ルネサンスと鳩時計——東京人から見たスイス|女と「女傑」ミネット⑴ |秋元陽平
女と「女傑」 Woman and superwoman
ミネット⑴ Minette
Text by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photo by wikimedia commons (public domain)
ジュネーヴから数駅離れたところにコペCoppetという駅がある。政治思想史に馴染みのある人ならすぐ思い当たるとおり、いわゆる「コペ学派」の中心人物であり、自ら主催するサロンを通じて大きな知的影響力を振るったためナポレオンの反感を買って追放されたことでも知られる気鋭の女性論客にして小説家ジェルメーヌ・ド・スタール、通称スタール夫人(1766-1817)ゆかりの地だ。閑散とした駅を降りてすぐ、背の高い草の生い茂る閑散とした道を横切ると、すぐに陽をうけてきらきらと輝くレマン湖が視界いっぱいに広がって、その手前に、彼女が敬愛する父から譲り受け、文字通り自らの精神的「牙城」としたコペ城が、どこか彼女の家族の思い出を反映するような暖色のファサードとともに、その姿をとどめている。あらかじめことわっておくならば、このコペ城の内部には入ったことがない。以前このコラムでも言及した、スタール夫人の末裔にあたる男性から「いずれ案内してあげましょう」と提案いただいたので、それまで待つこととしよう。
他方わたしは、この城の中庭までは入ったことがある。というのも、一度ここでかけられた舞台を観に行ったのである。2011年から続くスタール夫人記念祭の一環で企画されたものだが、タイトルは『ミネットMinette』、ジェルメーヌの愛称であり、彼女の書簡や論考を鏤めた野外朗読劇という趣向である。会場に着くと、ジュネーヴにおけるこの種の文化イヴェントでは往々にしてあることだが、もっぱら目につくのはパールのネックレスやベロアのジャケットで装いも華やかな、日本のターミノロジーにしたがうならば「後期高齢者」のカテゴリに属するとおぼしき方々だ。砂利の敷き詰められたエントランスの広場には移動販売のワゴンが来ていて軽食でもあるのかと近寄ってみると、あにはからんや、オシェトラ・キャヴィアをひとつまみとグラスのブーヴ・クリコを30フランでセット販売しているから驚いた。人生の終末を彩る週末の楽しみに、シャンパン片手に鑑賞しようという舞台としては、この時代に抗って論陣を張った哲学者のエネルギッシュなモノローグは、いくぶん奇妙な題材のようにも思われる。
さてこぢんまりとした中庭にはパイプ椅子が並べられていて、老人たちがその隙間をゆっくりと窮屈そうに縫って歩いては互いに挨拶を交わしている。舞台装置らしいものはひな壇と、その脇にグランドピアノのみ。するとおもむろに中年女性が入場してきて、ざわめきもおさまらぬうちに『月の光』を弾き出した。素人に毛が生えたくらいの技量だ!まるで何か気取らない身内のちょっとした催しに招かれたようでわたしは訝しく思った。だが、この意図不明瞭なオープニングが終わり、大きくスリットの入ったライトパープルのイヴニングドレスを来た長身の女性が、大股で、颯爽とステージに上るやいなや、「開幕」したことを観客の大半が了解したであろう。彼女はマダム・ド・スタールという卓越した知識人にして、シアトリカルな自意識をもったヒロインを演じるに充分な存在感を放っていたからだ。彼女は懐のポーチからIphoneを取り出すや否や(われわれはもうこうした演出上のアナクロニズムに驚かない)、約束の場所に着いたのに連れ合いたちが遅れていることを咎める口ぶりである。その「連れ合い」の面子たるや−−「シャトーブリアンも、バイロンも、コンスタンもまだ来てない!一体どうなってるの?」
ピアノのややおぼつかない伴奏とともに、彼女の手記や書簡から、私的な独白が断片的に朗読される。いらだち、夢想、興奮、そしてただちにそのような自己を反省的に把握する機敏な精神の運動がとりだされる…めまぐるしく変わる心象はまるで嵐に翻弄されているようだが、その嵐を巻き起こしているのはほかならぬ彼女自身の炯々と輝く知性である。18世紀啓蒙のクリアカットな精神と、ロマン主義の膨張する情念とナルシシズム、これらを兼ね備えたのが彼女だ−−というよりも、このような俗流の二分法がそもそも不適切だ、ということを気づかせてくれるのが彼女だ、というべきか。
演じるイザベル・カイアIsabelle Caillatはスイスとハイチの血を継ぐニューヨーク生まれの女優で、豊かな表情の変化が醸し出すどことない人なつこさとともに、思考の奔流をかかえた人間における知と情の分かちがたい結びつきという困難な主題を体現してみせた。スタール夫人といえば、民主制の可能性と条件について、情念や幸福、自由といった人文的諸概念を豊富な教養と語学力によって検討した思想家である。だがそれだけではなく、彼女は集団としての人間の性質を工学・統計学的観点から析出することの重要性を知っている「コンドルセ以後」の書き手でもあるのだ。彼女のテクストは、同時代のシャトーブリアンの、強烈なインスピレーションと古典主義的美学の紋切り型がない交ぜになっているために突如読者の意表を突くようなことが多々ある筆運びとは随分違って、ものごとをよく見極め、過不足なく−−ときには短兵急といった印象すら与えるほど−−精確に要約し、対象に内在する論点を手際よく取り出して展開する強力な分析的精神に貫かれているため、すらすらと明快に頭に入ってくる。
