BOOKS|『日本大衆文化史』|戸ノ下達也
『日本大衆文化史』
編著者 日文研大衆文化研究プロジェクト
発行 株式会社KADOKAWA
2020年9月18日発行
ISBN 978-4-04-400563-4 C0095
Text by 戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
1.書評の意図
本書は、日本の「大衆文化」を、「コモンズとしての「世界」から「群れとしての作者」たちによってその都度たち現れる「文化」」(20頁)と定義して、古代から現在に至る日本の歴史の歩みに即して再考するものである。
本書を取上げる理由は、いみじくもコロナ禍で浮き彫りとなった文化芸術の様々な問題を目の当たりにして、改めて文化芸術の歩みを歴史に位置付け、見据える必要性を実感しているからである。通史である本書でも、4章以降のほぼ半分を割いて、近現代を俯瞰していることを見ても、近現代史から文化のいとなみを再考することを重視していることが感じられる。
本書の構成と執筆者は、以下のとおり。
序「日本大衆文化史は可能なのか」 大塚英志(4~7章代表著者)
第1部 声と身体
1章「物語と座の時代(8世紀~16世紀)」 久留島元(1章代表著者)、伊藤慎吾
2章「声とパフォーマンスの時代(12世紀~16世紀)」 伊藤慎吾(2章代表著者)
・コラム「「絵の本」の歴史―小絵から児童文学まで」 伊藤慎吾
・コラム「太平記読み―テキスト、講釈、メディア」 木場貴俊
第2部 メディア
3章「木版印刷と「二次創作」の時代(17世紀~1890)」 香川雅信(3章代表著者)、木場貴俊
・コラム「オヅ・ヨシサダ青年のディレッタンティズムー江戸のオタク青年の脳内城下町」 木場貴俊
・「鬼魅の名は―妖怪名称と大衆文化」 香川雅信
4章「「私」とアマチュアの時代(1900~1920)」 佐野明子・北浦寛之・山本忠宏・前川志織
・コラム「パノラマの経験―仮構される戦場」 山本忠宏
・コラム「画工と画家―広告の図案制作者たち」 前川志織
第3部 メディアミックス
5章「参加する「素人」たち 群衆と動員の時代:前期(1920~1950)」 佐野明子・北浦寛之
・コラム「スタジオは生きているーアニメーションにおける協働/集団制作」 佐野明子
・コラム「「蒲田行進曲」と裏方たちのドラマ―映画撮影所の歴史と伝統を受け継ぐ者たち」北浦寛之
6章「遅れてきたテレビ 群衆と動員の時代:後期(1950~1980)」 近藤和都
・コラム「模型の近代史―メディアとしてのモノ」 松井広志
・コラム「レイヤーとしてのトーキーアニメーション」 王琼海
エピローグ デバイス
7章「プラットフォームとデバイスの時代(1980~現在)」 近藤和都、エルナンデス・エルナンデス・アルバロ・ダビド
・コラム「ボーカロイドとは何か―初音ミクという創作活動ムーブメント」 エルナンデス・エルナンデス・アルバロ・ダビド
この構成からも一目瞭然だが、文化の表象を踏まえた時期区分に基づき分担執筆された論考と、その論考を挟む形で、さらにミクロな視点から考察するコラムを配するという、意欲的かつ刺激的な通史である。
2.各章の論点
序章:
序章では、「日本大衆文化史」という、本書の意図を解説する。
まず通史という手法による論述について、「歴史記述に学術的な根拠は当然必要だとしても、通史は未来永劫の果てに達成される聖典ではなく、現在形で語られ更新され続けてしかるべきではないか。一体、道標のない時間軸を人は、社会はどう生きればいいのか」(9頁)と問いかける。そして、「大衆」を「群れとしての作者」と定義し、「「群れ」としての作者は、いかにして「語る」のか。そこに本書は肝心の軸足を置く」(17頁)とする。そのうえで、「アマチュア」と「素人」という「二つの「大衆」像を「理念型」として示す」(22頁)という最終的な狙いを述べている。
通史の重要性は、著者の指摘のとおりだ。時間の経過と共に、社会がどのように変化していくか、そこに政治や経済、文化がどのように息づき、せめぎ合い、影響し合って人びとの生活や意識が形成されているのかを概観することは、ピンポイントで事象のみを捉えるのではなく、時間の経過に即して刻一刻と変化する社会を意識し、考えることにほかならない。通史の重要性が軽視されていることへの警鐘は、傾聴に値する。
