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五線紙のパンセ|誰が日本の音楽界を弱っちくしているのか|近江典彦

誰が日本の音楽界を弱っちくしているのか

Text by 近江典彦(Norihiko Oumi)

例えば私たちが健康を保ちたいとき、幸せな人生を送りたいと思ったとき、強く逞しくそして優しくありたいと思ったとき、何が必要だと考えるだろうか?
人生には思考、意志の確立、そして実行力が重要な影響力を及ぼすが、それは社会でも会社でも業界でも同じだ。
私は「作曲、クラシック音楽、現代音楽、そして音楽大学」という比較的些少な業界に属しているが、今日私が書きたいと思ったのは自分たちが(そして関係する他業界も)より強くあるためには何が必要なのか、弱さはどこなのか、自分が考えていることを書いてみたい。

【安売り、安買いするのはもうやめよ】
最近よくアメリカへ行くが、とある木工所に寄った際に別のアメリカ人客が値段を聞いて「これだけ良いものをそんなに安く売ってはいけない!」と言っていた。アメリカ経済の強さをこの一瞬で垣間見た。
ところが日本のとあるビジネス番組で東北のどこかの村長だったかが「うちの街ではこんなに技術の高いものをこんなに安く作れるんですよ!」と意気揚々と言っていた。大バカ者である。

日本人はいい加減にデフレ思考をやめるべきである。あまりにも高い金額設定は間違いだが、自らの品と質を保つため適正な価格を付けるのは何も間違いでは無い。
例えば音楽教室の金額設定はべらぼうに安すぎる。音楽を教えるのは高貴な事だという自負を持ち、その音楽を教えるまでに掛かった年月と費用を鑑みよ。
この話をすると「高くすると他に生徒を取られる」と言う。これは一時の牛丼値下げ競争と同じで最後は業界の崩壊で終わる。
それに小学~大学などの公的教育機関や、大手の音楽教室でよくあることだが、人件費の安買いはこれも自らの業界の滅亡を招いているのでやめる時が来ている。大昔の「先生は聖職」という考えは捨て去り、いかに良質な人材に良い給与を提供出来るかに専念した方が良い。安い人件費が教育の質の悪さを生み各校の評判を下げるという負のスパイラルに入ることになる。今、何とか知名度を保っているところは、自らの伝統のなせる技ではなく、安い給与でもひたすらに頑張ってくれている志の高い教育者たちのおかげであることを認識せよ。

また、これは特に現代音楽業界の話しだが、とある音楽祭では諸経費を鑑みても非常に安い価格設定で行っているところがある。消費者としては安いのはありがたいし普及効果もあるのだろうが、残念ながら「現代音楽は安いもの」と言う印象を与えてしまっている。実際同規模の良質なものを演じようとすれば数倍から数十倍の費用が掛かるのに、どこか一つが安くしてしまったために正当な価格設定が出来ず業界に迷惑が掛かって、長期の視点で見れば逆に業界を些少に追いやっていることに何故気がつかないのか?
こと音楽や芸術は金銭的見返りを求めてはいけない神聖なもののように扱われている・・・お金を徴収して活動を行っているのにだ!・・・これは調子の良い綺麗事でしかないし、そう思うならタダで行えば良いし、見返りを求めるなんて芸術家としてけしからんと思っている聴衆や雇用主は(結構いる)、ならその代わり芸術家の衣食住を彼らの満足いくレベルで無償で提供することが自分に出来るか考えてみよ。

【プロフェッショナルに徹し、悪習をやめよ】
コンクールや応募企画や助成金や試験など、誰かが応募してプロが審査をするという形態のものが多く存在する。
しかしこれらの選考プロセスはそのほとんどが悪く言えば審査員のさじ加減だ。もちろん真摯に応募に向き合い審査している方もいるが、時折人の好みの範疇を超えてどう考えてもその審査員に関係性のある人に有利に働いているものを散見する。これは昔の師弟制度の名残を引き継いでいて、時折素晴らしく機能する場合があるが九割方はその業界の健全な成長を妨げる要因にしかならない。

これらは審査だけでなくプロデュースにもみられる事象で、自費でプロデュースしているものなら別に構わないが、雇われでこういったことをして業界内で身内祭りだとか女性が多いだとか選考者に関係のあるものばかり通るといった悪い噂がたち、他の者の意欲は削がれるし、100歩譲って良いものが出来てれば良いが、大抵は緩さの奢りからか微妙なものになってしまい、客からは何だこれは大したことないお金を払ってまで聴きに来るものじゃないという事になって悪評がたち業界の衰退に繋がる。
しかしこの問題の1番の大きい問題点は、運営側にプロフェッショナル意識が欠けている事だろう。ただ単に著名な選考人に頼んで後宜しくとするのではなく、運営側が自らの審美眼を養い、時代を読み、運営方針とこの審美眼に基づき選考人と喧々諤々しながらどうやったら良いものが出来るのか真摯に考え行動する。
芸術とはお金を出して誰か権威ある人に頼めば良いものが出来上がるわけでも見つかるわけでもないのだ。

