Menu

評論|伊福部昭―独り立てる蒼鷺―5.鬼が泣いている……『交響譚詩』|齋藤俊夫

5.鬼が泣いている……『交響譚詩』
Ogre is crying ……“Ballata Sinfonica”

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

心敬という室町時代の歌人が、『さ丶めごと』という連歌論の中で、こんなことをいっております。藤原定家の言葉を引いて、「……鬼とり拉ぐ體を歌の中道と申し給へる……」というのです。つまり、鬼すらをも捕まえて押しつぶす、勢いをくじいてしまうほどの「鬼拉(きらつ)体」を、歌道の1番正しい道だという。(略)幽玄だとか静寂だとか神秘だとかは、日本人ならば誰でも行ける境地なんですね。幽玄なんて芸術としては安易なものなんです。心敬がいう鬼拉体、鬼さえも引っ張ってくるほどの力強さがなければ、日本の芸術はダメなんですよ。1)

鬼拉体、伊福部音楽の力強さを表すのにこれほど的確な語は他にないとすら思える。だが伊福部音楽の他方には孤独を湛えたエレジーや優しきアダージョも存在する。鬼とり拉ぐ力もて優しさに至る、それこそ真なる豪の者であり真なる音楽であると言えよう。
その豪の者が耐え難き悲しみに出会った時、彼は何を歌うであろうか。

今回取り上げる『交響譚詩』(1943作曲・初演)は1942年に急逝した、伊福部昭の2つ違いの次兄・勲に捧げられた作品である。勲はギター、コントラバスを良くし、特にギターはNHK札幌放送局で彼の独奏番組が組まれたり、「札幌ギター連盟」の中心人物としてギター演奏会を次々と実現するなど、精力的と言うだけに留まらない活動を繰り広げた音楽青年であった。昭の(現在楽譜の所在不明の)ギター曲『JIN』『ノクチュルヌ』を初演したのも勲であり、「新音楽連盟」(後の音楽評論家・三浦淳史(1913-1997)、作曲家・早坂文雄(1914-1955)、伊福部昭によって結成された団体)による1934年の「国際現代音楽祭」では昭がヴァイオリン、勲がコントラバスを共演し、音楽を介しても強く結びつけられた兄弟だった2)

兄貴は軍事用の蛍光塗料の研究をやってましたが、これまた(引用者注:引用箇所の前に、1945年に伊福部昭が放射線を浴びて吐血して倒れた事故が書かれている)放射線を受け、血を吐いて死んじゃったんです。昭和十六年だったと思います(引用者注:実際は昭和17年)。それでその弔いの意を込めて、[『交響譚詩』を]二年ほどかかって書いたのですが、「譚詩」というのはいわばバラード、舞踏と音楽が渾然一体となっていた昔の形態です。3)

この後年の伊福部談話にはいささかの事実誤認があるが4)、他の文献に当たっても、

第二次大戦中、蛍光質の研究に斃れた兄のために起稿し、1943年春に脱稿(札幌)したものです。5)

作曲期間に矛盾が生じるコメントが見られる6)。だがこの記憶違いに拘泥するのではなく、伊福部にとっての『交響譚詩』は兄の弔いのために書いた作品である、という共通する文言にこそ彼の本心が込められており、その心がどのようなもので、作品中にどのように現れているかを見定めたい。

―――――――――――

それでは『交響譚詩』の楽譜に当たってみよう。

第1譚詩 Allegro capriccioso、楽章全体の形式は、A1(急)B1(緩)A2(急)B2(緩)A3(急)Coda(急)のロンド・ソナタ形式に近い。A1、A2、A3部では第1主題(譜例1)の強靭な響きが奏でられ、B1、B2部では哀切な第2主題(譜例2)とやや陰鬱なれど力に満ちた第3主題(譜例3)が中心に歌われ、A3部からCodaは第1主題をさらに激しくエスカレートさせた終結部である。


作曲者は「ソナタの形式をとっています」「第一主題とか第二主題、展開部というシンフォニーの定石にのっとっております」とコメントしており7)、A1-B1部を提示部、A2-B2を展開部、A3-Codaを再現部とみなしていたとも考えられるが、A1とA2は転調もされずほとんど同じ音楽であり、A3でも主題は転調されない。第1主題の展開・発展というソナタ形式の「定石」は本作では現れない。
B1とB2ではA1、A2で提示された第1主題の要素はほとんど現れず、第2主題、第3主題が支配的であり、ここでもソナタ形式での各主題が合わさっての展開・発展は見られない。第2、第3主題は転調や音価の変化はあれども音型はほぼそのままに、間に架橋的なフレーズを挟んで反復使用されるため、B1とB2は第2、3主題によるロンド形式であるとも言い得る。

