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カデンツァ|丸木位里の水墨世界|丘山万里子

丸木位里の水墨世界
Ink Paintings by Iri Maruki

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)(撮影許可:檜画廊/掲載許可:丸木ひさ子)
『姉妹瀧』(掲載許可:丸木ひさ子)

 

神田神保町の檜画廊で丸木位里・俊展が10日間ほど開催と知ったのは残すところ3日で。最終日に駆け込む。年明け以来体調を崩し、外出などほとんどしていなかったから、街と人に身体がふらつく。

小さなスペースに二人の小品が並んでおり、俊は持ち前の色とりどりに精妙、躍動感ある巧みなデッサン力で、花があちこち咲いているようだ。その間に位里の水墨画がさしこんであり、くっきりした存在感を放つ。私はやっぱり位里が好きだ、と思った。

ずっと昔、画家の友人に連れられ雪舟とか等伯とかを見て回ったことがあったが、ふーん、という感じ。ドイツから帰国まもなくであったから、西欧文化の残像が強かったのだろう。いろいろ解説してくれたが、何の感興も湧かなかった。
その後、若冲を発見、夢中になり(20年ほど前)、『奇想の系図』江戸アヴァンギャルドでこれまた衝撃を受け、西村朗覚書に取りかかって杉浦康平を見・読み散らし、と、そんなほっつき歩きの途上、昨夏手に取った『流々遍歴 丸木位里画文集』で出会った位里の水墨画。静謐でたくましく、どこか妖しい墨の力にぞくっとした。
『原爆の図』も、最後の仕上げに俊は位里を待ち、「総仕上げの墨を流し、決定的に筆を置く、という点で位里は、いつも大胆な仕事をしました。」と言っている(『丸木俊 女絵かきの誕生』)。そうだろう、と私は思う。彼女は『原爆の図』を前に語り部ともなったが、位里はそれを疎んじた。それなら、と説明を紙に書き、張り出した。それも不要、と位里は思ったのではないか。『米兵捕虜の死』制作で、加害者としての意識に苦しむ俊の傍で位里は小さな墨絵ばかりを描き、時に道具を抱え一人飄然と旅に出た。「わたしがそれに集中すればするほど位里は風のように遠のいていきました。」 そうだろう、と私は思う。
私はそういう男の姿、女の姿が好きだ。
生きる熱量、つまり表現者の熱量の放出は、燃えたり冷めたり、灼熱と底冷えの大波小波の廻りであって、すべて出会いと別離の繰り返しなのだ。人であれ、紙の上であれ、筆の穂先であれ。引き寄せては離れ、捨てては求める波動の中に、創造は宿る。エクスタシーもまた。

位里1975~76年の2度の西欧スケッチ旅行での数点は色が入っており、私には新鮮。『サンチョ』(1975) の街景色にとりわけ惹きつけられた。
けれど、やっぱり墨の『泰山』(1981/上掲ポストカード)がいい。遠目から、あるいは近寄ってしげしげと、その濃淡や山と空との境界のにじみ具合の不思議に目をこらす。極小極細無数のそれら黒影、空に声を上げているような、地に根を延ばしているようなその先っぽ(尖ってない)、さわわしゅゆゆの響きに耳をすます。山体の、雲翳の、堂々雄渾な交響楽にどしどしと胸を押される。
ぼかす、にじむ、霞む、流す、垂らす、撒く....とはなんと深い技であろうか、世界であろうか。断定や裂け目を避け、あくまでぼうっと優しいのにきっぱり明確な主張。画技があれば世界が描けるわけではない、これが位里なのだ、と私は思う。
最終日であったので、それなりの人の出入りがあるからじっと見入っているわけにも行かず、ちょっと動いては戻り、椅子に掛けては眺める、そんな時間。

