Menu

ボーダーレス室内オペラ「サイレンス」|西村紗知

ボーダーレス室内オペラ/川端康成生誕120周年記念作品「サイレンス」
“En Silence”based on a novel by Yasunari Kawabata

2020年1月25日 神奈川県立音楽堂
2020/1/25 Kanagawa Prefectural Music Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Phots by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>        →foreign language
バリトン(三田):ロマン・ボクレー
ソプラノ(富子):ジュディット・ファー
語り:ロラン・ストケール(コメディー・フランセーズ)
演奏:アンサンブル・ルシリン

<曲目>
ボーダーレス室内オペラ/川端康成生誕120周年記念作品「サイレンス」
 原作:川端康成「無言」
 台本・作曲・指揮:アレクサンドル・デスプラ
 台本・演出・音楽監督・ビデオ演出:ソルレイ
 舞台美術:シャルル・シュマン
 舞台美術原案:エリック・ソワイエ
 衣装:ピエールパオロ・ピッチョーリ

 

最後、舞台に幽霊が通り過ぎた。富子役のジュディット・ファーが長髪のかつらと白装束をまとって舞台後方に現われ、それは最もありそうな幽霊の表現方法であるように思えたし、なんとなれば最後幽霊が登場しないという解釈もありえないわけではなかったのであろうが――とにかく、幽霊は最後、通り過ぎたのである。
この、言ってしまえば捻りの無い幽霊というものに――確かに衣装やかつらの具合を日本風に仕立てなかったあのデザインには捻りがあったと言えようが――非常に安堵感を覚えるようで、また劇作上の不備と思うこともなかった。
どういう安堵感であるか。それは、思わせぶりな身振りをやっただけで美的な質を獲得できたものとする、そんな態度が見受けられなかったことによる安堵感である。

思えば、最後まで一貫して、素敵ではあっても媚びることのない舞台であった。観客からの承認をわざわざ得ようとせずとも、それだけ美的な質で圧倒できたということだ。実際、作品になにか思わせぶりな身振りが書きこまれてあると、作品の美的な質は損害を被るものではないか。この状況は今日おおよそ不徹底なかたちで独自の解釈の提示という名目のもとあらゆる分野で見受けられるが、観客に解釈の補填を委ねたところで、そもそも美的な質を補填することにはつながるまい。今日「いいものはいい。誰にだって伝わる」などと口にするのは憚られるようになったが、この文句が含むものを克服することもなく、ただただ逃げおおせて開き直っていると、そのままそれは呪詛の言葉に変貌しよう。そもそも、「いいものはいい」の同語反復に観客を無理矢理引き込もうとすること以外に、芸術家の目的なんてそうそう有りそうにないように思える。
それこそ、「いいものはいい。誰にだって伝わる」の幽霊が化けて出たんじゃないのか、などと思ってみたりもしたが、作品に即して言えば、あの幽霊は作中に行き交う様々なディスコミュニケーションを締めくくる存在として出てくるのだった。発作で倒れてから半身不随で一言も喋ることができなくなった六十六歳の小説家、大宮明房。彼と特異な仕方でコミュニケーションをとる娘の富子。その二人の間のコミュニケーションを目の当たりにし、自らもなんとか大宮と意思の疎通をはかろうとする作家で本作の主人公、三田。そうして、この作品の主題は「ディスコミュニケーション」ということに尽きるようであったが、かといってコミュニケーションのなんたるかと教訓を述べるようなところはなく、川端康成のテクストに沿って、ひたむきに美的な質で自らを満たし続けるオペラであった。

フルート、バスフルートの奏でる謎めいた旋律で舞台は幕を上げる。本作では三田と富子以外の諸々の役割をロラン・ストケールが語りとマイムで埋めるようになっていて、この最初のストーリーテラーの役割も彼が担っている。大宮明房は発作で倒れてから一言も喋れない、だけれどカタカナくらいは書けそうなものだ、茶が欲しければチと書く、それでコミュニケーションをとればよい――原作ではタクシーで明房の自宅に行く途中の三田の考えごとの内容であるこの部分を、語りが観客に向けて説明し、ここでは「カタカナ」というプロットが妙に強く発話される。アンサンブル・ルシリンのメンバーがなにかタンバリンのような打楽器を鳴らす。カタカナという言葉のパーカッシブな側面を拾うことで、これから始まる物語の主題が暗示されていたのだ。カタカナという文字が簡素で記号めいていることも関わっているかもしれないが、つまり、諸々の言葉、文字の、シンタックスから離れたところで発揮されるようなコミュニケーションへの視座が、舞台冒頭で示されている。