それは小説においても同様だ。『コリンヌあるいはイタリア』(なお邦訳ではイタリア語を考慮して『コリンナ』となっている)は、われわれが現代の小説に対して持っている価値基準を乱暴に適用すれば−−「基準」なるもののが存在するとして、その多様性を能う限り考慮しても−−たしかにいささか冗長だということになるだろう。『ルネ』ほどのイメージの独創性はないし、彼女の恋人だったコンスタンによる小説『アドルフ』が、要約的、線描的な引き算の美学によって堅固に成り立っていることとは好対照を成していることは否めない。だがこの冗長さは、まさしく彼女の思考の奔流そのものであって、それになじんでくると次第にページをめくる手が止まらなくなる。物語の筋は、父の死によって憂鬱症をわずらったスコットランド紳士のオズワルドが、転地療法で訪れたイタリアのローマで天才女性詩人コリンヌと出会い恋をするが、その恋は運命によって引き裂かれ、その残酷な結末が到来するまでの猶予期間に、二人は逃げるようにしてイタリア全土を旅し、さまざまな風物を見て回るという、いわば恋愛小説と旅行記のハイブリッドなのだが、スタール夫人の化身と思しきこの天才コリンヌは(この「全ローマ市民が喝采する」ほとんど誇張的な天才ぶりは、スタールによれば、同時に絶妙な恥じらいや素直さと表裏一体となっている。いわば古典的な性役割に割り振られた魅力とその逸脱の魅力、おいしいとこ取りで両方を兼ねる「理想のヒロイン」なのである)、とにかくありとあらゆる題材について、二人きりの逃避行、デートのまっただ中で、大いに論じる。サン・ピエトロ大聖堂におけるキリスト教表象、ボルゲーゼの収蔵美術品、コロッセオ、ポンペイ、歴史哲学から古代美術史まで、縦横無尽に講釈し、説得し、反駁する。それは当時の、いや現代にも脈々と受け継がれ生きながらえている、議論する女性を「わきまえない」とするジェンダー規範に抵触するがゆえに(そもそも、作者はこの規範にほとんど生を賭して抵抗したのだ)、オズワルドを面食らわせ、しばしばいらだたせるが、他方で彼女の知の躍動、それにあわせて移り変わり感情の水面の鮮やかな反映は彼の胸を打ち、彼はこの恋愛にますます引き込まれていくのである。この繰り返しで、物語は否応なく延びていく。
批評的態度、分析的態度は、それ自体ひとの心臓を高鳴らせ、目を見開かせる。このように見開いた目、鼓吹された好奇心は、ますます多くのものを捉え、思考するようになる。この循環こそがスタール夫人の真骨頂といってよい。ルソーは思索と反省が自然な感情を蝕むことを危惧したが、彼女にとってその心配は無用である。スタール夫人の思索のなかで、感受性 sensibilitéは、女性の能力として押しつけられてきたクリシェを−−繊細な感情の機微を察知する力、受動的なセンチメンタリズムというニュアンスを−−必ずしも排斥しないまま、「そこにあるものを考察の対象として(再)発見する」という科学に必要な能力、18世紀啓蒙、とくに感覚主義に連なる、分析的精神においてもその欠如が許されない必須能力として再定式化されてゆく。こうしてスタール的批評はつねに、相補性、二重性の発見にある。少し前の時代から進行しつつあった感受性概念のこうしたアップデートは、彼女の『フィクション論』(1795)や『文学論』(1800)に、文学を社会そして学知一般との結びつきにおいて捉えることを可能にする、歴史的に見ても特異的に広く新しい批評的射程を与える。彼女の挙げた例をもとに例示してみるならば、たとえば行政に携わる人間は、一年を通じた季節ごとの自殺者の人数を統計を駆使して、集団としての人間を観察したときにはじめて理解できる「社会的事実」を冷静に把握する必要がある。だが同時に、もし人間精神が感受性によって、自殺の背景にあるたったひとりの人間の苦しみの内実を理解できないのならば、統計処理はその主導原理としての「人間の幸福」の実質的定義を失い形骸化するだろう。そして感受性によって「個」を捉え、苦しみを理解すること、それは彼女によればとくに文学の使命である。こうして、彼女は19世紀を「統計的なもの」と「文学的なもの」の相互性のうちに見て取るのだ。それぞれ、一方は最大多数の幸福を志し、他方はとりのこされたひとりの不幸に寄り添う、互いが互いを補い合う調和的な一対として理解されるのである。(続)
(2021/3/15)
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秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京大学仏文科卒、同大学院修士課程修了。在学中に東大総長賞(学業)、柴田南雄音楽評論本賞などを受賞。研究対象は19世紀初頭のフランス語圏における文学・哲学・医学。現在ジュネーヴ大学博士課程在学中。