オペラ・ラティーナ コロンえりか ソプラノリサイタル|能登原由美
オペラ・ラティーナ コロンえりか ソプラノリサイタル
Opera Latina ERIKA COLON SOPRANO RECITAL
2021年2月13日 ザ・シンフォニーホール
2021/2/13 The Symphony Hall
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供:ザ・シンフォニーホール
〈出演〉 →foreign language
ソプラノ:コロンえりか
ピアノ:山田武彦
〈曲目〉
モーツァルト:夕べの想い
サン=サーンス:アヴェ・マリア
ピアソラ:アヴェ・マリア
エリック・コロン:被爆マリアに捧げる賛歌
アザラシヴィリ:無言歌
カンタルーブ:オーベルニュの歌 第一集より
1.野原の羊飼い娘
2.バイレロ
ドリーブ:カディスの娘たち
アルディーティ:口づけ
〜休憩〜
ファリャ:7つのスペイン民謡
ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ
モレイロ:ホローポ *ピアノソロ
エスコバル:絶望
ラウロ:平原のうた唄い
ラウロ:子守唄
レクオーナ:マリア・ラ・オー
オブラドルス:エル・ヴィート
メネヒルダのタンゴ
サパテアード
舞台に立つ人の孤独を想う。
なにせ、目の前の空間と時間を、観客の分も含めて一人で引き受けねばならない。表現の喜びの一方で、肩にかかる荷の重さも相当なものだろう。けれどもそれ以上に、プレイヤーとしての自分と、その面の下に隠れた素の自分との間にどう折り合いをつけるのか。舞台上で彼らの依って立つところはいかにも危うい。その不安定な足場を一人で支え続ける孤独とは、どれほど深いものだろう。
コロンえりかの舞台を見て、先日の堤剛のリサイタルが頭をよぎった。声楽と器楽、媒体は全く異なれど、それぞれに孤独がある。が、2人のそれは対極にあるのではないか。少なくとも、様々な楽曲を自らのものとして引き受けていく堤は、与えられた役になりきる役者のようであり、そのようにして歩んだ70年余りの芸歴が、奏者、堤剛を形作っているように思えた。その演じ手としての威容に、あの時の私は魅せられた。
一方のコロン。もちろん、年齢も経験も、堤とは大きく異なる。だがそれだけではない。彼女の場合、近年はオペラ歌手としても高い評価を受けており、器楽奏者以上に役者であることが求められる機会も多いはずだ。が、ここではそうした演技者としての顔は影を潜めていた。むしろ、彼女自身の内部にある声をそのまま聴いているような、作為も虚飾も感じられないむき出しの響き。ある意味では、職業音楽家という枠組みから外れている…それが良いか悪いかは別にして。
それにしても、大胆な幕開けであった。というのも、最初に歌われた4曲は、彼女自身の「クレド」(信仰宣言)である。少なくとも、私はそのように受けとめた。いや、誤解して欲しくないが、ここでの歌唱は決して饒舌なものでも、押し付けがましいものでもない。むしろ、切り詰められた言葉と音が、舞台の上方へ静かに立ち昇っていく。その視線の先は、響きの向かう方角と同様、目の前の観客をすり抜けてどこか彼方へと向けられている。その歌に対し、歌唱や様式などの問題を持ち出すことは馬鹿げているようにさえ思える。ただ、冒頭から自らの素を見せる目の前の歌手をどう受けとめれば良いのか。心の準備もないまま座っていた私には、その術が見つからず、当初は戸惑いを覚えた。
けれども、生死の境に佇むモーツァルトの《夕べの想い》から2つの《アヴェ・マリア》へと曲が進むにつれ、これらが選ばれた理由、その意味するところが少しずつ感じられてきた。とりわけサン=サーンス。美しくもシンプルで馴染み良いその旋律は、歌い方次第ではただ心地よく耳を通り過ぎるだけのものとなる。けれども彼女は、決して歌い流さず、あるいは過度に力を込めるわけでもなく、一つ一つの音と言葉をゆったりと浮かばせていく。そして曲末尾の余韻の透き通るような美しさに触れたとき、にわかに気づいた。これは歌ではない。祈りの調べなのだと。