・1章「物語と座の時代(8世紀~16世紀)」
本章は、8世紀から12世紀に至る400年の時代と、その後も視野に入れつつ「物語」の系譜を考察し、さらに「座の文芸」として、連歌や俳諧にも視野を広げて「大衆文化史」を紐解いている。記紀神話から説話、武家物語、和歌集などの系譜を辿りつつ、それらが無名や匿名で後世に伝承された点を注視する。さらに連歌師、座、俳諧に至る系譜の中で文芸が人びとや文化の交流として深化することが論述される。
・2章「声とパフォーマンスの時代」
中世を扱う本章では、舞踊、説話、音読、歌謡などの身体や音声をもちいたパフォーマンスを取上げる。能や狂言、語りのパフォーマンスとして機能した「寺社の造営や修造等の資金や物資調達」(58頁)を目的とした勧進と開帳の親和性、「縁起」「物語」「お伽」の語り=音読や謡いが、日常化し、さらにこれらの文芸の主人公が、近世へと語り継がれていく系譜が論述される。
・3章「木版印刷と「二次創作」の時代
本章は、木版印刷(製版印刷)の発展と衰退を軸に、17世紀から1890年代までを扱っている。まず江戸時代になって、従前の筆写から大量印刷を可能とする木版印刷が、「単なる「印刷」でない、営利事業としての「出版」が大きく発展していく」(89頁)過程と共に論述される。そして「書物」「草子」が普及し、SNSとしての俳諧とそのネットワークの拡大、浄瑠璃のテクスト化や歌舞伎の広がり、「草子本」の出版や販売、絵草子と新聞の連続性など、いくつかの表象が具体例と共に例示される。
・4章「「私」とアマチュアの時代」
本章は、「メディアの流通網と識字率上昇」「グローバルな文化との同時代性や旧文化に替わる新しい文化様式の更新」(130頁)がなされたことを根拠に1900年を起点として1920年代までを見通している。西洋化・近代化と天皇制という社会状況の中で、「太平記」を軸とする「正史」の大衆文化、日本人論、空間や移動の表象としてのパノラマ、落語・講談・歌舞伎・浪曲など音声文化とその文字化という複製文化の融合、言文一致や探偵小説、同人誌などの「書く読者」の登場、図案や広告、映画など視覚文化への影響、これらの領域に現れる「アマチュア」の登場などが、多角的に論述される。
本章の時期は、まさに都市化・大衆社会化・メディア化の時代であり、この社会状況が文化の変容に大きく作用している。このことが本書でも意識されていることは、本章に50頁が割かれていること、5人の著者の分担執筆となっていることからも、見て取れる。
・5章「参加する「素人」たち」
本章は、前章を受けて1920~1950年代を見通す。ここで言及された、関東大震災後の「大衆」「群衆」と宣伝、映画やアニメから見た「アマチュア」、新体制運動で顕著となる協同主義での「素人」の参加、紀元二千六百年や翼賛体制とテレビの関係、キャラクターや広告などのメディアミックスと国策の啓発宣伝、アニメや漫画などの視覚文化にみる戦時下から占領期の表象などは、この時期をライフワークとする評者にも非常に興味深く、同時に後述するような疑問と問題提起を読み取った。
・6章「遅れてきたテレビ」
本章では、1950~1980年代を扱う。ここでは、のど自慢や投稿などラジオに顕著な聴取者の番組参加や、うたごえ運動に見られる「素人」の参加、テレビの放映開始の背景や番組に見る傾向、まんが・劇画・アニメの手法などを題材に、戦後復興期から高度成長期にかけての「大衆文化」の状況が論述される。
・7章「プラットフォームとデバイスの時代」
本章は、1980年代以降現在に至る時期を、パーソナルコンピューターとインターネットを軸に紐解く。その視座は、その参加者とシステムの関係と、デバイスに内在する課題に置かれている。題材として提示されるのは、ニューアカデミズム、文学、オウム真理教と歴史修正主義の台頭、同人誌とミニコミなどの表象であり、これらがSNSや動画での投稿や匿名性、参加型プラットフォームの課題などの現状の問題へと繋がっていく構成で論じられる。
3.本書の特徴
(1)分担執筆の課題克服
