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近藤聖也 コントラバスリサイタル|丘山万里子

近藤聖也 コントラバスリサイタル
Seiya Kondo Contrabass Recital

2021年3月5日 仙川フィックスホール
2021/3/5 Sengawa Fix Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 有岡奈保/写真提供:近藤聖也

<演奏>        →foreign language
近藤聖也:cb
佐々木大智:pf
竹田宗一郎 : 朗読(*邦訳)

<プログラム>
Robert Fuchs:コントラバスソナタ Op.97 (1913)
徳武史弥 : コントラバスのための変奏曲 (2021/委嘱・初演)
佐原詩音 : だいだらぼっちの夜明け (2021/委嘱・初演)
Music by Alan Ridout, Text by David Delve:Little Sad Sound* (1974/新邦訳初演)
〜〜〜〜〜
Music by Frank Proto, Text by John Chenault:Mingus-Live in the Underworld*(1995/邦訳初演)
Frank Proto:ソナタNo.2(2013)

 

行く予定の公演が中止、何かないか、と探していたら「コントラバスリサイタル〜言葉に出逢う〜」というのが目に飛び込んだ。面白そう。急遽、前夜半にチケット確保、雨の中を出かけたのである。
母校のある仙川もすっかり変わった。昔は裏通りに入れば畑もあったし...。初めての会場で場所がわからずまごつく。やたらモダンな建物の一隅にあった。
プログラムを読む。近藤聖也、「ご挨拶に代えて」に笑ってしまう。ざっと拾うと。
生粋の伴奏楽器たるコントラバスであれば、「汝 奏楽を糧と欲さば プロオケを崇拝せよ」との教えに従うべきだが、プロオケ楽員1名に100人応募、残りの99人はどうやって生活しているのか。そもそも自分は団体行動や集団授業が苦手、数人が一丸となって一部分を成して全体に寄与するという組体操的な構造が苦手。オケ楽員になるより、まだ世に存在しない作品、あまり注目されていない作品を社会に提示したい思いが強いとの自覚に至る。「パンの味すら知らない人間が“パンがなくては人間は生きられない”などと言ってパンを求め続けた挙句に、稲穂に看取られながら餓死する道理もあるまい。」
で、プロオケ信仰のおかげで未開拓のソロ・室内楽作品領域、その未知の荒野の探求と幸福を目指すとのこと。「朗読付き作品がやりてぇな....」が、今回の公演となった。なるほど。
経歴もかなり変わっている。北海道大学応用物理卒、国立音楽大学大学院へ、現在国立音大非常勤講師。
だがまあ、そんなことはどうでもいい、要は音だ。

一言で言うなら、やっぱりこの楽器、未知の可能性を秘める。それを掘り出し、拡げたいという明確な意志・欲望を持つ奏者が、これから周りを引っ張って行く領域だ。そのためには、優れた創作者が必要。当夜最も楽しめたのが米のベーシスト Protoの2作(朗読付きとソロ)であったことを思うと、この楽器の自立の歴史はこれからだ、という気がする。
言葉と絡む、はその意味で一つのアイデアであった。

 

朗読付きは3作。
『Little Sad Sound』は子供向け作品を多く書いたイギリスの作曲家 Ridoutによる4つの音の物語。音楽の国の合奏でいつも「何か足りない」とむしゃくしゃ、互いをとがめあっていたhigh, middle, bassの3つの音が、小さい音が足りないんだと気付き、little soundを探しての冒険譚、森で迷子になっていたlittle soundを見つけ連れ帰り、素敵なハーモニーが生まれた、という話で、コンバスはほぼ各シーンの効果音に終始はするものの、なかなかに楽しい。川を飛び越え落っこちて「いて!」とか、「音たちはできるだけ音を立てないようにして隠れた」とか、「おいでおいで ぼくをお食べ」(little)の悲しそうな声にhighが特大しゃっくりを発するところとか、クスッと笑ってしまう。しゃっくりのたびに筆者は椅子からとび上がりそうになったし。
この作品、英のRodney Slatfordがインドの子供達の前で初演したそうで、その光景を想像してもなんだか心あったまる。寂しかったbassと悲しかったlittleが最後、揃って声を合わせ、「ふたつの低い音が一緒になったことで かれらはダブルベースとなった」にも、ほっこり。

