特別寄稿|作曲家と演奏家の対話・V|『記憶』|ダムニアノヴィッチ&金子
作曲家と演奏家の対話・V 『記憶』
テキスト:アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ、金子陽子
>>>作曲家と演奏家の対話
>>> フランス語版
>>> セルビア語版
金子陽子(YK)
芸術的、精神的いずれの面に於いても、記憶は私達の活動において重要な要素である。
8月という月に、日本人は1945年の痛々しい集団的記憶の前に祈りを捧げる。8月6日広島、8月9日長崎の原爆投下、そして8月15日の敗戦(日本では終戦という言葉を使うが)と続く。
私は奇跡的に助かった被爆者の子供だ。当時女学校(高校)の生徒だった私の母は、第2次大戦の終戦間近の1945年の夏はすべての学生と同じように動員され、お国の為に働いていた。しかし、この8月6日は工場と化した女学校の『休養日』と定められた。女学校は8月6日の8時15分に原爆が投下された広島市の中心部に位置していた。
運命に救われた母は両親、妹や弟達と共に爆心地から2500メートル離れた家にいた。家の一部は爆風で破壊されたものの、4000度近い灼熱や致死量を上回る放射能からは護られた。家族全員が公式に被爆者と認定されたものの、全員無事だった。私はこの奇跡のお陰でこの世に存在する訳である。
今日私が、フランスに住みながら、この家族の、とりわけ民族の『記憶』を話し、伝承していく役割があることを意識するなら、大戦後の日本の状況は全く違うものであった。衝撃と、この過去に例を見ない強大な威力を持つ爆弾についての情報の無さから、この事を口にしてはならない時期が続き、被爆者達は健康と自負する同じ日本人達から耐え難い憶測や差別を受け続けたのである。
このように、原爆の話題は私の幼少期、家族の集まりで話題となってはいたが、その詳細や、各人の気持ちなどは話されなかったように記憶している。母は自分が見て体験したことを私や兄に多く語らず、その代わりに被爆者の証言集など何冊かの本を託した。
沈黙、口にしない、ということはトラウマ(心的外傷)や禁句(タブー)と同じものである。その内には爆発的なエネルギーが内包されているものだ。そのエネルギーはいつの日か解放されなくてはならない。何故なら、記憶というものはより良い未来のために欠くことの出来ない要素だからだ。
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ(AD)
今月の貴方の文の導入部に驚愕した。記憶ということで、貴方が個人的芸術的な分野での話題に触れると期待していたからなのだが、歴史的事実にまつわる集合的記憶という主題に真っ向から対面したからだ。記憶という概念が貴方の中で日本民族の痛ましい体験の思い出を思い起こさせるようで、貴方はその理由をしっかり説明している。貴方の証言はすでにとても充実し内容が濃密で、爆撃、家族の状況、忘却と沈黙(思い出と記憶の反対語!)被爆者への憶測や差別等、多くのテーマに触れている。トラウマとタブーの内の『爆発的なエネルギー』のイメージは私の注意を引かない訳がなかった。
私も個人的、芸術的な分野に話題を移す前に、まず同じ次元で反応してみよう。セルビア人達にとっても過去のいくつかの史実は同じ様な反応を起こさせる。例えば1941年4月6日の復活祭の日(訳注、ロシア正教では復活祭はクリスマスイヴ以上に大切で、日本で言う元旦に匹敵する)独ヒットラー軍がベオグラードを宣戦予告なしに空襲、国立図書館等の爆撃によって、15世紀のセルビアの音楽作品のオリジナル楽譜など、集合的記憶を破壊したのだ。又、6月28日という日は、1389年のコソボの戦いで、オスマン帝国によるセルビア占領が始まった日でもあり、セルビア軍とトルコ軍が互いに計り知れない犠牲を出した(この日に関する記憶については後述する)。近年になってからは、1999年3月24日は米国率いる連合軍によるセルビア爆撃の始まりだった。フランス全土で毎月の第一水曜日に鳴るサイレンの音に激しく反応しトラウマに陥るフランス在住のセルビア人達を私は知っている。