第2譚詩 Andante rapsodico、は情感に満ちた8つのフレーズ(譜例4~11参照)が次々に現れるが、全体を観ると、下記の表のとおり、第55~58小節のフレーズ7を中心とした概ねシンメトリカルな形式であることがわかる。第37~39小節、第76小節の経過句で音楽の性格が変わり、かつ第77小節から第101小節までは第12小節から第36小節までに近似しているため、(第1~36小節)―(第40~75小節)―(第77~119小節)のA-B-A’の形式を取っているとも言える。

小節番号 1~11 12~20 17~24 25~36 37~39
フレーズ Ph.1 Ph.2 Ph.3 Ph.4 経過句
小節番号 40~42 43~46 47~48 49~50 51~54
フレーズ Ph.5 Ph.6 Ph.5 Ph.7’ Ph.6
小節番号 55~58 59~60 61~62 63~66 67~72
フレーズ Ph.7 Ph.5 Ph.7’ Ph.6 Ph.5
小節番号 73~74 75~76 77~85 80~89 90~101
フレーズ Ph.7’ 経過句 Ph.2 Ph.3 Ph.4
小節番号 102~108 109~119      
フレーズ Finale Ph.1    

作品全体の俯瞰から個々の音型に焦点を絞ってみよう。

譜例12は譜例1の第1譚詩第1主題を(1)から(11)まで細かく分け(譜例1参照)、その中に含まれる日本伝統音階のテトラコルド8)を示したものである。
第1主題は全体としてはAを第1音としたエオリア旋法を使用していると見えるが、細かく見るとこの主題は(例外はあるものの)民謡、律、都節のテトラコルドを組み合わせて作られていることがわかる。これら3種のテトラコルドの使用により、日本的でありながら、より複雑で交響的な音楽を実現している。

第2主題、第3主題には日本伝統音階のテトラコルドによる部分は少ないものの、第2主題は(譜例2に挙げた箇所ではEを第1音とする)第1主題と同じくエオリア旋法、第3主題は(譜例3に挙げた箇所ではCisを第1音とした)フリギア旋法と捉えられる。民謡音階とエオリア旋法、都節とフリギア旋法はどちらの組も5音を共有するため、この2つの主題もまた日本的に聴こえつつも、単純な日本表象との同一化もできないと言えよう。
譜例13が第1譚詩のCoda終結部分であるが、ここはE音を核音とし、E、F、Aの都節のテトラコルドの下に長2度でD音がディスジャンクトした日本的4音音階と捉えられる。

第2譚詩のフレーズ1~7とFinale部分(譜例4~11)で使用されている音を抽出し、それらを構成する音階を分析したものが譜例14である。都節のテトラコルドが多く使われていること、また伊福部の音階を特徴づける、核音の下に長2度、上に短2度の3音も多く現れていることがわかる。

注目すべきは、第1譚詩のCoda、第2譚詩のFinaleと名付けた、作品中最も強く速く奏される〈鬼拉体〉の部分と、それに続くフレーズである。
第1譚詩Codaにおいては、ほぼ全ての楽器によるオスティナート(反復)旋律が強奏され、怒涛の終結を迎える(譜例13)。
第2譚詩Finaleでもオスティナート旋律が強奏されるが、特に第104小節においては第1楽章Codaと共通の、短2度と同音連奏の音型が、これも第1楽章と同じくティンパニーのロールと共に現れる(譜例13、15)。しかしFinaleの最後にトランペットによるD、Es、C、Dが sostenuto e suono tenebroso(音価を十分に保って暗い音で)で奏でられ、コール・アングレによるフレーズ1、つまり第2譚詩最初のフレーズが再現され、バスクラリネット、ティンパニー、ハープのD音がかき消えるように奏されての終曲(譜例16、17)は物悲しいではおさまらない悲愴感に満ちている。

伊福部の映画や舞台演劇などのいわゆる「劇伴」音楽ではない、広い意味での(バレエ音楽なども含む)「純音楽」作品群において、弱音がそのままかき消えるように全曲が終わる本作は例外的な存在であり9)、伊福部〈らしくない〉のである。〈普段の伊福部〉ならばこの第2譚詩の激しいFinaleからPh.1でのディミヌエンドで作品を終わらせずに、再びアレグロ、フォルテの第3譚詩を書いたのではなかろうか。だが1943年の伊福部は『交響譚詩』をそのように書かなかった。