またいくつかのオーケストラでは雇われ公演の時にそのほとんどが正規の楽団員以外のいわゆるトラの演奏家ということがある。大バカものだ。
きっと十分お金はもらっているのだろうが、息のあってない演奏があなたたちの名を恐ろしいほど貶めている事に何故気づかないのか。私はその事を知って、とあるオーケストラの演奏会に行く事を丸っ切りやめた。

いかなる個人も団体も、自信を持って自らの行動を子供や友人、親や尊敬する人に胸を張って言えるかどうかでそのプロフェッショナリズムは問われていると思う。

【見る目を養え】
とある豊富な賞歴のある現代音楽の作曲家の知人が自分はコンクール用に曲を書いていると話していた。
極簡単に説明すると、作曲コンクールではエクリチュール(書法技術)によって評価されるものと創作(その作者、作品のオリジナルのアイディア)によって評価されるものがあって、もちろんどちらも持ってるのが望ましい。ようするに創作とは0から1を作る事で、エクリチュールとは1を100にするものだというと分かりやすいか。

一般に「コンクール用に曲を書く」というのは、「譜面上エクリチュール的に良く出来ていそうな作品を書く」という意味で、これはつまり審査員は曲もたくさんあって全部一音ずつ読みはしないだろうから、見た目カッコ良いの書いとけば入選しやすくなるかもという打算に基づいて作られた曲で(もちろん実際はそんな簡単な話ではないが)、要するにコンクールも審査員も舐められてるのだが、残念ながらそういう曲が入選することは非常に多い。
これは私論だが、コンクールで良い曲を探し出すのは奇跡に近く、実態は卒論の一定のレベルを満たす者の上位のような認識で良いだろう。しかし日本人は経歴主義なのでこれを重宝したくなるが、ローマ大賞の例を見れば一目瞭然で・・この賞はドビュッシーが受賞した事で有名だが・・その9割以上の受賞者は今では忘れ去られた作曲家たちであるにも関わらずローマ大賞は凄いものかの様に語られている。凄いのはドビュッシーという個の創作力であってローマ大賞ではない。

つまりここで言いたいのは、作品や演奏家を売る立場、買う立場双方の者、そして当然音楽家当人や教育者も今すぐ経歴主義ミーハー主義をやめ、その音楽や演奏は何を求めていて、それらのどこに心を動かされたから売って世に広く知らしめたいのか、買ってその音楽史的価値を共感共有したいのかを、自らの力で考え、探し出すべきだという事だ。
この努力を怠り、誰かの評価に頼ろうとしたり、誰かの言葉に頼ろうとすると、この価値基準は軽くなってしまう。
しかし軽い方が簡単ではある。あっちに行きたいと思えばすぐ行けるし、こっちに来たいと思えばすぐ来れるし、複数持ちたい時も軽ければ簡単に持つことが出来る。
だが簡単にしようとすればするほど、音楽は陳腐になる。
小学校の時ワーグナーのマイスタージンガー前奏曲に感動して楽譜を読んで、何がどこにどういう風に作用して自分に感動をもたらしてるのか簡単に理解できた。
数年後その上辺だけの理解では全然足りない事に気がついた。大バカ者である。音楽は難しい。だからやり続ける価値があるのだ。

本当の強さとはその自分が価値があると思った何か、自分が好きな何か、何者かについて揺るぎない自信を持ってその価値を語れるという事ではないだろうか。
浅はかに目先の利益、欲、権威の追求をしてるうちは強くなれない。

 

★公演情報

うたx箏
2020年4月15日(水)19時開演
日暮里サニーホール コンサートサロン
全席自由 大人3000円/学生1500円
出演
箏・十七絃:吉原佐知子、ソプラノ:薬師寺典子、クラリネット:岩瀬龍太
曲目
渡辺俊哉:委嘱初演~ソプラノ・クラリネットのための~
鈴木治行:委嘱初演~ソプラノ・箏・クラリネットのための~
近江典彦:Drop7(2018)~ソプラノ・箏・クラリネットのための~
趙世顕:Regenbogen(2018/2019改訂)~ソプラノ・十七絃のための~
木下正道:双子素数II(2018)~ソプラノ・箏のための~

(2020/1/15)

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近江典彦(Norihiko Oumi)
作曲家 東京音楽大学非常勤講師
Tokyo Ensemnable Factory代表
norihikooumi.com