《サイレンス》(原作:川端康成「無言」)|能登原由美
『サイレンス』(原作:川端康成「無言」)
En Silence (Based on “En Silence” by Yasunari Kawabata)
2020年1月18日 ロームシアター京都
2020/1/18 ROHM Theatre Kyoto
Reviewed by 能登原由美 (Yumi Notohara)
Photos by 井上嘉和 (Yoshikazu Inoue)
原作:川端康成「無言」 →foreign language
台本、作曲、指揮:アレクサンドル・デスプラ
台本、演出、音楽監督、ビデオ演出:ソルレイ
舞台美術:シャルル・シュマン
衣装:ピエールパオロ・ピッチョーリ
演奏:アンサンブル・ルシリン
バリトン(三田):ロマン・ボクレー
ソプラノ(富子):ジュディット・ファー
語り:ロラン・ストケール(コメディーフランセーズ)
製作、舞台美術製作:ルクセンブルク市立劇場
共同製作:ガレリア・ミュージック(協力:EDM)
〈作品中の映像〉
ヴァイオリン演奏:ドミニク・ルモニエ
ダンサー:ヨーコ・ヒガシ
女性:ツルコ・ハナムラ
見つめる目:アキ・クロダ
映像撮影チーム:永田鉄男/ジュスティーヌ・エマール
映像制作:ビアトリス・ソヴァジオ&ティアリ・グランピエル
編集:ソルレイ&ジェラール・クイル
美術協力:シャルル・シュマン
舞台美術製作:ルクセンブルク市立劇場アトリエ
15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を考案して以降、文字文化の浸透は加速し、情報を伝達する役割を担うのは耳から目へと移行していった。音楽においても、ペトルッチにより活版印刷楽譜が普及するようになったことで、楽譜を読む、すなわち音楽を「目で」捉える行為が始まったのではないかと思う。同時に、言葉も音楽も「書かれる」ことの重要性が一層増大する。紙の上に書き留められた文字や音符が、いまや絶対的なものとなり始めたのだ。逆に、書かれていないものは次第に力を失っていった。同じ紙の上でも、書かれた文字や音符が圧倒的な優位を占め、傍にある「余白」など、やがて顧みられなくなっていくのである。
室内オペラ《サイレンス》。原作は、川端康成の短編小説『無言』。物語は、病で言葉を発する機能を失った老小説家を、後輩作家の三田が見舞うところから始まる。道中に通るトンネル手前の火葬場付近で幽霊が出るという噂を耳にしていた三田は、行きがけに乗り合わせたタクシーの運転手からもその噂が本当らしいことを聞く。運転手によれば、気づくと後部座席に座っているというその女の幽霊は、ただ何も言わずに黙って座り、鎌倉の町に入るといつの間にか消えているのだという…。
映画音楽で名だたる賞を総なめにしてきた作曲家、アレクサンドル・デスプラが、この川端のミステリアスな小説からインスピレーションを受けて創作した。演出、音楽監督を務めたソルレイとともに台本を起こしたというその内容は、ほぼ原作通りに展開していく。全編を通じてフランス語で演じられる舞台を進めるのは、タクシー運転手も兼ねた語り(ロラン・ストケール)。また、三田(ロマン・ボクレー)と、言葉を失った小説家の世話をする娘の富子(ジュディット・ファー)がレチタティーヴォに近いスタイルで歌唱していく。
小編成のアンサンブル(アンサンブル・ルシリン)が奏でる音楽に、時折ペンタトニックを用いた旋律や太鼓を模した音色、リズムが織り込まれるほか、三田や富子の歌唱のイントネーションに起伏や強弱があまり見られないのも、日本語的、すなわち西洋から見た日本のイメージと解することができるかもしれない。
文字通り、この川端の『無言』(=サイレンス)のオペラ化であるが、川端が自らに突きつけたであろう問いが、デスプラ自身の問いとなって響き合うところに、原作とは別の、新たな作品としての生命が与えられていたように思う。
そもそも川端は、言葉、いや突き詰めれば、15世紀以来続いてきた文字への行き過ぎた特権化に、問いを投げかけたのではないか。言葉を発することができない小説家。黙って座り続ける幽霊。物語の核となるこれら2つの存在は、いずれも言葉を持たない。ただそこにいるだけなのだが、その存在は明らかに周囲に何かを発している。
