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カデンツァ|令和に想う 戦争・芸術・時代|丘山万里子

令和に想う 戦争・芸術・時代

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

4月半ば、京都で開かれた「公開シンポジウム「『戦争/暴力』と人間—美術と音楽が伝えるものー」の第2回「総力戦体制下の芸術」に出かけた(2019/4/14@本願寺聞法会館)。
シンポジウムの意図については本誌Pick Up「公開シンポジウム「『戦争/暴力』と人間―美術と音楽が伝えるもの―」に詳しいのでそちらをご覧いただきたい。

私が山田耕筰論を書こうと調べ始めたのは1990年代始め。日本の作曲家論が自分の評論テーマであれば山田に向き合うのは必須、頭にあったのは異文化享受過程を背景の「日本の近代音楽創造」やいかに、という単純なものであった。
1992年から1年のミュンヘン滞在中ベルリンを訪れ、崩壊した壁跡からウンター・デン・リンデンを歩き、そこを執筆の起点とした時、分断と統合、グローバリズムと民族主義の視点が知らず蒔かれたように思う。
山田の辿った道を追って10年、彼の帰国1914年以降、日中戦争をへて太平洋戦争突入に分け入ると、当初考えた日本近代音楽創造論など吹っ飛んだ。彼が戦前、戦中、戦後どうであったかに全く無知で、調べるにつれ慄然、さらに執筆のさなか、右傾化する日本(私はそのような表現を好まぬが)に類似の空気を読み、筆は変化、起点と終点の整合性に苦しんだ。
戦争のない平成を終え、新元号令和を「国書から」と喧伝する有識者、政治家たちの歴史感覚に(何を以って「純」日本文化と)、いつか来た道(信時潔『海ゆかば』も万葉集)と思ったがゆえ「総力戦体制下の芸術」のテーマのもと、各分野の連関を見出せれば、との興味であった。

総力戦体制下として1930~40年代の芸術の動向がそれぞれに俯瞰された。内容は以下(敬称略)。
1.平瀬礼太(愛知県美術館)「戦時体制と絵画・彫刻 1930~40年代」
2.戸ノ下達也(洋楽文化史研究会)「1930〜40年代・音楽文化の諸相」
3.井口淳子(大阪音楽大学)「外地、ハルビン、上海から戦後日本の楽壇とバレエ界への連続性」
司会/コメンテーター:柿木伸之(広島市立大学)
コーディネーター  :能登原由美(大阪音楽大学)

聴講・見聞に加え、拙著執筆時の資料を参照しつつ、考えたことを述べる。
目に焼きついたのは、藤田嗣治らの有名戦争画より『銃後の決意』と題された裸婦(第六屆文部省美術展覽會圖目錄第三部彫塑1/1944/安藤士 作)。均整とれた裸身ですっくと立つ彫塑。国民総動員下での女の役割については、千人針、慰問袋、工場女子徴用といったことごとがすぐと浮かぼうが、私の脳裏に閃光したのが何より慰安婦、さらに勝軍兵士に襲撃・提供される女たちであったのは、山田の足跡を追って当時の満州土を旅した先々で目にした様々によろう。
どの世界でも兵隊が「暴力」で女を犯すのは(今日の沖縄もまた)、むろん欲望のはけ口であるとともに、それが異文化・異種制圧の至上快感であるからだ。血と血が交われば純血は汚され、敵を永遠に犯し貶めるにこれ以上の所業はない。
いや、裸婦像にはそんな翳の微塵もなく「すっく」でその「決意」が何を意味するか、ひどく戸惑った。平瀬は、絵画はダメでも彫塑は許されたと当時の空気をコメントしたが、私の関心は「決意」の内実が何か、に向いた。この作は皇紀2600年奉祝(1940)から4年後、忠犬ハチ公1代目作者である彫刻家安藤照の息子士(たけし)、当時二十歳の手による。
聖戦美術展がメディア(新聞社)と組んでの開催巡回、会場には人がひしめき真っ黒であったと知る。「拝んでください」のおふれにこの種の国策展覧会動員数は3854,000人にのぼったそうだ。国民は喜んで拝んだのだ。