ふと、入って左手に薄紫の混じる柔らかな色調の横長の大きな絵があるのに気づく。水墨ばかりに気が行き見えていなかったが、川だ。『ガンジス川』(1978)とある。位里76歳の作。
え、こんな色のもあるのか。
あのガンジスが、位里にはこう見えたのか。こう見たのか。
向こう岸の光の帯。その上の黒の林立を包みたなびく薄紫、灰色雲とわずかの青空。深い群青、緑、空色、白などなど入り混じる川の色合いの深さ、その中にぽつんと一つ小舟。人がのっている。よく見なければわからないくらい。こちらの岸辺にも何人かの人姿、そして数箇所、レンガ色が撒かれる。
こういう説明がいかに無力でつまらないか恥じ入るが、他に術がない。

ガンジスへは2度行った。それぞれ10日ほどのインド旅の中で。
いずれも早朝、ホテルを出て暗い通りを歩き、朝陽の昇るのを待つ。人は多い。
訪れた人はたいてい、大きな何かを得てゆくようだが(生と死をめぐって、とか)、2回とも私にそんな「何か」は降りてこなかった。
川で身を浄める人々が、飛び込む子供たちが、洗濯場で衣類をパタパタ打ったり踏んだりしている女たちがいた。歌う(唱えるのではない)人々もいた。小さな行列も見た。
観光客はみな、小舟にのってガンジスに陽が昇り、川面に光が広がって行くのを心待ちするのだが、太陽はそんなにどんどこ昇るものでなく、というか曙光とは兆しであって、形を成さない明るさの変化の中にそうっと訪れ、姿を現わす、少なくとも私の時はそう。ついでに言うと、ナイルのクルーズ船上での夜明けもそんな風だった。デッキには誰もいなかったけれど。
初回豪華バス(インド基準)有名観光地旅では、岸辺から花びらに小さな灯りをともし、川に流し、それはゆらゆらとゆっくり流れ、とても美しかったけれど、その灯りの先を見送るようなことも私はしなかった。
これがガンジスだ、ガンジスの夜明けだ、という感銘も感慨も感傷も訪れることなく、時は過ぎてしまった。
たった一つ、鮮明なのはたくさんの小舟が観光客たる私たちの船に寄ってきて(のり移れるくらいぴったり舳先を並べ)、土産物を売ろうと盛んに声をかけること。船にはたいてい子供が乗っていて、おばちゃん買って、と手に持つ何かをひらひらさせる。
2回目は田舎の仏跡巡り。停車ごとに列車の座席下を小箒で這いつくばり掃除する最下級民に手もつけないランチボックスを渡し、ベナレス駅の糞尿臭気に窓を閉め、オンボロバスに安宿(日本基準)、その「貧」をむしろ楽しむふうの上から目線同行人たちに、日々奥歯で砂利を噛み下すような気分の旅でもあった。

位里の小舟。3人のっている。
川の流れとか、色とか、その質量とか….ああ、言葉は虚しい。
こちらの人姿は坊さんのようであり、レンガは袈裟のようであり、向こう岸の輝きとか、雲とか、空とか。
私はずっと見続け、聞く。
位里、あなたは何を見たの。何が見えたの。
そうして自分のガンジスを呼び起こす。
記憶の川底で、「何か」が作動し始める。

人がいなければ丸一日でもその前で過ごしたろう。
私にはそういう絵で、いま一度(ひとたび)の出会いは、ない。

*  *  *

姉妹瀧

檜画廊の女主人に、昨年開催された位里の大規模な展覧会に行きそこなった話をしたら、丸木ひさ子氏(俊の姪御さんで絵本作家)についでくださり、そのずっしり重い図録が送られてきて、今、私の机の上にある。
見たくて、行きたくて、コロナで諦めたから(広島、愛知、富山)、歓喜。
めくって、位里はデビュー時「月吼」を名乗ったと知る。ぴったりだ。ちょうど西村&朔太郎に向き合うさなかだったから、すぐと『月に吠える』を想起、「水墨の前衛」編に『姉妹瀧』 (1941)を見つけた。何がし通じるようではないか。例えば、朔太郎『月に吠える』の《盆景》。

春夏すぎて手は琥珀、
瞳(め)は水盤にぬれ、
石はらんすゐ、
いちいちに愁ひをくんず、
みよ山水のふかまに、
細き滝ながれ、
滝ながれ、
ひそやかに魚介はしづむ。