セルビア人の集合的記憶の最も痛ましい面は、第二次大戦中のクロアチアの収容所でのセルビア人大虐殺のように、特定された日がなく、それが何年も続いたということかもしれない。この史実については、とりわけ、自身クロアチア人だったチトー(訳注、ユーゴスラビアを統一した大統領)の共産党政府によって、国会の過半数を占めたセルビア民族とクロアチア民族の両立のためという口実で故意に沈黙し、歴史から忘却させようとした。しかし、その後の歴史は、記憶の消去や忘却の中への埋蔵が無意味、反生産的で、それがいつの日か再出現することが避けられないということを我々に提示した。
一部の民族は、輝かしい過去の出来事を、国の誇りを保持し、都合の良くない史実を忘れるために使用する。私がパリ音楽院の若い外国人学生だった頃、教授達が、パリのオーステルリッツ駅、グランド・アルメ(仏軍)大通りなどのナポレオン軍の輝かしい野戦を記す名称が存在するが、反対に、敗北し辛酸を舐めたワーテルロー、ベレジナ広場(訳注、ロシアでの戦いで村人と仏兵を含む数万人の命を故意に犠牲にしたナポレオン軍の勝利、ベレジナという言葉は『悲惨な敗北』という意味の仏語として使われるようになった)などの名称は、軍にとっては勝利であってもどこにも使われていない、という事を教えてくれたものだ。このような意味で、セルビアのキリスト教信者達が1389年6月28日のコソボの戦いの日、オスマン帝国支配の初日に祈りを捧げることに人々は驚く。これは宗教的な選択で、セルビアの伝説では、ラザール王子は自らの軍と共に死没することで、現世の勝利より天国での栄光を選択したという。伝説か史実か、この日付と史実はセルビア人達にとって、彼らがキリスト教の信仰を忘れず、改宗しないための集合的記憶としての役割を持ったのだ。ユダヤ人達も、旧約聖書に書かれている様に、ネブガドネザル支配下でバビロン捕囚となり、西暦70年のエルサレムの寺院破壊から1948年のイスラエル国家創設の日まで永い世界流浪など、同様の体験をしている。
金子陽子(YK)
東西ヨーロッパ(訳注、仏語でOrient, Occident) と異民族、異なる宗教が交差しあう地のセルビア民族として、個人的に内面から生きた者としての貴方の証言は生々しい。
この証言は日本人としての私に問いかける。何故なら、日本は75年前の終戦以来、武力、すなわち戦争を放棄し、すべての努力が国の再建、経済的発展、教育、そして、平和の構築のために注がれた。これらの努力のお陰で戦後の日本が、アメリカの自由経済をモデルとした、世界で最も繁栄する国の一つとなった訳だ。しかし、私達の先人が体験した事、今日も世界で多くの民族が生き延びるため、より良い暮らしを得るために戦っていることを忘れてはならない。
その為には、歴史を教え伝えていく、ということが私達の任務である。
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ(AD)
集合的記憶は、互いに面識や直接の関係がない人々を繋ぐ橋渡しでもある。日本は1999年に米軍によって爆撃されたベオグラードにかなりの援助を供給した訳だが、恐らく日本の国自体が米軍による原子爆弾投下で受けた苦しみを記憶として持ち続けたことに由来しているからであろう。
このようにして、今日でも、ベオグラード市街を歩くセルビア人達は、『日本国民からベオグラード市への寄贈』と書かれたバスが走っているのを見ることができる。これこそ、同情、その言葉の通り『同じように苦しむ』ということであり、集団的記憶のお陰で苦しみを分かち合うということなのだ。
今見て来たように、建設的でポジティヴな記憶が有るという訳だ。そのことは私達を芸術の二つの視点に誘導する。