その頃既に聖戦戦士の第一線で旗振る山田はカンタータ『聖戦讃歌 大陸の黎明』(北原白秋詩1941)で皇国、大東亜共栄圏建設礼賛を壮麗に轟かせている。白秋との《詩と音楽》の協業で生まれた数々の名歌曲からここまでの年月は10年ほど(東日本大震災から8年を想起すればどうか)。ちなみにその前作『昭和讃頌』(1938)の再演に新聞は「わが楽壇を総動員、絢爛“世紀の大演奏”聴衆十万・昨夜の圧巻」と叫んでいるからいずこも同じ風景であったのだ。
音楽挺身隊隊長として軍服もどきを身につけた彼は戦争歌を量産し、その作品は50を超える。一方、藤田嗣治の戦争画は東京近代国立美術館に14点が残る。
1943年に山田『アッツ島決戦勇士顕彰国民歌』『サイパン殉国の歌』、藤田『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を完うす』がある。藤田の2作を凝視できないのは眼の残酷(リアリティ)によろうが、『サイパン殉国の歌』のもつ言いようのない美しさを戦争礼賛と断ずることは私には難しい。
一方、戸ノ下が『隣組』(飯田信夫作曲「とんとんとんからりと隣組」)を70年代を風靡したドリフターズ『ドリフ大爆笑』オープニング曲と同じ(替え歌)と紹介、この2曲が流れた時は会場も笑いに包まれた。時代と庶民の感覚について考えさせられた一瞬である。

井口は日本の「外地」、中でもハルビン、上海の楽壇ネットーワーク、すなわち朝比奈隆、服部良一、日本のバレエ界の牽引者小牧正英ら、戦後のバレエ公演で美術を担当した小磯良平、藤田に言及した。これら特殊地域の文化混淆、そこに咲く仇花を享受・支えたいわば特殊(特権)階級の人々が戦後日本の文化シーンをも創ったことを改めて感じる。上海はアヘン戦争後、イギリス、フランス、アメリカの租界として東洋のパリとも呼ばれ、ロシア革命による亡命者・難民の流入とともに華やかな上海楽壇が形成されていた。戦時下、ロシア・日本・中国の三つ巴、との井口の指摘以上に、かの地の複雑は深い。
旧満州の旅で私は李香蘭を生んだ満映のあった長春(新京)、大連、ハルビンをも巡ったが、とりわけハルビンに西欧の香り高き都レニングラード(訪問時の呼称)の瀟洒を思った。横浜港からウラジオストック、シベリア鉄道でベルリンに至った山田の長旅もまた混交する文化行路に他ならない。
一方で、日本統治下の中国の民、満蒙開拓団など謳い文句のままに渡った日本貧農たちの困窮、もはや忘却されつつある残留孤児の悲劇をも思わずにいられない。
朝比奈は終戦の日、ハルビン交響楽団と練習中のベートーヴェン『運命』を中断、その場で解団、メンバーに各自の自由行動を促している。彼は自らを「無国籍」(コスモポリタン)のインタープリターとし、帰国後のクラシック界を担った。

『銃後の決意』に戻ろう。
帰京後、本作の画像を見つけ、映写では判らなかったその表情にさらに複雑な思いを抱く。彼女の決意、作者の決意とは何であったのか。両拳を下げ凛たる構えに、幾分眉根を寄せどこかを視つめるその眼差しに私たちは何を読み取ろうか。この展覧会には父、照のやはり裸婦も並ぶがまるきり異なる印象だ。巷に流れる戦争歌、大本営発表の新聞記事、同年代の若者が戦地へ赴く日常に、士は何を思っていたろう。
戦争画が多く戦闘写実描写であるに対し、彫塑ははるかに抽象で仮想の範囲は広い。山田の『サイパン〜』は、歌詞と音楽の結合が情緒を否応なくどこかへと導くが、私はそれに抗えない。
すなわち芸術とは、作られた時代という背景が消えても独りで勝手に生き、何かを語り続ける。ならばそれを生んだ作者とは何なのか。