本書の最大の意義は、私たちの身近にある文化の表象を、古代から現在に至る「通史」に位置付け、その継続性や解釈のヒントを多角的に照射したことである。その照射には共通する軸が設定され、分担執筆という枠を越えてその軸が共有されて論じられることで、取り上げる文化の諸相が鮮明になっている。複数の著者による編著の場合、論考間に齟齬があったり、同じ内容の考察が重複したりというはなはだお粗末な著作に巡り合うことがある。かく言う評者も、編著や共同執筆の書籍を刊行した経験があるが、執筆者の統一した軸の設定、各論考の矛盾の解消は必須と認識し、心して取組んできたが、これがなかなかに難しい。本書はその困難を克服して、より説得力のある文化史を描くこと成功した。それは、各章で代表著者を設定して「大衆文化史」を紐解くという目配りを徹底していることも奏功しているのだろう。編著のひとつのあり方を提起している。
(2)理念型提示と共通する視点
評者が最も注目したのは、全編の核となっている「アマチュア」と「素人」という二つの理念型を補完する形で提示された、「太平記」、「二次創作」、近世になって大きな枠組みとなる物語の「「世界」をリストアップしたもの」(100頁)として提示された「世界網目」、「メディアミックス」という四つの視点だ。
例えば、1章で、武家の教養と物語の生成モデルの典型として例示された「太平記」は、中世から近世にかけて講義や講談=芸能としての「太平記読み」や出版へと裾野を広げ(コラム「太平記読み」での解説で一目瞭然)、さらに戦時期に唱道された現人神たる天皇の「正史」あるいは「忠臣」を表象するものへと昇華する(第4章)。この背景には、戦時期に「近代化と明治国家を根拠づける「大きな物語」への合流が求められた」=「世界綱目」の中で「太平記」がクローズアップされ、物語としての「太平記」が講談などの芸能で「二次使用」され、出版・語り・演者・啓発手段としての「メディアミックス」が展開していく。この各章にまたがる「太平記」の考察は、歴史のダイナミズムの中で、一つの文化がどのように息づき、人びとの身近で深化し根付いてきたのかを、端的に映し出す例示と言える。
以上は、この四つの視点が重なる事例だが、本書では随所でそれぞれの視点が単体で、あるいは複合して考察されていて、文化史を理解するヒントを提示してくれる。「二次創作」では、物語から芸能へと発展し、プロパガンダや啓発宣伝に至る系譜、「メディアミックス」や「世界綱目」では、「大衆」の教化動員や啓発宣伝の事例、新聞・雑誌という活字メディアや、ラジオ・テレビなどの放送メディアの事例、映画、漫画・アニメ、デバイスなど、様々な系譜が、それぞれ多角的な事例により考察され、相互に機能しながら、歴史の中で、また今を生きる私たちの日常の中で息づいていることを指摘している。これらの視点は、「大衆文化」がいかに社会状況や「大衆」の意識を反映し、根付いていたのか、また変化していたのかを一層明確に物語る軸である。この切り口を提示したことは本書の卓見であり、さらに同時代の先鋭的な文化の表象をコラムで補完していることも特筆されよう。
4.評者の視点
(1)理解の深化のために
本書ならではの鋭い考察を踏まえたうえで、評者の感じたことを整理してみたい。
第一は、「通史」を標榜する前提としての歴史認識である。対象とする時代の歴史的な全体像は、第4章では冒頭の節で詳述されているが、他の章では全く言及されていない。「大衆文化」の特徴を通史として描くのであれば、その前提として各章で考察する時代の歴史的なポイントは例示して欲しかった。そうでないと扱う時期のエポックが見えず、なぜ例示された「大衆文化」を扱うのかの根底が掴みにくくなってしまう。
第二は、4章以降で扱う時期の、政治や軍事と「大衆文化」との関りである。特に4~6章は、戦時期という総力戦体制の時代が敗戦で破綻し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による民主化政策と逆コースによる冷戦、高度成長と続く社会や文化状況を理解する上で、内閣の政策、台湾や朝鮮の総督府、占領地の軍制を担った陸軍などの施策の考察は必須である。本書では、近衛新体制が例示されてはいるが、満洲事変期から日中戦争期にかけて徹底した取締を展開した内務省の娯楽政策や、アジア・太平洋戦争期のインテリジェンスや文化政策を主導した情報局の認識や施策には一切言及されていない。政治や軍事と文化が密接に関連している時代のあり様は、考察の前提としてどのような政府の施策が展開したのかを整理すべきである。