続いて三田がタクシーに乗車しているシーンに移る。オペラの美的な質とはまず第一に歌手の能力であろうが、特筆すべきは、物語の最後にも配置されているアリア、タクシー乗車中の三田役のバリトン、ロマン・ボクレーの高音部の声質である。高度な歌唱能力は聴衆の身体に作用するものだ。痺れるような心地になって物語にぐっと引き込まれてゆく。アンサンブル・ルシリンによる伴奏のつくりも丁寧で、スターティッシュなぶつかりの多い長音から、うごめく点描のテクスチュアへ。伴奏のうごめきの反復は、スクリーンに映し出されたトンネルの映像の、青い光と連動しているよう。

タムタムが鳴って場転。明房老人は横たわって野球中継を見ている(スクリーンに王貞治の出場する試合が写されている)。野球中継の生き生きとした様子が、明房の死人のような動きの無さを強調している。三田を出迎える富子のアリアはところどころスタッカートに、はきはきしたオールド・ミスの様態が表われている。震えるようなメノ・モッソの表現もまた、きめ細やかなニュアンス。

その後、原作通り明房の小説「母の読める」の内容に話が移るが、本作ではロラン・ストケールのマイムとスクリーンの映像による、作中劇となる。作家志望の精神を病んだ青年が母親に自筆の小説を見せるが、そこには文字がない。母親は諸々悟ってその白紙の原稿を、内容を創作しつつ息子に読み聞かせるが、そのうち白紙の原稿を介して母と息子の心は通い、幸福になるというもの。明房は自身の将来を、自著で予言してしまったことになる(富子はさておき、明房が幸福であるようには見えないが)。白紙。つまり、シンタックスはおろか、文字のかたちをもつことすらないような、文字。相手の能動にすべて身を許すかたちでのコミュニケーション。スクリーンいっぱいに、かすれ、とぎれ、なんとかアルファベットのかたちを得たかと思えば、カタカナにも見えるかのような、そんな記号が雨のように降りしきる。

だが、三田には理解が及ばない。富子が明房の無言を理解しているということに。富子が席を外した少しの間に、三田は明房に一方的に話しかけてしまう。先生はなぜカタカナの一文字もお書きにならないのですか、ありがとうと伝えるのにアと書けば富子さんはとても喜びますでしょうに――三田は知らず知らずのうちに、明房の手をとり無理矢理カタカナを書く練習をさせてしまう。ふと我に返る三田。明房に筆を握らせて書かせた荒々しい記号。本当にただそこにあるだけの、無言の記号が出来上がってしまっていた。そのまま、富子とまた少し会話したのち、三田は帰路に着く。そして、帰りのタクシーで幽霊に出会う。ディスコミュニケーションを、連れ帰ってしまったかのように。

歌唱、作曲、演奏、演出いずれも高水準の室内オペラ作品であった。アレクサンドル・デスプラのオペラ、次回作を期待したいところだ。

関連評:《サイレンス》(原作:川端康成「無言」)|能登原由美

(2020/2/15)


—————————————
<Artist>
Baritone(Mita) : Romain Bockler
Soprano(Tomiko) : Judith Fa
Laurent Stocker(Comédie Française)

Musicians : United Instruments of Lucilin

<Program>
A chamber Opera by Alexandre Desplat and Solrey
Based on “En silence” by Yasunari Kawabata
 Librettist, Composer, Conductor : Alexandre Desplat
 Librettist, Stage Director, co-musical Director, Video : Solrey
 Artistic Collaboration : Charles Chemin
 Original Artistic Collaboration : Éric Soyer
 Costume design : Pierpaolo Piccioli