BOOKS|『なぜ戦争をえがくのか 戦争を知らない表現者たちの歴史実践』|能登原由美
『なぜ戦争をえがくのか 戦争を知らない表現者たちの歴史実践』
大川史織 編著
みずき書林
2021年
Text by 能登原由美(Yumi Notohara)
なぜ戦争をえがくのか?
ずばりストレートなそのタイトルも含め、本書は問いに満ちている。いや、問いばかりではない。否定形もやたらと多い。副題だってそうだ。「戦争を知らない表現者たち」(斜体は能登原。以下同じ)。本文を読んでも、「目に見えない」、「知らない」、「わからない」といった言葉が目につく。その最たるものは序文にある一文。「その時代に当事者が経験した表現しがたい体験を、ことばにできないトラウマを、体験していない人が語るのはとても難しいことです」(p. 7.)。ただでさえ厄介そうなテーマなのに、のっけからこれ。思わず読むのをためらってしまわない?とはいえ、知らないことを知ること―これが本書のテーマであり、押し寄せる否定や疑問の波が、彼/彼女らを突き動かしている原動力だ。
編著者の大川史織は映画監督。ドキュメンタリー映画『タリナイ』でデビューした。戦死した父親を慰霊するべくマーシャル諸島に向かったその息子に同行し、記録したものという。1988年生まれの彼女にとって、戦争は祖父母の時代の出来事。が、その映画の主人公も、父親の戦死の状況を知らない。遠い時代、遠い土地で起きた知らない出来事を知るにはどうすれば良いのか。行動の原点には、アウシュヴィッツ、そしてマーシャル諸島を訪れた体験があったようだが、そんな彼女がまとめたのがこの本だ。ここでは、「戦争をえがく」表現者たちとの対話を通して、知らないことを知ろうともがき続ける人々の姿を捉えていく。
目次を見てみよう。10人(組)の名前と対話の内容が、以下のような見出しで示されている。
小泉明郎…………………逃れようのないものへの違和感や怒り
諏訪敦……………………不在を、どこまで〈見る〉ことができるか
武田一義×高村亮………そこにいたであろう人を、みんな肯定したい
遠藤薫……………………不時着と撤退戦/いつもどうしても含まれてしまうこと
寺尾紗穂…………………ニーナたち、マリヤンたちの《コイシイワ》
土門蘭×柳下恭平………書くことでたどり着く、想像の外へ
後藤悠樹…………………いつも間に合っていないし、いつも間に合っている
小田原のどか……………失敗の歴史、破壊される瞬間と、眠ってしまう身体
畑澤聖悟…………………四隻の船と、青森から航路をひらく
庭田杏珠×渡邉英徳……特別な時間のおわりと、記憶をたどる旅のはじまり
それぞれの経歴や活動については、ここでは記さない。が、すでに何十年ものキャリアを積んだ人もいれば、まだ大学に入学したばかりの若い世代もいる。分野も様々だ。いずれにしても、「歴史と記憶と表現をめぐる10の対話」とあるように、ここでは彼女がインタビューをした上記10人(組)の表現者たちの話が軸となる。
一問一答形式ではない。また、単刀直入に表題の答えを求めるわけでもない。恐らく、質問の内容にも特定の型があるわけではなく、むしろ自由な「対話」の場が開かれていたことがわかる。それらが大川自身の目を通してまとめられていくわけだが、インタビューとそこで紡がれた言葉を編んでいくこと自体、彼女にとっても「知る」ための作業だったのだろう。
そう。本書の特徴は、通常の書物のように、書き手自身がすでに「知っている」知識や情報を伝えるのではなく、「知らない」という立ち位置から始めるところにある。その目線はむしろ、読み手の側に近いのだ。
輪をかけてユニークなのは、著者も他の表現者同様に被写体の一人として姿を晒していること。つまり、インタビューの傍ら、大川は自らの映画上映のために海外に渡航し、新たな出会いと体験を積んでいく。それらの出来事をも、対話と同じ時系列上に重ねていく。
その結果、読者―その多くは「戦争を知らない世代」であろう―は、大川自身が見聞きしていくものを「追体験」していくことになる。実は、この「追体験」も重要なファクターだ。記憶の共有を求める際に行われる手法の一つであるが、なにせ、ここに登場する表現にも―意識的にせよそうでないにせよ―それがある。知らないことを知るためにはどうすれば良いのか。本書を読むこと自体がその実践になるというわけだ。もちろん、単に文字を追うだけでは「わからない」という新たな否定が襲いかかってくるけれども(とはいえ、否定や疑問は本書の原動力だ)。
各話者の内容について。いや、それらはここで逐一明かすべきではないと思う。各人が様々な想いや大きな葛藤を抱えながら歩んでいる。短い言葉に凝縮してしまうと、そこからこぼれ落ちてしまうものがあまりにも多い。それだけではない。何よりも、彼/彼女らが教えてくれるように、「体験」も「追体験」も百人いれば百通りのものとなる。なんと言っても、読むという「体験」が「知る」ことへの第一歩。ぜひ、「実際に体験する」ことをお勧めしたい。
では、彼/彼女らは「なぜ戦争をえがくのか」?
もちろん一つの回答が見いだせるわけではない。そればかりか、おそらくどの話者もそれに対する明確な答えをもっているわけではない。その瞬間はあったとしても、すぐに疑いや打ち消しの言葉が浮かんでくるに違いない。これらの表現者たちを突き動かしているもの、すなわち戦争をえがく行為の根底にあるのは、疑問と否定の山なのだから。
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「体験/記憶の継承」という言葉が言われるようになって久しい。その中でまず頭に浮かぶのは、言葉や画像による記録と、それらを通して「事実を知る」ということだ。とはいえ、「知る」というのはどういうことか?そもそも、「事実」とは何を指していうのか?本書でフォーカスされる「戦争体験」で言えば、それらは往々にして特定の「事実」があるかのように記録・編纂され、その情報を見聞きすれば「知る」ことが出来ると錯覚されもしてきた。けれども、本書に登場する表現者たちが身をもって体験するように、そうした事実は一方的な見方であったり、立場によってその見え方は大きく異なったりする。あるいは、全く見えなかった/見られてこなかったものも多々ある。あるのは「知らない」ということだけ。その現実を「知る」だけでも、本書の意義はある。
なお、最初の対話が行われたのは2019年6月、最後の対話は2020年7月。図らずもコロナ禍に見舞われたため、最後の3組についてはオンライン上となっている。今まさに行われている/行われつつある表現であることも、最後に強調しておきたい。
(2021/4/15)