これ(引用者注:『交響譚詩』)は、兄貴が死んだり、戦争の行方にも疑問が出て来た頃の作品で、『協奏風交響曲』よりも、だいぶ元気がなくなっています。『交響譚詩』の第1楽章を力強いと言ってくれる人がありますが、本人としては、力が抜けてしまった音楽と感じています。10)

作曲者のこの後年のコメントは鬼拉体を推し貫くことができなかったことへの韜晦と見るべきだろう。亡き兄を弔う音楽には激しい終結はふさわしくないなどと考えたのかどうか、作曲時の伊福部の心中は推し量るしかないが、筆者には鬼をも拉ぐものですら逃れられない悲しみと孤独がこの『交響譚詩』終結部に凝結しているように思える。
亡兄に捧げた本作品は「山田耕筰がマニラで指揮するなど、戦時期にはとてつもない人気を博し」たという11)。その原因は、鬼拉体の激しい音楽がただそれだけにとどまらず、悲哀に満ちた最後を迎えることによって、人間と音楽の一つの真理を射抜き、それが演奏者、聴衆にも感得されたからではないだろうか。

そして日本の敗戦を告げる玉音放送の後、2週間を経たずして伊福部は喀血して倒れる。原因は亡兄と同じく職場の杜撰な安全管理であった。

ここから伊福部の〈戦後〉が始まる。

(2021/5/15)

(動画)『交響譚詩』広上淳一指揮、日本フィルハーモニー交響楽団

「伊福部昭―独り立てる蒼鷺」 (1)(2)(3)(4)

1)木部与巴仁『伊福部昭 音楽家の誕生』新潮社、1997年、401-402頁(伊福部談話部分)。筆者が当たった木藤才蔵『さ丶めごとの研究』臨川書店、1990年、17頁には以下のように記されている。

又かの後有心躰とてこ丶ろこもりたる躰、たけたかき躰とてやせさむき躰をまなび、これをよみつのりてがうりき鬼拉躰をまなべとなむ。彼の卿は鬼拉躰を歌の中道と申し給へるとなん。

2)伊福部勲については木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』春秋社、2014年、第3章-第4章(19-47頁)を主に参照した。

3)伊福部昭著、小林淳編『伊福部昭綴る』ワイズ出版、2013年、30頁(原テクストは北海道新聞(夕刊)1985年3月28日から4月8日まで連載された伊福部昭「私のなかの歴史――北の譜」)。

4)前回の年表の通り、伊福部勲の死は1942年(昭和17年)12月12日、『交響譚詩』初演は1943年(昭和18年)9月4日であり、勲の死後に2年かけて『交響譚詩』を作曲したはずはない。

5)伊福部昭『交響譚詩』総譜、音楽之友社、1958年第1刷発行、1997年第3刷発行、70頁。

6)『交響譚詩』総譜の前掲箇所の「斃れた兄のために起稿し、1943年春に脱稿(札幌)した」のならば作曲期間は長く見ても半年程度であるが、伊福部・小林『伊福部昭綴る』の前掲箇所にある「二年ほどかかって書いた」というコメントと矛盾してしまう。

7)伊福部昭談、小宮多美江聴き手「伊福部昭」、日本音楽舞踊会議・日本の作曲ゼミナール1975-1978編『作曲家との対話』新日本出版社、1982年、14頁。

8)日本音階のテトラコルド、コンジャンクト、ディスジャンクトについては、小泉文夫『日本の音』平凡社ライブラリー、1994年、300-310頁にならった。

9)筆者の管見によれば、ギター(もしくは二十五絃箏)曲『箜篌歌』、『バロック・リュートのためのファンタジア』、それと歌曲の多くは弱音で終わるが、管弦楽曲では『交響譚詩』のみが例外的に弱音で終わる。

10)伊福部昭(文責:片山杜秀)「自作を語る」『伊福部昭の芸術5 協奏風交響曲/協奏風狂詩曲』ブックレット、6頁、King Record, KICC 179, 1997年。

11)片山杜秀、CD『伊福部昭 吹奏楽作品集』ブックレット、5頁、King Record、KICC531、2005年。

使用楽譜:『交響譚詩』印刷総譜、音楽之友社、1958年第1刷発行、1997年第3刷発行。

参考録音:芥川也寸志指揮、新交響楽団、1977年8月8日ライヴ録音、「伊福部昭管弦楽選集」fontec、1999年、FOCD2545