アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル|柿木伸之
アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル
András Schiff Piano Recital
2020年3月17日 いずみホール(大阪)
2020/3/17 IZUMI HALL(Osaka)
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by 林 喜代種 (Kiyotane Hayashi) (撮影3月12日東京オペラシティコンサートホール)
<曲目> →foreign language
メンデルスゾーン: 幻想曲 嬰ヘ短調 op.28「スコットランド・ソナタ」
ベートーヴェン: ピアノソナタ第24番 嬰ヘ長調 op.78「テレーゼ」
ブラームス: 8つのピアノ小品 op.76
7つの幻想曲集 op.116
J.S.バッハ: イギリス組曲第6番 ニ短調 BWV811
——————————(アンコール)—————————–
J.S.バッハ: パルティータ第4番 ニ長調 BWV828から サラバンド
ブラームス: アルバムの小品
メンデルスゾーン: 無言歌第1集 op.19bから 「甘い思い出」
無言歌第6集 op.67から 「紡ぎ歌」
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 op.53 「ワルトシュタイン」(全曲)
J.S.バッハ: 平均律クラヴィーア曲集第1巻から 前奏曲とフーガ第1番ハ長調 BWV846
ガボットの素朴な旋律が鳴り始めた瞬間、音の粒が連なっていくのに耳という耳が吸い寄せられていた。空間がいちだんと静けさを増したなか、微かな憂いを醸しながら淡々とステップを踏む歩みだけが浮かび上がっていた。ここにあるのは肉体の舞踊ではない。バッハが書いた音楽の内実と共鳴するアンドラーシュ・シフの演奏芸術の精神の舞踊である。それはもはやピアノという楽器の存在を感じさせないほど自由でありながら、必然性によって貫かれている。だからこそ、どこまでも自然に音が連なっていくのだ。そして、一つひとつの音は極限まで研ぎ澄まされているにもかかわらず、旋律の鄙びた味わいが失われることはない。
シフが2020年3月17日に大阪のいずみホールで行なわれたリサイタルの最後に置いたのは、このガボットを含むバッハのイギリス組曲第6番(BWV811)だった。その演奏は、曲の形を明確に浮かび上がらせながら、そのなかに息を通わせていた。もちろん、それによって音楽の峻厳さが損なわれることはない。シフはサラバンドまでは、形式と不可分な悲しみの深まりを突き詰めていた。だからこそ、闇のなかにふと浮かんだガボットの旋律に、聴衆は惹きつけられたのだろう。そこには、悲しみを微笑みながら語りかけるような歌があった。確かにイギリス組曲の演奏は、シフの音楽芸術を象徴するこの日の白眉だった。
とはいえ、それは約束されていたことのようにも思える。シフはすでにレコーディングにおいても、バッハの作品の演奏で成功を重ねている。この日のリサイタルにおいて、イギリス組曲と並んで印象深く聴いたのは、ブラームスの小品集の演奏だった。シフは前半のプログラムの最後に、作品76の《8つのピアノ曲》を置き、後半のプログラムを作品116の《7つの幻想曲》で始めていた。いずれの曲集も、カプリッチョとインテルメッツォの対によって構成されているが、それぞれの曲の内的な構成の点でも、曲どうしの関連の点でも凝縮度の高い幻想曲をバッハと並べるところには、シフの意図が感じられる。
ブラームス晩年の《幻想曲》では、カプリッチョと題された小曲においても非常に短い、それ自体としては単純な音型のなかから音楽が紡ぎ出される。シフは、ペダルを比較的多く用いて深い情感を醸しながらも、硬質のタッチを貫き、そのような音楽の緊密さを見事に伝えていた。このことが終曲の熱い高揚に必然的に結びついたのには、深い感動を覚えずにはいられない。ちなみに、《幻想曲》の最後のカプリッチョはニ短調で、バッハのイギリス組曲第6番もニ短調。シフは、作品116の曲集を構成する小品に結晶したブラームスの音楽の到達点が、バッハの音楽の形に呼応することを示そうとしたのではないだろうか。
シフによるブラームスの演奏を聴くと、屈折に屈折を重ねる感情が込められた音楽が、一つの形をなす。だからといって、音楽の内実が単純化されることはない。それゆえに展開の各局面が意味深く響く。それぞれの小曲が、言いよどむ瞬間にも確かな位置が与えられている一つの言葉であるかのようだ。《8つのピアノ曲》のなかで対をなすように並ぶイ短調とイ長調のインテルメッツォに聴かれる、優しく語りかけるような旋律の温かさも忘れがたい。そして、このブラームス壮年期の曲集が全体として醸すラプソディックな雰囲気は、前半に演奏された他の二曲とも見事に呼応していると感じられた。
シフらしく過度に感傷的になることなく、ほの暗い情動が音楽のみずみずしい躍動に結びつくさまを浮き彫りにしたメンデルスゾーンの嬰ヘ短調の幻想曲(「スコットランド・ソナタ」作品28)の演奏もさることながら、深い感銘を残したのはやはり、「テレーゼ」の愛称で呼ばれるベートーヴェンの嬰ヘ長調のピアノ・ソナタ第24番(作品78)の演奏だった。二楽章しかなく、そのいずれも古典的な形式を逸脱するこのソナタにおける音楽の伸びやかさが、自然に引き出された演奏だった。最初の楽章で、恋人に微笑みかける歌からこぼれ落ちたかのような動機が自由に展開する過程からは、爽やかさとともに確かさが感じられた。
