuta Iwase, Hideo Kikuchi, clarinets
Hidétaka Nakagawa, bassoon
Yudai Shoji, horn
Akane Hoshino, trumpet
Kousei Murata, trombone
Mizuki Aita, vibraphone
Kaori Ohsuga, piano
Yoshu Kamei, Maiko Matsuoka, violins
Fumiko Kai, viola
Kei Yamazawa, violoncello
Ko Sahara, electronics
Yoshiaki Onishi, conductor