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カデンツァ|音楽の未来って (6)オーケストラの未来〜落合陽一×日フィルプロジェクトVol.4に思う|丘山万里子

音楽の未来って (6)オーケストラの未来〜落合陽一×日フィルプロジェクトVol.4 に思う
“Where does Music come from? What is Music? Where is Music going?”
“ D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by  山口敦 /写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団

10月半ばに開催された「落合陽一×日フィルプロジェクトVol.4」は、コロナ禍により『__する音楽会』とのタイトル、先立つ8月記者会見でも__部分は伏せられた。当夜の最後にスクリーンで「双生」と種明かし。
オーケストラの未来の一モデルとして多々考えることあり、ここで書かせていただく。

私は事情で記者会見は途中からの視聴(オンライン)だったが、落合が『第9』の実演に接して「オケのなま音、めちゃくちゃすごい。合唱、ハンパない情報量、16Kくらいの高解像度に感じた。みんなイソギンチャクみたいに動いていて、ひとりひとりが自由意思なのか集団因子なのか全然違う動き方、あれはたまらん。」とコメントするのを聴き、その受容感性(高解像度やイソギンチャク)に、なるほど、デジタルネイティブ世代に世界はこう見えるのか、といたく興味をそそられた。
前年『耳で聴かない音楽会』のリハと本番を見聞、リハではデバイス体験もし(SOUND HUG・Ontenna)、音楽と映像コラボも察してはいたが、曲が異なれば違った切り口が示されよう、さらにbeforeコロナafterコロナを見据えてのPJであれば、と出かけた。

結論を言えば、私の耳目はもはや化石、と実感した一夜であった。
音楽体験に「正しさ」など無い。自由だ。
そう思いつつ、違和その他が襲う。
順を追って記そう。

隣席(市松模様は解除)に、威勢よく着席の御仁(4,50代と見た)、最初のベートーヴェンの拍動(打ち込み)に著しく反応、たびごと力み揺動、なのだがそのビート、微妙にずれる。アウフタクトゆえロック・ポップス系のノリになるのは合点だが、いや、そこじゃないんだけど、と落ち着かない。つまり、リズムの身体感覚の相違の戸惑いが。
次なるハイドン、奏者が次々席を立つポピュラー定番曲だが、御仁、始まった途端に爆睡で頭ガクンガクン。仕掛けなんぞに至る前に沈没。そうか、退屈か。この正直さ、何がし納得だ。
400年前のヴェネツィアはサン・マルコ寺院、聖歌隊・合奏隊らが織りなす教会音響空間で鳴っていたガブリエリは、ステージ中央と2階両サイドに4・4・4と金管奏者を配置。こうした意図、現代音楽では珍しくもないが、クラシック初体験者には新鮮かも。

さて、巨大スクリーン画像つきペルト。
暗闇の中、静謐な弦楽合奏の背後で細かなモザイクやラインが流動し、音楽につれ種々の形状を取る。
ペルトらしい聖歌風メロディーがわずかな変容を見せながら繰り返される、その波にときおり打楽器が楔を打ち込む。その重い打音に同期し画像が動くありがち説明過多はないものの、やはり煩わしい。粒子やプランクトン様のものが絶え間なく揺動、その画像の蠢き、増殖、変容が薄気味悪く背筋に虫が走るみたいな気分に襲われ give up。これは固有生理でどうにもならない(TV『鬼滅の刃』の画も苦手なほどゆえ)。
「イソギンチャク」発言を想起、この音楽を細密な情報受信解析回路で感受したなら、このような世界(耳目)が拓けるのだな、と遠目に思う。
つまり、受信情報の可視化だ。
目を閉じ、思い出した。子供の頃(今も時おり)私は眠りに落ちる前、閉じた瞼の裏に微細な粒子が星河星雲のように色とりどり流れるのをずっと追いかける癖があった。似てはいるが、それを拡大、ほらほら、と押し付けられるのはかなわない。
ペルトの哀切な美しさを安っぽい分析表に置換しないでくれ、とわずか、かなしみが湧く。