第三は、「日本大衆文化史」というタイトルが醸し出すイメージである。一見すると、「知識人」に対する「大衆」のように見えてしまう、「日本大衆文化史」という本書のタイトルが、いかにもアカデミズムによる上から目線のように感じてしまうのは、私だけだろうか。
(2)解釈の誤り
最期に一つだけ看過できない点として、拙著を参照した「国民歌謡」の致命的な解釈の誤りを指摘したい。
本書5章の「投稿する「素人」」の節で、日本放送協会のラジオ番組「国民歌謡」について「戦時下、大量に製作された「国民歌謡」も「投稿」に支えられた(中略)当初はプロの作詞家によるものが主流だったが、日中戦争を境に、国家機関や軍がメディアと協同して「国民歌謡」の公募を量産する体制ができあがる」(226頁)と整理し、拙著を注記に掲げている。この視点は、第6章でも「音楽によるメディア参加は、戦時下、素人による「国民歌謡」の作詞投稿へと変化する」(268頁)と継承される。まさか拙著が参照されているとは知らずに読んでいた評者にとって、参照いただいたことは大変光栄に思う一方で、拙著の整理が誤って解釈されていることが残念でならない。
そもそも「国民歌謡」は「投稿に支えられた」ものではなく、あくまで当時の社団法人日本放送協会が独自に委嘱もしくは、既に発表されていた楽曲を選んで放送したものである。決して素人の「投稿」によって楽曲を製作し発表したものではない。拙著では「国民歌謡」として放送された楽曲の性格について、
「これらの楽曲は、その特徴によりさらに類型化できる。第一は、大和撫子像や銃後を守る女性像といった「女性」をテーマとしたもの、第二は軍事関係以外の国家イベントのためのもの、第三に皇国や皇軍賛美のもの、第四に国民精神総動員への呼応、第五に戦時下の国民運動や国民生活を題材としたものであった。これらの楽曲は、さらにその制定形態によって日本放送協会の委嘱によるもの、放送局以外の政府機関や官製国民運動団体、メディア等による公募や委嘱によるもの、各種の選定歌・制定歌の三つに分類できる」(戸ノ下達也『「国民歌」を唱和した時代』(吉川歴史文化ライブラリー、2010年)28頁)
と総括した。拙著では、「国家目的に即応し国民強化動員や国策宣伝のために制定された国もしくは国に準じた機関による「上から」の公的流行歌」を「国民歌」と位置付け、「国民歌」が主としてメディアや官製国民運動団体、政府などが公募により指定したことを論じた。「国民歌」の多くが「素人の投稿」によって生まれたという記述であれば正解だが、「国民歌謡」は「素人の投稿」で制作されたものではない。「国民歌」と「国民歌謡」を混同してしまうと、このような誤った認識となってしまう。この点は、戦時期の音楽文化を正しく理解いただくためにも、ここで指摘させていただきたい。
5.読み終えて
本書の序章からエピローグまで通底する理念型や軸は、文化史を紐解く上で示唆に富むものであり、共同執筆という広い視野で文化を見渡していることも、また魅力的である。さらに、理念型として提示された「アマチュア」と「素人」という前提は、同時にこの理念型だけで「大衆文化史」を見通すことができるか否か、という問題提起でもあるだろう。「アマチュア」「素人」という型だけでなく、職業として文化の担い手として活動する人びとの存在もまた文化史に位置付けなければいけない。このような理念型という枠組みを超え、「人間のいとなみ」としての文化のあり様を受け止め、考えていくことが私たちに課せられた責務だろう。
特にコロナ禍で活動停止を余儀なくされた文化に携わる全ての人びとのあり様、「文化芸術立国」を標榜しているにもかかわらず、文化の担い手の窮状を全く理解せずアフターコロナの活動支援・助成のみを掲げる内閣の文化政策の現実、文化の担い手の悲鳴を吸い上げ政策に反映させた党派を超えた立法の懸命の努力という現実から得られた教訓や課題を、どのように受け止め、将来に反映させなければいけないか。本書は、冷静な文化史の理解と現状分析の必要性を提示している。
(2021/6/15)