TRIO RIZZLE|丘山万里子
TRIO RIZZLE トリオ・リズル
2021年6月10日 トッパンホール
2021/6/10 TOPPAN HALL
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール
<演奏> →foreign language
TRIO RIZZLE:
毛利文香(ヴァイオリン)&田原綾子(ヴィオラ)&笹沼 樹(チェロ)
<曲目>
ベートーヴェン:弦楽三重奏曲 ニ長調 Op.9-2
ヒンデミット:弦楽三重奏曲第1番 Op.34
〜〜〜〜
モーツァルト:ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563
(アンコール)
ベートーヴェン弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調 Op.8より
第5楽章 Allegretto alla Polacca/第1楽章 Marcia. Allegro
昨年8月のランチ・タイムでの演奏から常設トリオ結成を決めた3人のデビュー・リサイタル。弦楽トリオの常設は少ない。が、ものごとすべて1人では点、2人では線、3人ではじめて共有可能な「空間・場」が「立ち上がる」。3という数の持つエナジーは聖なるトリニティから俗なる三角関係まで、太古の昔から様々に表象されてきた。いかにも挑戦的ではないか。
と思っていたら、名の由来は折り鶴、TRI(O)RIZZLE、正方形をたたんで多様な造形を生む折り紙から、天翔る鶴のイメージと聞き、その「遊び心」にも、ほほう、と。
いまどき若者が折り紙なんかするのかしらん、と思いきや毛利の折り紙センスはすごいらしい。今は昔、海外への土産に綺麗でかさばらない折り紙を銀座鳩居堂で買い込んだものだ、など感慨にふけりつつ。
ヒンデミット『第1番』を愉しく聴いた。いや、たのしく、だけではない。
音楽史上でのヒンデミットの位置といえば、保守でもラディカル前衛でもなかったが、結成したトリオの2人がユダヤ系であったため「退廃音楽」とされ米国亡命、いやでも「時代」というものを背負わされた音楽家だ。
筆者が何より心惹かれたのは、そうした時代の呼吸がそこに現前したから。
当たり前だが、冒頭のユニゾンから、前曲ベートーヴェンとはまるきり違う気圧の響きが放出された。「近代」のエトスをまとったベートーヴェンのある種の清明から飛んで、機械文明たるモダンタイムス、まさにチャップリンが描き出したあの世界。『第1番』(1924)は『モダンタイムス』(1936)よりかなり早いが、工場で歯車に巻き込まれ、TVモニターで監視され、自動給食マシンで食事させられ、そんなシーンを想起させる音が聴こえる。IBM(前身C-T-R/1911)誕生がこの年であれば、テクノロジーがヒト・モノ・カネの巨大な流通を生み出す端緒を開く画期の一方で、それを活用したナチスと全体主義の台頭を醸成したその空気がここには流れる。そしてそれが今と重なり、強く揺さぶられたのだ。
第1楽章トッカータ、あちこち音がふっ飛ぶさまは大小の歯車が回転しつつ軋むのに似る。グリッサンドは回転数の上下音(うぃーんうぃーん)、トレモロの震えはネジ巻き摩擦音、vaガーガーガーガーは故障サイン、一瞬の休止からvn上行下行急流をぶった切る垂直ラインはギアチェンジ、と機械に翻弄されるチャップリンの姿もありあり見えてきて、思わず筆者、笑ってしまう。
一転、緩徐楽章は3者絡みあう薄暮の抒情、貧困の中、孤児になった少女の心象のようで、重く切なくやるせなく、とりわけvcの高空を恋うような高音、泥の河底を覗くような低音の歌い口が食い込んでくる。vnとvaの二重奏も内密で、職なし男と少女の夢想の語らいのよう。多彩なニュアンスでのピチカートに弾むスケルツォ楽章、最後のvcアルコの決めも効いた。終章フーガ、活気に満ちたテーマとメリハリある構成感に若さが横溢、中間部vcの歌は第2楽章の振り返りと聴こえ、そこから終尾に向けての追い込み、白熱、これでもかの念押し音型の執拗に(壊れた蓄音機みたい)、再び工場シーンが浮かぶ。
年若いリズルにこの時代の不穏など想像もつかぬだろうし、このような聴き方は特殊でもあろう。けれども例えばヒンデミット自作自演録音のもつどこか追い立てられるような切羽詰まった息遣いに対し、むしろ柔軟、しなやかでスタイリッシュな彼らの演奏に、また別の物語を受け取った。
コロナ禍の中で突き進む急速なIT化がウィルスとダブルで襲う今日(1924年と似たような状況下)、「時代」というものの不可抗力に押し流されることなく、といって力で抗うのでもなく、『モダンタイムス』のラストシーンのような足取りと明るさをふと感じさせた、そのセンスに光を見る。
ベートーヴェンはのっけの響きの流れ、造りから清風吹き込むここち。
逆にモーツァルトはディヴェルティメントにしてはシャープで、筆者はそうした彼らの音楽に「私たちの」という朗らかな「主語」を聴いた。
自己主張すべきところで嬉々として前のめりになるところも(ヒンデミットでvaが特にそうなるのは当然だが)、はいお願い、とか、あなた出てね、とか互いにサインを送るさまもそれぞれで、そこに「私たち、これからです!」という溌剌たる爽やかさがある。
「かくあるべし」の四角四面を自由に折って、ふいふい翔んで行ってもらいたいものだ。
ただ気になるのはこの面々に限らず日本の若手たち、コロナで外来不在とて、あちこちの舞台を駆け回っているように見受ける。
若手がステージに立つ機会がない、との嘆きを室内楽のヴェテラン奏者から聞いたのはほんの2年前。大規模公演ガタ減りを埋めるべく、チャンス到来など踊らされることなく、自分たちのペースで歩んで欲しい。
ベルトコンベアに載せて使い回すような旧来発想に巻き込まれることなく、弾くのが楽しくて、嬉しくて、ひまわりが咲くようなその笑顔を、いつも舞台に咲かせて欲しいと思う。
(2021/7/15)
—————————————
<Performers>
Trio Rizzle : Fumika Mohri, vn / Ayako Tahara, va / Tatsuki Sasanuma, vc
<Program>
Beethoven: Trio für Violine ,Viola und Violoncello D-Dur op.9-2
Hindemith: Trio für Violine ,Viola und Violoncello Nr. 1 Op.34
Mozart: Divertimento für Violine ,Viola und Violoncello Es-Dur, KV563
〜〜〜
Beethoven:Serenade D-Dur op.8 für Streichtrio
5. Satz Allegretto alla Polacca / 1. Satz Marcia