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てらしまりくやとウタあホウ|西村紗知

栗友会ぶてぃっくコンサート番外編 てらしまりくやとウタあホウ
RITSUYUKAI Boutique Concert Extra edition “TERASHIMARIKUYA and UTA-AHOU”

2021年6月30日 豊洲文化センター シビックセンター・ホール
2021/6/30 Toyosu Civic Center Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真撮影・提供:関和行

<演奏>        →foreign language
寺嶋陸也(ピアノ)
麻山皓太(ウタ)
赤坂有紀(ウタ)

<プログラム>
林光『もどってきた日付』〈1979年〉より(ピアノソロ)
6月 物語
8月 魚のいない水族館
10月 花の歌
林光/詩:佐藤信 『赤電車』〈1974年〉
~休憩~
寺嶋陸也/詩:小野山紀代子 『3つの歌』〈1985年〉
寺嶋陸也/詩:寺山修司 『五つの抒情詩』〈1986年〉
寺嶋陸也/詩:佐々木幹郎 『鎮魂歌』〈2021年初演〉
『明日』〈2019年〉
『風のなかの挨拶』〈2021年初演〉

 

まず、林光のピアノソロ作品から演奏会は始まった。寺嶋陸也の硬質で細部まで統制の行き届いたタッチとフレージングで、作品が、作品自体が自ずから語り出す。
「6月 物語」「8月 魚のいない水族館」「10月 花の歌」の3曲いずれも、佐藤信の詩に基づいた原曲をピアノソロのためにアレンジしたものであるから、無言歌のようなつくりをしている。
「物語」は即興的に楽想がつながっていく小さな変奏曲で、透き通ったコラールでカットアウトするように終わる。「魚のいない水族館」の無色透明の長音は人間の不在を表し、主旋律が異なるパートに代わる代わる引き継がれていくので、人間がいない空間に取り残された、風景や物陰が言葉をもつかのようだ。「花の歌」は冒頭に低音部で提示される、2つの呻くような和音のループが、痛みをかたどっている。
林の書法がかなえるのは、空間的で複視点的な抒情性である。作品自体が自ずから語り出す感というのを、そのように言い換えてもよいのではないかと思う。

さて、筆者は作曲家・林光の仕事をこんにゃく座の作品でしか知らない。この日のプログラム前半にあったようないわゆる「ソング」を、こんにゃく座の歌役者が歌っているのしか聞いたことがない。今回は栗友会の会員によるコンサートというので、足を運んだ。
「ウタあホウ」は、麻山皓太と赤坂有紀からなるユニット。寺嶋のピアノソロに続き披露されたのは連作歌曲『赤電車』で、戦時中の疎開先を主たる舞台に複雑な心情を描いたこのテクストに対し、2人はそれぞれの個性を極力なくして媒体にならんとしており、そのことが印象に残る。テクストを、彼ら二人がそれぞれ黒子になって動かしていくようだった。演出を最低限に抑えたのは、テクストを前面に押し出すという点で理に適っていた。
音楽のスタイルはバラエティに富む。新古典主義的な乾いた音調が聞こえたと思えば、シェーンベルクの無調期のピアノ曲のような、表現主義的なものが登場するところもある。林間学校に行っている息子からの手紙が読み上げられるシーンのバックには、病んだワルツが聞こえる。トリルは痙攣のようにこわばっていた。童謡「春の小川」の引用もまた、きわめて厳しい異化効果のもと鳴り響く。新古典主義的なものは機械的で、表現主義的なものは生体的。機械と生体との狭間で揺れ動く人間という像が見えてくる。この像は戦時下を生きる人間を思い浮かべるにあたり、説得力に満ちている。
歌のアカペラとピアノの弾く断片とは、多くは交互に交替しながら鳴るようになっていて、歌とピアノが随伴するときはアリアのときくらいだった。これはそのまま抒情性の迸る時間、つまり、機械と生体との狭間から人間の精神がほんのわずかだが飛翔する時間に他ならない。同様に、女声と男声の直接の対話や二重唱というのも、後半になってやっと出てくるのであり、これもまた効果的であった。
空間的で複視点的な抒情性は、音楽の様式や形式に対する徹底した計画性に裏付けられている。

後半の歌曲は寺嶋の作品。『3つの歌』〈1985年〉、『五つの抒情詩』〈1986年〉は寺嶋の初期の作品、ということになるだろう。プログラムノートには、「『3つの歌』のほうは学校の作曲レッスンに持って行った記憶が無いが(林光に見せた記憶はある)、『五つの抒情詩』はレッスンに持って行って、とくに1曲目「汽車」のピアノパートについて師匠の間宮芳生からアドヴァイスを受けながら作曲した。」とある。
その、切っ先のごとく無駄がなく、爽やかで伸びやかな音楽は、線的で極私的な抒情性と言い表したくなるものだった。
特に寺山修司の『五つの抒情詩』につけた音楽は、シンプルな音型の反復に切実な表現が宿る。それは、現象そのものというより、現象を凝視する視神経の緊張が、音楽になっていくようであった。
東日本大震災の直後に発表された詩『鎮魂歌』『明日』『風のなかの挨拶』でもその辺り首尾一貫している。林の『赤電車』の終盤には本当に恐ろしいトーンクラスターがあったのだが、寺嶋はこの震災というカタストロフの表現にそういう方法を採用しなかった。寺嶋の作品にとって、心音のわずかな動揺や、神経のざわめきこそ表現の要なのである。筆者にはそう思えた。

どちらの抒情性が正しいかというのはわからない。もっぱら、各々の抒情性の向こう側に見えてくる現実を、直視することのみが正しいだろう。

(2021/7/15)

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<Artists>
Rikuya TERASHIMA(pf)
Kota ASAYAMA(vocal)
Yuki AKASAKA(vocal)