明治・大正・昭和、二つの大戦に日本の近代(意識)は宙吊りになった、たぶん。近代詩の尖端を生きた朔太郎の前衛性は、位里にも在る、いや、その前衛性が私を呼んだのだろう。そういえば位里の母スマ(70過ぎて描き始めた)の絵に若冲『動植綵絵』と同じ眼を感じたし、位里にも若冲がいる。位里は「それなりにわたしが引いたんだから、わたしの線には違いない。が、わたしだけじゃないものが入っておるということが、たまにはあるんだね。仕方がないんだ。」と述べている(前掲書)。
歴史というのは、そういうものなのではないか。

何が見えるか、見るか、は向き合うその時々のそれぞれにしかない。
私はコロナ禍にあり、4月から毎日、近くの禅寺に行った。
知っていたし行ったこともあったのだが、なんとも思わなかった。
が、近くの原っぱ公園も在宅パパママ子供たちで賑わい始め、どこか静かな処はないかと、ふと足を運んだら、気持ちよかった。
人はほとんどおらず、そこで俳句か短歌を一つ作ろうと試み、出来たてを、短歌で何だかの賞をもらったという高3孫娘に送り、どうよどうよ、と言い立てるのも楽しかった。
竹林に筍が生え、伸びるのは早かった。あっという間。びっくりだ。
竹林が急に黄色くなった。春に紅葉するんだって。びっくりだ。
木々が緑に包まれ、日差しに汗ばむようになり虫がプーンと寄ってくるので、行くのをやめた。
夏が過ぎ、紅葉の頃に再開、久しぶりだね、とあたりを見回したら突然、そこに龍とか虎が居るのに気づいた。海とか山が見えて、びっくりした。
9月の「ながらの座・座」の庭園コンサートを経たからだ。あの時、中国神仙思想が日本の作庭に映じていることを直に感じた。音楽と一緒に木コブがムグムグせり出し、石がうごめいた。それと同じ感触が位里の水墨にはある。
中国禅や文化がこの禅庭の龍木になり虎石になり、鎌倉・室町の水墨画となり、位里の『臥龍梅』(1961/図録p.128~129)となり、さらに朔太郎、さらに….と私は自分をたぐる。

臥龍梅

知識は何事かを与えるが、「ながら」に行かねば、私にそんな感受は宿らなかったろう。
春、初夏に見えなかったものを、秋冬に見る。
雪舟にも等伯にも、久しぶり、と近々行こう。
そうやって、見えなかったものが見え、また見えなくなり、また見えるようになり、を繰り返してゆくのが、生きるということ、自分の「経絡」を創るのだろう。

*  *  *

いつか絶対、見たいと思うのは俊が位里最初の個展で惚れた『雲』『本串山』(1939)。図録にあり、地団太踏む。それがきっかけで二人はのち、出会うことになる。
もう一つ、『さぎ』(1935~1940)。ガンジスの色に驚いたけど、この翡翠の空、どこまでも吸い込まれそう (図録p.52) 。初期の鮮やかと晩期(と言っても位里は94歳没)の淡色に流れるもの….。
生誕120年丸木位里展が今秋、原爆の図丸木美術館で開催されるそうだ。
今度こそ、会いに行く。
位里を見る、聞く。
「原爆の図」を背負って世界各国を歩き、近づき、遠退き、切り取った彼の眼を覗き込む。背のものは、いったん外して、だ。
そうして私は、私の時空を、掘る。

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生誕120年 丸木位里展@原爆の図丸木美術館
2021年10月30日(土)~2022年1月30日

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参考資料:
『丸木俊 女絵かきの誕生』日本図書センター
『丸木位里画文集 流々遍歴』岩波書店
『墨は流すものー丸木位里の宇宙ー』2020図録 丸木位里展実行委員会 監修:岡村幸宣
http://www.genso-sayume.jp/marukizuroku.pdf
『いのちあるものたちへの讃歌 丸木俊・スマの世界』丸木俊著 ブックグローブ社
『萩原朔太郎 ちくま日本文学全集』筑摩書房

(2021/2/15)