『だいだらぼっちの夜明け』は、日本各地の地形を作った巨人だいだらぼっちの話。地名にまつわる民話を環境問題告発に絡めて語るのだが、こちらも効果音、状況描写音楽で、むろん、民話素材だからそれっぽい音やそれっぽい奏法もあり、この種の作品に馴染みのない人たちには楽しめたろう。自然破壊と環境汚染について、やおろずの神は言う。
「日本人は近代化、科学の進歩とかいって、我々の存在を忘れかけとる。でもな、だいだらぼっち。そんなこたぁ関係ない。お前は国づくりの神・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)として、変わらず山や生き物を守るがよい。1000年以上前、人間が始めた“たたら製鉄”を手伝ったとき、お前は鉄を作るために火を見つめるあまり、片目をなくした。足も悪くした。それでも、変わらず日本の大地を、人の営みを見守っていくんじゃよ。」
夜明けとともに語られる「何が起きようが、これが自然というものだ。人間もその一部だ。これからも変わらず、おれは夜の大地を歩いていくよ。」
説教系に締めもお決まりだが、素直に聞き入る客席。前衛的奏法も交えた楽器との絡みにさほどの新鮮はないが、それはそれで良いのかも、と。

前者2作に比すれば『Mingus-Live in the Underworld』は、コンバスのソロから開始、と、いきなり「MINGUS——!」のシャウトでインパクト大。怒れるベーシストと呼ばれるジャズの雄チャールス・ミンガスへのオマージュで、神とされるミンガスへの陶酔と賛辞が鋭い詩句と響きによって吐き出される。「ベースってのは、西の空に沈み、東の空から登るんだ」ってな、かっこいいセリフ、音にぞくっ。端々に彼のナンバーを匂わせているらしいが筆者には不明、でも、なんとなく「おぉ」。昔、NYリンカーンセンターの一隅のクラブで、ベーシストが楽器を女のように掻き抱き踊っていたのを(奏していたのを)思い出し、その甘い衝撃が身に走るのだ。
「彼が斧を振り下ろすと、ステージから首が転がる。 彼が斧を振り下ろすと、狂気にうめき声があがる。 彼が斧を振り下ろすと、美しい処女たちは彼のマイクスタンドで自らを刺し貫く。—— Fie Fi Fo Fum 負け犬の血の匂いがする。」
こんな詩句と音がザクザクと刺し、きしみ、泣き、歌う。
まさにsoulな一曲であった。

Protoはシンシナティ交響楽団奏者で、クラシックとジャズの混淆に即興を加えた独自路線。最後の『ソナタ』も両方の旨味を知った奏者でこその味付けで、当夜のピカイチ。全4楽章で多彩なシーンを展開、楽器の発する語彙の豊かさに目を見張る。淡い夢想の翳りに歌う第1楽章、パーカッシブなpfに反応するシャープなフィンガーテクニックが魅力の第2楽章、低音の徘徊の合間を縫うpfとの不可思議世界第3楽章を経て、飛び散る音つぶて、弓の描く鋭い放物線が交錯するスリリングな終楽章。ボディの大きさがそのまま表現のスケールの雄渾と結びつく。クラシックとジャズそれぞれの歴史的背景の交錯が豊富な語りの中に汲み出され、Protoならではのテイストと共にこの楽器の奥深さをも知った。
大奮戦の20分、弾き終えた近藤は肩で息。

徳武の『変奏曲』は岡潔いうところの「情緒」をテーマのジャポニズムで、『だいだらぼっち』もそうだが昨今、若手にこうした系統が多いように思う。黛敏郎、武満徹らの「ジャポニスム」がもはや大時代的歴史意識なら、細川俊夫のそれがその延長線上の国際戦略なら、彼らのこれはなんなのだろう。新たなエキゾティシズム?あれこれある中でのアイテムの一つ?

ともあれ、筆者は満足、コントラバスの未来を望見しつつ雨上がりの街を帰宅の途に着いたのであった。

註:テキストは筆者のメモではおぼつかず、近藤、佐原両氏より送付いただいた。感謝申し上げる。

(2021/4/15)

 

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<Performers>
Seiya Kondo:cb
Daichi Sasaki:pf
Soichiro Takeda : Narrator /Translation*

<Program>
Robert Fuchs:Contrabass Sonate Op.97 (1913)
Fumiya Tokutake : Variation for Contrabass (2021)
Shion Sahara : Daidarabochi no Yoake (2021)
Music by Alan Ridout, Text by David Delve:Little Sad Sound* (1974)
〜〜〜〜〜
Music by Frank Proto, Text by John Chenault:Mingus-Live in the Underworld*(1995)
Frank Proto:Sonate No.2(2013)