NODA・MAP「フェイクスピア」――いったいどこまでフェイクなのか|田中里奈
NODA・MAP「フェイクスピア」――いったいどこまでフェイクなのか
Text & Photos by 田中 里奈 (Rina Tanaka)
(一般注)本評は、5月28日の時点における観劇体験を基にして書かれた。1か月を超える公演期間中に、作品のあり方が変化するであろうことは想像に難くない。だが、演劇が作り手と観客との間で生成されるものであると仮定するなら、筆者が居合わせた特定の回について記述し、そこになんらかの意味を筆者(あるいは読者)が見出そうと試みることもまた、決して誤りではないだろう。
以上の理解のもとで本評が執筆されたことを、予め断っておきたい。
いったいどこまでがフェイクなのか
観劇前に「フェイクスピア」というタイトルから得られた推測は、この作品の中で虚構(フェイク)と現実(リアル)とが交錯し、そこにシェイクスピアが絡むであろうということだ。物語の主軸に社会的な大事件が関わってくることも、野田秀樹による過去の作品をいくつか観たことがある人ならば、「あっ、野田っぽい」と思うのではないだろうか。そう、『フェイクスピア』の脚本や演出はちょっと古めの野田作品を彷彿とさせる。現実社会と古典をひとつの視野に収め、豊かな言葉遊びとスピード感のあるテンポで縦横無尽に駆け巡っていく、あの作風だ。
そういえば、以前の作風に立ち戻ったかのような新作と言えば、今年4月に初演された劇団☆新感線の『月影花之丞大逆転』(2021)が思い出されるi.。ベテランも若手も相変わらずはっちゃけていた。果たして、近年の新感線作品にみられていた比較的真面目な作風を見慣れていたであろう新規の観客層がついていけたかどうかはわからない。だが、悪ノリに慣れていた観客からすると、暴走するテンションについていくことはさして苦にならなかっただろう。ついていこうと試みる中で自分の体力的な衰えに気づいてしまうかもしれないが…。そのあたりは、米米CLUBのコンサートに行くとMCのタイミングで着席を促されるのと、あまり変わらない気はする。
話を戻そう。『フェイクスピア』の脚本と演出から感じられる〈昔の作風〉というフレームは、だがしかし、その上演からは浮いていた。少なくとも、過去の野田作品と類似した疾走感を、今回の公演から筆者が感じ取ることは無かった。むしろ、言葉遊びの高速キャッチボールから無限に広がっていったかもしれない野田の世界観は、つねに中断され、切断されていた。
これをもし故意にやっているのであれば、『フェイクスピア』は奇作だ。だが、「故意に」という点が、筆者には消化しきれない問題だった。言い換えるとこうなる――いったいどこまでがフェイクで、どこまでがフィクションだったのだろうか?
素なのか、それとも演技なのか
この問いを考えるうえで注目したいのは、『フェイクスピア』における白石加代子の立ち回りである。第2場に「白石加代子でございます」という挨拶と共に颯爽と登場し、場の空気をさっそく攫っていった白石だが、「皆来アタイ」役を演じ始めてから、なんだかいろいろとおかしなことになっていく。
白石の役は、「プロフェッショナルのイタコに50年の間、昇格できずにいるイタコ見習い」という設定だ。それがどうも今回は昇格できそう(=自分を依り代にした口寄せ降霊術ができるようになりそう)…という場面にさしかかった時、白石の発話に先行して、舞台下手から白石の台詞を発する声が聞こえてきた。舞台袖から白石のプロンプトを行っている人がいるのだ。しかも、聞こえてくる声からして、プロンプターは明らかに野田秀樹だ。プロンプターが入ったことで会話のテンポは若干崩れた。とはいえ、「きっとこれは演出なのだろう」、と筆者は解釈した。死者の声をイタコが語るという行為において、イタコが死者の声を聞いてから、それを代弁するまでの間には、ラグが生じる――そのラグがここで表現されていると思ったからだ。
次の場面で、今度は白石が台本を持参してきた。これも実に演劇らしくみえた。なにしろ、白石の演じるイタコ見習いに依り付くのは、シェイクスピアだったり、本作でシェイクスピアの息子を騙るフェイクスピアだったりする(劇中では、シェイクスピア親子の両方を野田秀樹が演じている)。白石の役は、彼ら劇作家の言葉を代弁する俳優≒イタコ見習いという設定なのだろう。つまり白石は、台本を手に持ってはいるが、それは一種の小道具でしかなく、あえて「台本を参照する」という演技をしているのだろうと、筆者は思い込んだ。
だが、場面が進めば進むほど、上記の解釈に自信が無くなってきた。白石は、手元の台本を熱心に見返し、時折読み上げる台詞や手順を間違え、そういうことが幾度も繰り返された。狂言回しがそんな具合なので、野田らしい言葉遊びもスピーディーなテンポも解体している。それどころか、舞台上が非常に薄暗くなる場面においても、白石の手元で台本を照らす小さな照明が光っているので、舞台全体の照明が作り出そうとしていたであろう雰囲気も十全に機能していない。最後の場面で、イタコ見習いの衣装を脱いで「白石加代子」に戻ってもなお、白石が台本を持ち続けたのを見て、筆者はようやく、「ああ、これは演技ではなかったのだ」と結論付けるに至った。
演劇を侵食する現実
台本を読む演技なのか、素で台本を読んでいるのか――それがイマイチわからないくらいが、「フェイクスピア」らしいとは思う。なにしろこの作品は、フィクションを優に超えていった、強度のあるノンフィクションに関する物語なのだ。そう理解するには、親子愛に回収されていく本作の月並みな終わり方に違和感はあるにしても、だ。