劇中に現れる、老小説家が以前に書いたという作品も同工異曲だろう。精神に異常をきたした作家志望の息子が、母親に会う度に「書いた」と原稿を見せる。が、いつ見ても原稿は白紙のまま。それでも原稿を読み上げるよう強くせがまれた母親は、とっさに息子の生い立ちについて読み聞かせるようになる、というものだ。正気を失ったこの息子も、幽霊や老小説家と同じだ。彼らはいずれも言葉を発することなく、ただそこに存在し続ける。けれども言葉を持たないその存在自体から我々は常に何かを、少なくともその存在の「来し方」を読み取っているのではないか。息子の生い立ちを話し始めた母親のように…。幽霊や老小説家の過去に思いを馳せた三田のように…。
実は、この劇中劇だけは一切歌われず、音楽もほとんど途切れ、字幕と舞台上の人物の動きだけで話が進められていった。音楽のない「オペラ」である。いや、本当にそうだろうか。むしろ、音が鳴っていなくても、我々は舞台上の動きから音楽を聞き取っているのではないか。果たして音楽、とりわけ「楽譜に書き記された音楽」は絶対的なものなのか…。登場人物から言葉を奪った川端同様に、デスプラも音楽を奪うことで、その根底に流れ続ける問いの存在を露わにさせたのではないだろうか。
それにしても、老小説家はわずかに動かせる手を使えばカタカナによる意思表示ぐらいは出来るらしい。だのに、それすらしない。世話をしてくれる娘に対して「アリガトウ」の「ア」の字さえ書こうとしない。三田は白紙の紙に文字らしきものを殴り書きして激しく咎めるが、老作家は無言のままである。
つまり彼は、「言葉」だけではなく「文字」そのものを放棄したのである。それまで文字を使って自己を表現してきたからこそ、その否定は深い。が、デスプラはここで、三田の旋律に激しい起伏と強弱を入れ、その爆発する感情を音符に託した。それまで一貫して表情の乏しかった彼の歌がにわかに変化したのである。その点、川端とは異なり、結局は音楽を棄てきれないデスプラ自身の姿がここに映し出されているようにも思えた。
もしかするとこれは、近年加速する記録化、アーカイブ化の潮流自体にも疑問を投げかけているのではないか。というのも、書かれたもの、印刷されたもの、現代で言うならコンピューターの画面上だけに全てがあるわけではないのだから。けれども、紙やデータに記録されたものが一層の力を持つようになれば、「そこに存在しないもの」は捨象され、書かれていないものや「余白」に何かを見いだす力は今後ますます弱まっていくに違いない。その転換期にある今、「書き留める」ことへの無思考的な絶対化に警鐘を鳴らすものになったとも言えるだろう。
(2020/2/15)
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Based on “En Silence” by Yasunari Kawabata
〈Cast〉
Librettist, Composer, Conductor | Alexandre Desplat
Librettist, Stage Director, co-musical Director, Video | Solrey
Artistic Collaboration | Charles Chemin
Costume design | Pierpaolo Piccioli
Musicians | United Instruments of Lucilin
Baritone (Mita) | Romain Bockler
Soprano (Tomiko) | Judith Fa
Laurent Stocker (Comédie Française)
Production | Les Théâtres de la Ville du Luxembourg
Co-production | Galilea Music in association with EDM
〈Cast information of video〉
Phantom violin | Dominique Lemonnier
With Phantom Dancer | Yoko Higashi
Woman | Tsuruko Hanamura
Master’s Gaze | Aki Kuroda
Video team | Tetsuo Nagata & Justine Emard
Software creation | Beatrice Sauvageot & Thierry Grandpierre
Edits | Solrey & Gérard Quiles
Artistic Collaboration | Charles Chemin
Construction of the decoration | Ateliers des Théâtres de la Ville du Luxembourg