漢語文献学夜話|A Strange Cornered Vessel |橋本秀美
A Strange Cornered Vessel
Text by 橋本秀美(Hidemi Hashimoto)
一
何を言っているのか、お分かりだろうか?
The Master said, “A cornered vessel without corners. —— A strange cornered vessel! A strange cornered vessel!”
俳句の英訳のようにも見えるが、原文は「子曰:觚不觚,觚哉觚哉。」で、『論語』の一節を百五十年ほど前にJames Leggeという人が英訳したもの。原文そのものが判じ物なので、英訳は朱子の注に従っている。
「觚」(こ)は『儀礼』『周礼』などに見え、酒を飲む容器。一方、漢代には、木簡の簡略版として、木の枝を六角形や八角形に面取りして、習字やメモに使ったものも「觚」と呼ばれた。宋代の学者は、酒器の「觚」も本来は角(かど)が有ったのだろうと推測したので、「cornered vessel」という解釈になった。酒器の「觚」に角が有ったという説は、唐代以前には恐らく無かったと思われ、宋代最初期に成立した『三礼図』でも、マグカップのような形が描かれている。だから、「cornered vessel」は新説であって、『論語』の解釈として必ずしも適切ではないかもしれない。
しかし、「觚不觚」を「觚」が「不觚」である、つまり、本来有るべき姿ではない、としている点では、魏の何晏らの『論語集解』から朱子まで、諸説ほぼ同様である。「觚哉觚哉」を、堕落を嘆いたと解するか、それは違うぞという非難と解するか、或いは、「有るべき姿」を政治のこととするか、倫理道徳・民風などと理解するか、といった点で差が有るに過ぎない。
二
ここで、我が愛する鄭玄の注をご覧頂きたい。
觚,爵名,容二升。孔子削觚,志有所念,觚不時成。故曰「觚哉觚哉」,歎觚小器,心不專一,尚不時成,況於大事乎。
先に脱線解説しておくと、「志」という言葉は、現在では、覚悟を決めた意志といった意味で使われることが多いが、鄭玄の使う「志」は、単に心・頭・思い・考えといった意味。だから例えば「苟も仁に志せば、悪無し」という『論語』の一節は、”If the will be set on virtue,there will be no practice of wickedness”ではなく、「僅かの時間でも仁のことを考えてみることが出来れば、それは良いことだ」と解釈される。鄭玄の解釈には、「覚悟を決めた意志」に漂う空疎・欺瞞の臭いがしない。又、中国古代の飲酒器というと、まず青銅器が聯想されるが、『周礼』では「梓人」という木工職人が作るとされていて、一般には木製が普通と考えられる。現存している先秦時代の飲酒器は青銅器ばかりだが、それは木製品が破損・焼却・腐敗などの原因で消滅してしまっただけのことだろう。
鄭玄によれば、これは孔子が木材を削って觚を作っている場面。何か気になることが有って、思うように觚が出来なかった。精神集中できないと、こんな器一つ満足に作れないものだ、もっと大きな仕事となれば言うまでもない、と痛感した孔子の言葉が「觚哉觚哉」だ、という。これは、他の諸家の解釈とは、全く異なる。
まず、何故孔子が木地師のような仕事をしているのか、という疑問はある。しかし、孔子自身が「子供の頃貧しかったので、色々な手仕事ができるのだ(吾少也賤故多能鄙事)」と言っていることを考えれば、有り得ない話とは言えない。やはり問題は、「觚」に「あるべき姿」を想定するかどうか、という点に在る。諸家の説は、觚が觚としてあるべき形で作られていない、或いは使われていないならば、それはもう觚ではない、という理解。しかし、觚がマグカップのようなものだとすると、あるべき形と言われてもピンとこない。魏の王粛は、形状の問題ではなく、使われ方の問題として解釈した。本来儀式に使う觚が、節度無い飲酒の為に使われていることを嘆いた、という理解。宋代の人々が、觚は本来corneredで、六角形や八角形でなければならない、という前提を加えたのは、そういう明確な特徴が有ると考えた方が、失われた「あるべき姿」というものを想像しやすいからだろう。
三
何晏らの『論語集解』は、鄭玄の没後百年も経たない間に作られている。しかし、両者の間には、物の考え方に大きな隔たりが有る。両者の比較は非常に興味深く、私も十年前に文章を書いて論じたことが有るが、今思う大きな対比は、鄭玄の解釈が常に具体的であるのに対して、何晏らの解釈は抽象観念を多用する傾向が有ること、そして鄭玄の関心が個人・文化に在るのに対し、何晏らが政治により大きな関心を寄せていることだ。
鄭玄の解釈によれば、「觚不觚」は木を削って觚を作っている孔子が、觚が出来ないよ、と言ったもので、「觚哉觚哉」は「觚だよね、觚。(精神集中しないと、こんな簡単な木彫りのカップも満足に作れないんだよね。)」と感慨に耽っている所。飽くまでも日常的な世界の話であって、「あるべき姿」のような空虚な話は出てこない。それが、何晏らになると、孔子は觚を譬えとして、政治があるべき道に従わなければうまく行かない、と説いたのだ、という話になっている。〔図3〕大事なのは政治であり、「觚」が政治のあるべき「道」を意味している、という理解だ。但し、「觚」の本質的特徴や政治のあるべき姿がどのようなものであるのか、については全く言及されない。