演劇という枠組みの中で虚構が現実に蝕まれていく様を描いているのなら良い。だが、もしそれが意図せぬ形で、本当に虚構が現実に蝕まれているのだとすれば、それは今日の単なる現実でしかなく、演劇の遊戯性はそこに成立しえないのではないか。
ことわっておくが、演劇の虚構性をあえて危機に晒す作品はたくさんある。プロンプターを舞台上に置いた芝居で真っ先に思い出されるのが、2016/2017年シーズンにブルク劇場のアカデミーテアーターで初演された、ルネ・ポレシュによる『キャロル・リード Carol Reed』だii.。同作では、舞台装置が一切置かれていない、がらんどうの舞台上に俳優4名が集まり、台詞なのか愚痴なのかよくわからない、メタなマシンガントークを繰り広げる。それが俳優のアドリブではないと辛うじてわかるのは、舞台上に立つプロンプターによってだ。俳優4人の傍らにつねにいながら、演技を一切していないという点で明らかに異質なプロンプターの存在が、この作品における演劇性を意図的に付与していた。
あるいは、『放浪記』の森光子や『ラ・マンチャの男』の松本白鸚のように、作品の虚構性から伝説的な俳優の存在が飛び出してくる公演を連想することもできたのかもしれない。だが、そのように機能するには、『フェイクスピア』の物語は確固としてありすぎて、そこからはっきりとはみ出している白石の非常に強い存在感との間で、上演の食い合いが起こっていた。
いったいどこまでが虚構なのか――この問いは、劇場の外で立てられすぎていて、もはや虚構と現実の混在という危機感すら今日では揺らいでしまって、麻痺しつつある。
ごく率直な話、演劇は否応なしに現実からの影響を受けるが、それと同時に、演劇は現実を虚構の側から垣間見る行為をも引き起こす。このような考え方をするのは、ベルトルト・ブレヒトによる叙事演劇以来の、あるいは20世紀初頭に始まる政治的な諸芸術の系譜の中で、演劇と社会との関係が極めて切実なものとして再認されようと試みられ続けてきたにもかかわらず、筆者の理解では、その問いに対する答えがことごとく着地点を見つけられず、宙を漂い続けているからだろう。日本をめぐる演劇に差し迫ったフィクション/ノンフィクションの問題は岩城京子がこれまでにたびたび指摘してきたしiii.、コロナ禍に入ってから生じた世界規模での〈現実⇆虚構〉の反転現象に関しては、論考やオンライントークにおける共通問題として繰り返し認識されているように思われるiv.。そこまで考えた時、現実が虚構を侵食する上演にいま居合わせるという出来事に対し、つねならば感じなかったであろう恐ろしさを、いっそう感じてしまうのだ。
とはいえ、公演期間中にきっと現れるであろう、この作品の今後の変容が楽しみではある。その種の変容をある程度安心して許容できるような状況になればいいのだか、それはまた別の話になるだろう。
(2021/6/15)
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NODA・MAP『フェイクスピア』
東京公演:東京芸術劇場プレイハウス、2021年5月24日~7月11日
(鑑賞日:2021年5月28日)
作・演出:野田秀樹
美術:堀尾幸男
照明:服部基
衣装:ひびのこづえ
音楽・効果:原摩利彦
音響:藤本純子
振付:井手茂太
ヘアメイク:赤松絵利
舞台監督:瀬崎将孝
プロデューサー:鈴木弘之
出演(掲載順):
mono:高橋一生
アブラハム:川平慈英
三日坊主:伊原剛志
星の王子様/伝説のイタコ/白い烏:前田敦子
オタコ姐さん/烏女王:村岡希美
皆来アタイ:白石加代子
シェイクスピア/フェイクスピア:野田秀樹
楽:橋爪功
石川詩織、川原田樹、手打隆盛、的場祐太、岩崎MARK雄大、白倉裕二、花島令、水口早香、浦彩恵子、末冨真由、間瀬奈都美、茂手木桜子、上村聡、谷村実紀、松本誠、吉田朋弘
(註)
- 劇団☆新感線『月影花之丞大逆転』2021年2月26日~4月4日(東京公演・東京建物ブリリアホール)、2021年4月14日~5月10日(大阪公演・オリックス劇場、4月28日以降の公演中止)。
- René Pollesch, Carol Reed, Saison 2016/2017, Burgtheater, Akademietheater, .
- ごく一例だが、以下の論考など。“Japanese Theatre after Fukushima: Okada Toshiki’s Current Location,” New Theatre Quarterly, Volume 31, Issue 1, 2015, pp. 70-89.
- 直近の書籍だと、ベルギーの劇場NTゲントが2020年10月に出版した『Why Theatre?』では、コロナ禍における「なぜ〈演劇=劇場〉なのか?」という問いを、世界各地で活動する100名以上のアーティストと知識人に宛てて発信し、その回答を網羅的にまとめている。日本からは岡田利規が寄稿している。
あるいは、演劇・パフォーマンス学系の学術誌『The Drama Review (TDR)』の2020年秋号に掲載された「フォーラム:コロナ後、どうなる? Forum: After Covid-19, What?」には、編集委員から計15本の特別寄稿があった。その日本語訳を、編集委員のひとりでもある内野儀がオンライン誌『かもべり』に発表してもいる。