今回のリサイタルでシフは、プログラムの前半では、形式を逸脱する音楽の自由な展開に、後半では各曲内部の、さらには曲どうしの緊密な関連に力点を置きながら、古典的な「ソナタ」以後のピアノ音楽の展開のロマン主義における一側面を、バッハの精神を受け継ぐものとして提示しようとしたと考えられる。その意味で今回のプログラムは考え抜かれたものであり、演奏もこのことを説得的に伝えるものだった。なお、イギリス組曲のガボットのIとIIを合わせて一曲と見るなら、前半も後半も13曲で構成されている。このように見事に対称的な形を持ったプログラムの後で、シフは実に多くのアンコール曲を弾いてくれた。
なかでも、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番ハ長調「ヴァルトシュタイン」(作品53)を全曲演奏したのには正直驚かされたが、この作品の演奏は、曲を貫くリズムの鼓動と旋律の内的な関連を間然することのない流れで示す、見事なものだった。アダージョの展開の果てにフィナーレの旋律が浮かび上がった瞬間の喜びは忘れがたい。最後にシフは、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻の第1曲を演奏した。そのフーガで、シフが澄みきった音で確かな歩みを浮かび上がらせたのも感銘深い。このような彼の演奏芸術に、聴衆はスタンディング・オヴェーションで喝采を送っていた。
ただし、そうした聴衆の熱狂に、今回のシフのリサイタルが置かれていた特別な状況の影響はなかったか、と問われるならば、やはりあったと言わざるをえない。彼のリサイタルが同じ感動をもたらしたとしても、通常であれば、音楽の質からして聴衆の反応はもう少し落ち着いたものだったはずだ。この大阪でのリサイタルを含むシフの一連のリサイタルは、新型コロナウィルスへの感染が拡がるなか、演奏会が軒並み中止、もしくは延期になっていく状況の下で開催された。筆者を含め、それに敢えて足を運んだ者は、自分がいかに生の音楽の響きに飢えていたかを実感したにちがいない。その感慨も、喝采には含まれていたはずだ。
いずみホールでのシフのリサイタルは、開演直前に映写されたヴィデオ・メッセージで主催者が説明していたが、専門の医師の指導にもとづく感染防止態勢の下で開催された。チケットの半券を係員が切り取ることはなく、バーやクロークも閉められた。体調の悪い人の来場は禁じられ、また来場者には手指の消毒が強く求められた。そのような対策を講じてリサイタルを実現させ、シフの芸術を聴衆に届けた主催者の努力には、敬意と感謝を捧げたい。しかし、現時点で振り返ると、それでもなお開催されるべきだったかという問いに関しては、疑問を拭いえないでいる。会場までの移動のなかで、人との距離を保つことは難しいからである。
幾重もの意味で特異な出来事だったシフの大阪でのリサイタルから二週間が経った今、もはや無観客での上演をウェブ上に配信することすら難しい。そして、いつ演奏会やオペラの公演が再開できるかも、まったく見通しが立たない。同時に、全世界が置かれたこのような厳しい状況を生き抜くために、芸術が欠かせないことも明らかになりつつある。それぞれの住まいで音楽についての研鑽を、あらゆる可能な手段を駆使して積むこと。そのためにあらゆる意味で連帯すること。それは人が生に踏みとどまるために求められている。このことの可能性を、アンドラーシュ・シフは身をもって示したのではないだろうか。
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(2020/4/15)
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柿木伸之(かきぎ・のぶゆき/Nobuyuki Kakigi)
鹿児島市生まれ。現在、広島市立大学国際学部教授。専門は哲学と美学。20世紀のドイツ語圏を中心に言語や歴史などについての思想を研究する傍ら、記憶とその表現をめぐる問題にも関心を寄せつつ著述を行なう。著書に『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)、『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』(インパクト出版会)などがある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング)がある。音楽や美術に関する著述もある。
個人ウェブサイト:https://nobuyukikakigi.wordpress.com
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< Program>
Mendelssohn: Fantasia in F-sharp minor “Sonate Eccossaise”
Beethoven: Piano Sonata No.24 F-sharp major op.78
Brahms: 8 Piano Pieces, op.76
Brahms: 7 Fantasien op.116
J.S.Bach: English Suite No.6 in D minor BWV811
————————(Encore)————————
J.S.Bach: Sarabande from PARTITA No.4 in D major, BWV.828
Brahms: Albumblatt
Mendelssohn: Lieder ohne Worte Heft 1 Op.19b-1 U 86 sweet remembrance
Mendelssohn: Lieder ohne Worte Heft 6 Op.67-4 U 182 Spinnerlied C-Dur
Beethoven: Piano Sonata No.21 C major op.53 “Waldstein”
J.S.Bach: Das wohltemperierte Clavier, 1 teil, 24 Praludien und Fugen Nr.1 C