未だ論証も何も無い、単なる予感に過ぎないが、何晏らの『論語集解』は、中国学術が集権政治体制に適応していった全体的傾向性を予示しているように思われる。長い目で見れば、経書の解釈において事実には次第により合理的説明が与えられ、思想は次第により理論化抽象化されて行き、経書の内容は全て現実的事実と当然の原則だけに還元され、つまり、当たり前の内容だけになっていく。朱子がそうした方向の一つの頂点を成すが、何晏らの『論語集解』にも、そのような方向性が既に見られると思う。
『論語集解』は、朝廷の高官数名が編集して、皇帝に献上した注釈だから、関心が政治に向いているのも自然と言える。だから「觚不觚」も政治道徳の問題として解釈されている。しかも、「道」という極めて漠然とした概念を理想としている。宋代になると、「道」が理論化され、仁とか性とか理とか気といった概念に関して、緻密な理論が組み上げられたが、具体的倫理問題について、同様に緻密な理論的検証が加えられたようには見えない。
政治に対して「道」に従わねばならない、という道徳的要求を課すことは、実際には統治者の権威性を高めるだけで、恣意的統治行為を制限することにはならない。何故なら、「道」に従っているかどうかを判別する具体的基準は用意されておらず、結局朝廷が自分で決めればよいからだ。逆に臣下に対しては忠君愛国のような原則が、統治者の都合の良いように適用されたから、全く自由が無くなってしまった。古代の「道」は現在の「法」にも通じる。立法・司法が独立できず、行政の都合で法や法解釈が自由に変更されるような状況で、「法に従って適切に処理する」というセリフは、行政が勝手にやりますという意味にしかならない。そんな「法治」は、古代の「道」の政治と変わらない。
四
『春秋』は、孔子が編集したとされているが、魯国の年代記として非常に簡単な記載しか無い。しかし、その簡単な記載の中に、孔子の様々な道徳判断が含まれていると考えられ、漢代にはそれらの道徳判断を解説した『公羊伝』『穀梁伝』などが現れ、実際の政治にも影響を与えた。その後に現れた『左氏伝』は、『公羊伝』『穀梁伝』と違って、『春秋』の記載と内容が重なりながら、その何十倍も詳細な歴史書であった。後漢では、『公羊伝』『穀梁伝』『左氏伝』が朝廷の御用学問としての地位を争うが、晋の杜預が『左氏伝』の注解を作って以降、『公羊伝』『穀梁伝』は学習・研究する者が少ない状況が近代まで続く。『左氏伝』の出現を論じた岩本憲司先生は、ご自身の論文集のタイトルを「義から事へ」とされた。『公羊伝』『穀梁伝』は、『春秋』の筆法の解釈として、様々な場面にこうするべきだ、ああするべきだ、という「義」——具体的判断を示している。『左氏伝』は、『春秋』に記載された「事」——歴史背景を紹介している。そして、「義」は廃れ、「事」だけが遺った。何故なら、具体的道徳判断は、統治者にとっては不自由でしかないからだ。学者が「事」だけにかまけて、歴史事実の探求をしているのなら、統治者にとって何の不都合も無い。『左氏伝』の盛行と『公羊伝』『穀梁伝』の衰退は、経書解釈が集権政治体制へ適応していった過程の一部でもある。
経学の歴史を見れば、独自性があまりに強いものは、後世に遺り難い。例えば、王安石の『三経新義』は当時の政治改革の一翼を成すもので、一世を風靡したが、時代が変われば需要が無くなり、後に散逸してしまう。清末の代表的学者孫詒讓は、『周礼正義』を編纂した後に『周礼政要』を書いた。『周礼政要』の主旨は、西洋列強の「進んだ」制度が、実は『周礼』の中に既に書かれているのだ、というもので、彼にとっては、正に中華文明の存亡に関わる最重要問題であった。しかし、今となっては『周礼政要』を読む人は殆ど居らず、学説を整理しただけの『周礼正義』が不朽の名著とされている。そう考えれば、『公羊伝』『穀梁伝』の衰退は、集権政治体制への適応というよりは、その時代性が原因だったと見ることもできるかもしれない。
色々と考えるにつけ、鄭玄の『三礼』『毛詩』注が千八百年廃れることなく最も権威ある注釈として伝承されてきたことは、真に僥倖であったと思わざるを得ない。そして、実際に『論語集解』に駆逐されて、唐代以降散逸してしまった鄭玄の『論語』注が、敦煌・トルファンから残巻として出土したことも。
経書の注釈は、時代が下るにつれてつまらなくなっていく。本当に面白く、読む価値が有るのは鄭玄の注であると、飽くまでも個人的見解だが、私は信じて疑わない。
(2021/1/15)
————————————
橋本秀美(Hidemi Hashimoto)
1966年福島県生まれ。東京大学中国哲学専攻卒、北京大学古典文献専攻博士。東京大学東洋文化研究所助教授、北京大学歴史学系副教授、教授を経て、現在青山学院大学国際政治経済学部教授。著書は『学術史読書記』『文献学読書記』(三聯書店)、編書は『影印越刊八行本礼記正義』(北京大出版社)、訳書は『正史宋元版之研究』(中華書局)など。