まず化学的に、芸術が個人的な生活の醜さを集団的生活の美しさに転化するということ。次に音楽的芸術作品の感知に不可欠な要素としての記憶である。私が『生活の醜さ』という時、それはベートーヴェンやゴッホ、他の多くの芸術家の苦難の多い生活と彼らが個人的な苦しみで、我々の日常生活を超越させる彼らの作品に私は思いを寄せ、その美は私達に信仰と希望をもたらすのだ。
第二の点として、我々音楽家の仕事において、記憶は楽曲の感知のために必要不可欠だということである。絵画や建築は一見してすぐに全体を理解でき、我々の意志と速さでその詳細も観察できるが、音楽作品はそれに応じた規則、作品の最後まで聴き終わって初めて全体が理解でき、(たとえ録音を聴き直すとしても)音の流れの全体性と調和を壊さずに逆戻りして確認することはできないのだ。つまり、記憶のお陰で私達は音楽作品を享受することができるという訳だ。事前に聴いた主題を再確認し、音の流れが形となってくる、音楽主題が変容していくのを、小説の主人公の運命に同伴するのと同じ様に、時には音楽的フレーズの対称性が質問と回答として示され、韻を踏む詩との類似点を確認し、規則正しい主題の再来は私達に次の再現の時を予感させることもできる。
金子陽子(YK)
ピアニスト、フォルテピアノ奏者として演奏家としての音楽的記憶について思いを巡らせてみる。ここにおいては遠い過去の記憶ではなく、瞬間の記憶だ。例えば、室内楽作品の演奏において、記憶を駆使して共演者同志の音楽的対話を保つ事が、演奏の自発的な面を見せたり、更には、大変に重要である即興性を与えるなど、決定的な役割を果たすのだ。具体的に言うと、演奏家は即座に共演者が演奏したメロディやフレーズの速さやその演奏方法を記憶して、瞬時のうちにどのようにそれに答えるか決断しなければならない。速さ、ニュアンス、表現方法等、それは多くある可能性の中からである。
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ(AD)
確かにその通り、私達はこのような過程に余りにも慣れてその重要性を感じることが困難にさえなっているようだ。しかし記憶がもし無くなった状態を一瞬でも想像してみよう。民族の歴史的な出来事を忘れるだけでなく、昨日、一時間前に体験したことさえ忘れるとしたら。ある人が音楽を聴いて聴いたものを思い出せないとしたら。又は貴方の演奏家としての例を取って、今聴いた音楽を記憶に留めない音楽家を! そこには対話の可能性が皆無であり、日常生活においても然り、『永遠の現在』に生きることとなる。
私は、アダムとエヴァ(聖書の始まりであるがすべての文明に於いて当てはまる)はもしかしてこの『永遠の現在』の寓意ではないか?と自問する。この『永遠の現在』を棄て、人間は自分自身で創造する能力を得て、その記憶の中に体験を保持し、永遠に現在に生きるのではなく、一方で永遠の体験から得た思い出の中、他方で永遠の未来の計画の中に生きているのではないだろうか。永遠の現在は即ち自我の、自身の至福の領域にて自身の歓びを享受するが他者には何も与えない。私自身、偉大な隠修道士達が、何時間、そして一生の間祈り続けてその永遠なる現在を探求することを推奨した書を読んだことがある。しかしながら、人間が記憶によって何も作らないとしたら、世界は一体どうなるのであろう? 神学と哲学への広大な質問である・・・
金子陽子(YK)
前月号の対話『インスピレーション』で友人の脳化学者が証言したように、記憶は同じく、私達の脳の中に膨大な数存在するニューロンの多くのコネクションの結果である。私が指摘したいのは、記憶は私達の五感全体、視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚と関わっているということだ。そして更に、五感にも関わる愛情、情緒的な要素も、記憶を保持する能力や忘却に大きな影響を与えているということだ。
一部の人々は驚くべき記憶能力を持つ。私がパリ国立高等音楽院で当初師事したイヴォンヌ・ロリオ・メシアン女史(訳注、大作曲家オリビエ・メシアンの妻)は、その一例である。視覚的記憶の並外れた能力を持つ女史は、モーツアルトのピアノ協奏曲全曲のオーケストラパートの詳細まで暗譜し、パリで全曲を公開演奏の偉業を成し遂げられたのだ。若い生徒であった私にとっては眼を疑うような才能だった。