藤倉はその点、当然ながらのコラボ(親和性)を見せる。
オケと海外リモート出演者16名(USA, UK, Germany, Italy, Mexico, Vietnam, Indonesia, Philippines, Thailand)の合奏でZOOM画像の上に、カラフル大小丸、三角、四角などが重なる。ハイブリッドアンサンブルね、いいんじゃないですか。
別段、聞こえるものも見えるものも定型なく、どうでもよく(そこが肝だ)、心地よく、時空を超えての「共有」の未来形がそこに。

後半ストラヴィンスキー、コラール部分をモノクロにしてくれたのはありがたかったが、筋書きを知らぬ(プログラムにも説明なし)彼彼女は何をどう受け取ったのか。いやそれで良い、それが良いのだ、何となく面白い感じ、楽しんだ感じがすれば。
私は休憩中、なぜか密の一列席からガラガラ前列へ勝手に移動ゆえ、くだんの御仁の反応は体感把握できなかったが、終演後、盛大な拍手であったのは確認(周囲も無論)。

プログラムの落合ステートメントを紹介しておく(HPにもあるが本誌WARP国立国会図書館資料保存対象ゆえしっかり後世に残したい)。

「オーケストラが分断される.今までと同じ形を作れなくなる.メロディも,ハーモニーも,体験も,感覚も,分断された世界で今まで通りに味わうには難しい.
距離の制約を電子技術を経由して取り戻そうという動きがある.多くの試みが流刑状態にある人々を癒すために,空間を超えて行われている.不意に現れたデジタルの自然への橋梁を前にして,世界の手触りを失ってしまっていることに気がつく.世界が今や質量への憧憬の中にあり,その憧憬がもはや郷愁へと変わりつつある.この現状に我々は満足していない.
我々はこの時空間的な分断に対して,実験と共有の連続こそがこの新しいデジタルの地平に生まれ直した時代にとりうる,手立てだと真摯に考える.我々は身体性を切り離したデジタルの地平で,オーケストラを聴くこと,見ること,共有することについて,実はまだ何も知らないことを,毎日明らかにしていくのだ.デジタルの地平から,改めてこの世界の触覚や調和を取り戻す作業は,世界を赤子が認識していく姿に似ている,初めてバイオリンを習ったときのあの窮屈さや,初めてピアノを褒められたあの奥ゆかしさに似ている.
繋がること,隣人を愛すること,夢を抱くこと,希望を持つこと,様々な大切さがある.我々はその中で,世界に生まれ落ちた赤子が,世界を触りながら愛していくように,オーケストラの原義に立ち戻りながら,デジタルの触覚や共有空間に対する想いを結実させていく.今我々が目指すのは,実験と共有の繰り返しからたどり着くはずの,名前のまだない,幼子の初めての発表会だ.」

それはさておき。
進む高齢化社会(クラシック受容層は60代から上)、さらに今回コロナ困窮の大所帯オーケストラが生き残りをかけて最新テクと結び、若者を取り込もうとの意気込みはわかる。このPJはすでに4回を数え、文化庁委託事業「文化芸術収益力強化事業」未来志向モデルの一つ。衰退一途の危機感から収益強化を図る挑戦はいろいろあって当然だ。
ロビーは落合ルックの若者たちが闊歩、楽しんでもいたようだ。
だが、私が最も気になったのは、奏者たちの様子(というか音楽それ自体)。
ソーシャルディスタンスであろうと、ステージ再開のこの2ヶ月ほど、どこのホールでも溢れんばかりの奏者・聴衆・スタッフの喜びを私は目撃してきた。それが響きとなって幾重にも増幅し、互いの心を通わせ震わせる。
日フィルが観客を入れた初のステージ公演での弦楽四重奏(6/13@杉並公会堂)に接し、演奏メンバーの熱い思い、受け止める人数限定の聴衆、細心の注意を払う会場スタッフ、支える裏方さんの間に酌み交わされる生の音楽の祝杯の甘露に私はジンとした。これが私たちの音楽の原点だろう。
だが、この夜のステージの奏者たちの演奏に、それがあったろうか。
何かピリピリ音楽が息づかず、音楽する喜び、その熱量や圧力が伝わってこない。