戦時に生まれた数々を国策迎合と批判はたやすい。挙国一致の声に逆らえず、と擁護もたやすい。だが、私は、「今度の戦争はいいですよ!」、英米との戦いで古い文化を破壊、その上に新しい文化を我々の手で打ち上げねば、との山田の幾度とない雄叫びを、そういう時代で仕方がなかった、とは呑み込めない。
藤田は戦争画について「戦争中の生々しい実感を直ぐ描いてこそ立派な作品になる」と言い展覧会の入場者数が百万突破の話に「百万なんて数は問題じゃないよ。大戦争画を後世に残してみたまえ。何億、何十億という人がこれを観るんだ。それだからこそ我々としては尚更一生懸命に、真面目に仕事をしなけりゃならないんだ」と応じる(『藤田嗣治戦時下に書く』林洋子編/ミネルヴァ書房)。
その生々しさを伝えるスケッチ『戦車に嚙附く』には「我が新兵であってこそ成し得る鬼神をも哭かしむる壮絶極まりない陸軍魂の実話」が語られている。
山田も藤田も多くの権力中枢同様、戦争責任などすり抜け山田は文化勲章を、藤田は名声のうちにパリに死んだ。

戸ノ下は山田と山根銀二の戦犯論争を「戦犯と戦争責任とは違う」と述べたが、私はどちらも不毛な論議と考える。誰を戦犯にしようと戦争責任を問おうと、それを「誰か」に押し付け断罪、「知らなかった」とする「こと」(人、ではない)は、いわばガス抜きに他ならず、それこそが歴史の魑魅魍魎にうごめき続ける何かの生態ではなかろうか。
それが何であると、私には言えぬけれども。
戦時プロパガンダの手先となった誰彼の作品と発言の連関は広く検証され周知されるべきだが、そこに責任論を出し決着、も安易ではないか。
日独合作映画『新しき土』(1937/新き土とは満州のこと)の伊丹万作は戦後、こう語る。
「騙されていたといえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるよう勘違いしている人は、もう一度顔を洗い直さなければならぬ・・・騙されるということはもちろん知識の不足から来るが、半分は信念すなわち意志の薄弱からも来るのである・・・つまり騙されるということも一つの罪である。・・・今迄、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ、負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われる時はないであろう。」

山田論執筆当時、私はこの言葉に頷く気持ちが強かったが、フェイクニュースや SNS発信の氾濫する今日、情報操作の凄まじさに「騙されない」ことの不可能を思う。
折しも時は、天皇退位即位祝賀ムード一色のメディア、10連休に憲法論議など消えた・・・。
5月の薫風に誘われ、近くの原っぱ公園を歩いていたら真新しい小さな囲いに緑の苗木が植わっているのを見つけた。「広島の被曝樹木二世:アオギリ」とある。平和首長会議から「貴自治体の平和のシンボルとなるよう」贈られたものだとか。
子供の頃、父の関係した出版記念パーティーで丸木俊に花束を渡した、その時、握られた手の温かさ、柔らかさが甦る。花々を背景に立つ美しい『裸婦(解放されゆく人間性)』の発表は1947年。『原爆の図』はその翌年からだ。
安藤『銃後の決意』から丸木『裸婦』まで3年、彼らにとって戦時とは、戦時における創作とはなんであったか。
安藤は48年、2代目ハチ公を制作(父は東京大空襲で45年死亡)、丸木は『原爆の図』を開始している。

知ること、騙されぬこと、強い信念・意志を持つこと。
だが、どうやって。
2020年オリンピックのボランティア学生動員指令に「令和の学徒動員」との巷の声を私は笑えない。
アオギリの苗木が、豊かな緑を茂らせる日を私たちは必ず見届けねばならない。
次へ、また次へと、願いを継いで。

註)楽譜など2点はシンポジウム会場に展示されたもの。集合写真も併せ、主催者よりご提供いただいた。
また戦時下における楽壇総動員の様相は『音楽文化新聞』(戸ノ下達也編・解題/復刻版/金沢文圃閣)に一目瞭然、貴重な資料として挙げておく。

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 (2019/5/15)