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ(AD)
今回は確かに、五感や脳に関与した形での記憶については触れず、私達の身体と無関係な記憶を中心に話しをしてきた。
しかしながら、臭覚、視覚、聴覚の印象のいくつかが、私達の精神的記憶、脳の中で物質でない形で存在する記憶を喚起する事を思い出す事も大切だ。
この対話のまとめとして私が確認することは、今回の話題は芸術的であるよりは、むしろ歴史的、政治的であった。取り扱った事柄を見れば、それは恐らく当然なことでもある。芸術というものは、いわゆる、この世の憂いを離れるひとつの方法である。忘却は記憶の反対語であり、人間の救いでもある。ロシア正教の礼拝において、ケルビムへの賛歌という祈りがあり、信者達に『神秘の世界』に入る前に『この世の悩みを置いて解放されなさい』と説く。
この状況においての『神秘』とは、記憶と忘却との均衡状態だと私は考える。もしも私達の運命の要素のいくらかが記憶に残されるべきならば、それ以外は忘却に値する、それは、私達の意識を、地上での生活条件を乗り越え、高められることを阻害する錘から解放するためなのだ。
1, ボルトニャンスキー(Dimitri Bortnianski,1751-1825)によるケルビムへの賛歌第7番
2, チャイコフスキー (Piotre llitch Tchaikovski, 1840-1893)によるケルビムへの賛歌
(2021/8/15)
————————————————————————
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ (Alexandre Damnianovitch)
1958年セルビアのベオグラード生まれの作曲家、指揮者。ベオグラード音楽院で作曲と指揮を学び、パリ国立高等音楽院作曲科に入学、1983年に満場一致の一等賞で卒業。フランスに在住して音楽活動。まず、レンヌのオペラ座の合唱指揮者、サン・グレゴワール音楽院の学長に就任し、オーケストラ『カメラータ・グレゴワール』並びに『芸術フェスティヴァル』を創設。1998年にはパリ地方のヘクトール・ベルリオーズ音楽院の学長に就任し『シンフォニエッタ』オーケストラと声楽を中心とした『Voie mêlées』音楽祭を創設。1987年には、フランスの『アンドレ・ジョリヴェ国際作曲コンクール』、1998年にはチェコ共和国の国際作曲コンクール『ARTAMA』で入賞。
作曲スタイルはポストモダン様式で、ビザンチンの宗教音楽並びにセルビアの民族音楽からインスピレーションを受けている。主要作品として『エオリアンハープ』、『キリストの誕生』、『フォークソング』、『聖アントワーヌの誘惑』、『パッサカリア』、『叙情的四重奏曲』、『フランスの4つの詩』、『エルサレムよ、私は忘れない』、、等が挙げられる。
近年での新作は、フォルテピアノ奏者、金子陽子との共同研究の結果生まれた作品、『アナスタジマ』、『3つの瞑想曲』、『6つの俳句』、『パリ・サン・セルジュの鐘』などが挙げられる。
音楽活動と並行して、サン・マロ美術学院油絵科を卒業した他、パリのサン・セルジュ・ロシア正教(大学)神学部にて神学の勉強を続け、神学と音楽の関係についての論文を執筆中である。
(ラルース大百科事典セルビア語版の翻訳)
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ公式サイト(フランス語)の作品試聴のページ
————————————————————————
金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
News / Actualités / 最新ニュース