ここ数年、私はデジタルネイティブ世代の音楽世界を様々に感じてきた。SQを優秀外科医のオペみたい、と述べたこともあるし、メロディーラインはグラフ化され、リズムはパルス、音符は点滅微粒子に見える、とも。
生まれた時からスマホをいじり人工発色世界に取り巻かれる子供達の感覚器官の変化がそこには顕著だ。作曲界も同じ。
ワイヤレスイヤホンで歩く日常が心身を変えるのは当然で、人間が科学技術の進歩にブレーキをかけることがないのは歴史が証明している。
だがそれは何を目指し、何を夢見てのことなのか。
「デジタルの地平から,改めてこの世界の触覚や調和を取り戻す作業は,世界を赤子が認識していく姿に似ている」
デジタルの地平とは何なのか。
少なくとも私には事象の限りない分断解析により数値化されたものの再構築人造世界、ビット集積によるいわば精密なジグゾーパズルにしか思えず、不分明な「あわい」「うつろい」「ゆらぎ」といった曖昧模糊領域に宿る音楽生命を枯渇させる感覚世界にしか現段階では思えない。コロナによる「時空間の分断の再生と回復、触覚と調和を取り戻す」に、デジタイズの粒の分割を推し進めれば、より「美」に近づけるという発想 は、むしろ相反と筆者には思える。

人間は古来、不老不死を願う生き物であったが、成功したためしはない。
コロナだろうとデジタルだろうと、自然としての人間存在、命は必ず消滅の途を辿る。
なるほど中世、近代、現代と400年の時空の旅とはいえ、人類の歴史から見れば一瞬にも満たない。ましてや宇宙のそれを思うなら。
私は、音楽の本質は人間存在のこの理(ことわり)、生きて死ぬ生成消滅を一瞬に担うところにあると考える聴き手だ。
そこに音楽の美が宿る、と考える聴き手だ。
そうした享受が化石であろうと偏屈であろうと、私はその「美」を愛おしく思う。
そこに人間の祈りを、夢を見る。
技術の永遠の進化の先に、人は、どんな夢を、どんな音楽を聴くのだろう。
どう聴こうが、どう楽しもうが自由だし、音楽の享受とは畢竟聴き手の創造行為だ、と私は常に主張もしている。
だが、響立つ音楽それ自身に創造の喜びがなくて、どんな相乗・創造が生まれよう。
双生?

アンコールは、J.S.バッハ《マタイ受難曲》第62曲《コラール》。
それが一番、心に沁みた。
その時だけ奏者が、私の知る、愛する音楽を奏でた、と思えた。

追記)
400年後にこの記事がどう読まれるか、私には見当もつかない。それだけに、デジタルネイティブ世代の享受を知りたい、載せたいと思い、周囲の若者たちに声をかけてみたがこの公演に出かけた、もしくは関心を持つ子はいなかった。そもそもクラシック音楽を聴きに行くような子は興味も持たないのか、それともチケットが高すぎるのか(8Kだかのオンラインもライブと同額は、ちょっと興味はあるけど、みたいな子や人たちを排除することになろう)それが不思議でもあったが、この公演を楽しんだ方がおられたら是非ご寄稿をお願いいたします。

(2020/11/15)

関連レビュー:落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL. 4《__する音楽会》|能登原由美

◎カデンツァ|音楽の未来って (1)(2)(3)(4)(5)

落合陽一×日フィルプロジェクトVol.4 『__する音楽会』
2020年10月13日 東京芸術劇場

<スタッフ>
演出・監修:落合陽一
指揮:海老原光
ビジュアル演出:WOW
照明:成瀬一裕

<演奏>
日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:扇谷泰朋

「兵士の物語」
扇谷泰朋vn、高山智仁cb、伊藤寛隆cl、鈴木一志fg、オッタビアーノ・クリストーフォリtp、岸良開城tb、福島喜裕perc

<曲目>
ベートーヴェン:交響曲第7番 第4楽章(1811)
ハイドン:交響曲第45番「告別」第4楽章(1773)
ガブリエリ:ダブル・エコー効果の12声のカンツォン(1615)
ペルト:フラトレス(1977/1991)
藤倉大:「Longing from afar」 [ハイブリッド演奏世界初演](2020)
 世界のオーケストラプレイヤーとともに
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ストラヴィンスキー:組曲《兵士の物語》(1918)

(アンコール)
J.S.バッハ:《マタイ受難曲》第62曲コラール