《被爆マリアに捧げる賛歌》。これまでの3つの祈りの歌はいずれも、この曲へと続いていたように思う。彼女の父親でベルギー生まれの作曲家、エリック・コロンによって書かれた、長崎の浦上天主堂にある被爆マリア像へ捧げられた曲。とはいえ、その曲調はそれまでの3曲同様、穏やかで静謐な空気に包まれるよう。ここに至って歌い回しや声音が変わるわけでもなく、それまでの祈りのひと時をそっと終えるかのような、柔らかな歌声。もしかすると、それまでの歌は、このマリア像へと向けられていたのかもしれない。
似たような歌唱は、以前にも接したことがある。広島で聴いたミシェル・コルボの指揮するバッハの《マタイ受難曲》。この時、福音史家の眼差しや声は、前を見据えて歌っているにも関わらず、明らかに客席に対してではない、どこか彼方へと向かっていた。その向かう先については…想像するしかない。ただその姿は、もはや舞台の上にいる演技者であることを超え、ひたすら祈りを捧げる一人の人間のそれであった。
考えてみれば、元来、祈りと歌は同じ根をもつものだ。グレゴリオ聖歌しかり、声明しかり。もちろん、宗教的な次元だけに留まらない。人間の本能的な欲求であると言っても良い。ただ、歌手としてひとたび舞台に上がれば、多くは自身の胸のうちとは関係のないところで、それ相応の表情を作る。それがプロに求められることでもあるのだから。けれどもここでのコロンは、そのような繕いを一切せず、あるがままの姿をさらけ出していた。
その後、プログラムは本公演のテーマである「ラテン」の音楽が中心となる。もちろんそれは、ベネズエラ出身の彼女の出自にも関わっているのであろう。一個人として、自らが大切にしているものを取り上げる上ではやはり必然性があったに違いない。ただ先の4曲とは打って変わり、ここから先はまさに「歌手コロンえりか」のステージとなった。楽曲に描かれた様々な場面を巧みに歌いこなし、詩や曲の作り手の世界を器用に演じていく。舞台人として、その姿も歌唱も確かに見応えがあった。
だが、あの「クレド」がなければ、おそらく私はこの日の公演について書き留めることはなかっただろう。「ラテン」の内容だけを取り上げる選択肢もあっただろうに、何故、その4曲を敢えて冒頭に置いたのか。止むに止まれぬ欲求は、何よりもその歌を通して伝わってきた。偽りのないあの響きを、ずっと心に留めたい。
願わくば、こうした彼女のストレートな歌声が、様々な社会的しがらみや欲望の中に取り込まれんことを。仮に、そうした手垢にまみれようとも、内部の輝きが失われていなければ良いのだから。その真贋を見極める目を、こちらも養い続けるとしよう。
(2021/3/15)
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〈program〉
Wolfgang Amadeus Mozart: Abendempfindung
Charles Camille Saint-Saëns: Ave Maria
Astor Piazzolla: Ave Maria
Erik Colon: Ave Maria for the Bombed Virgin of Nagasaki
Azarashivili: Song without Words
Joseph Canteloube: Chants d’Auvergne
1. La pastoura als camps
2. Baïlèro
Clément Philibert Léo Delibes: Les filles de Cadix
Luigi Arditi: Il bacio
Manuel de Falla y Matheu: 7 Canciones populares Españolas
Heitor Villa-Lobos: Bachianas Brasileiras
Moisés Moleiro: Joropo
María Luisa Escobar: Desesperanza
Antonio Lauro: El Cucarachero
Antonio Lauro: Canción de Cuna
Ernesto Lecuona y Casado: Maria la O
Fernando Jaumandreu Obradors: El vito
Tango de la Manegilda
Zapateado
〈cast〉
Soprano : Erika Colon
Piano : Takehiko Yamada