カデンツァ|表現の不自由|丘山万里子

表現の不自由
“Freedom of Expression?”

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

このところ立ち止まって考えるべきことが次々であるのに、流れの速さに立ちすくんでいる。書き始めから今までほぼ3週間、もはやまとめることを諦め、長くなるが順次書かせていただく。

*  *  *

愛知トリエンナーレ『表現の不自由展・その後』が10月8日に再開、私はフリーパスを購入していたので再訪意欲まんまんだったが台風に阻まれた。変更・中止作品全てが元に戻されての展示であれば、残念この上ない。
けれど、入場者数65万人を超え過去最多となったとのことで、再開への努力を続けた関係者の方々に改めて敬意を表したい。

今回、問題は二点に絞られよう。
一つは『不自由展・その後』を不快とする人々による暴力的脅迫と政治家の介入により展示が閉鎖されたこと。歴史認識の相違をもととする情緒的憎悪で作品群を攻撃、それに政治家が便乗、自らの思想・価値観により「表現の自由」を封じた。
もう一つは文化庁が補助金全額を不交付としたこと。理由は補助事業の申請手続き上の問題としたが、つまりはお上(誰だろう?)の気に入らぬものには金は出さん、と、こちらも脅しだ。
何れにしても特定の思想・価値観が「力」(暴力&権力)によって自分とは異なる思想・価値観の「自由」を脅かした、と言ってよかろう。

今後、公共の場に於ける様々な表現(主張)が萎縮(自粛)するという危機感が、美術に限らず映画、演劇、文学など各所から表明されている中、クラシック音楽界での動きは鈍かった(個人発言はあっても)。
8月11日に日韓の音楽家有志が『「表現の不自由展・その後」中止に対する日韓の音楽家有志による抗議と声明』を出したが、いくつかある作曲家団体は無音。再開展示開始後の10月10日付で日本音楽学会が会長声明(長木誠司会長)『文化庁によるあいちトリエンナーレへの補助金不交付の撤回を求めます』を出したのがクラシック音楽界からの最初の公的声明ではなかろうか。
日本ペンクラブが『あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」の展示は続けられるべきである』(8月3日、吉岡忍会長)の声明に続き、会長談話 『文化庁の補助金不交付決定の撤回を求め、「あいちトリエンナーレ2019/表現の不自由展・その後」のすみやかな再開を期待する』(9月26日)を発表、と素早い反応を見せているのに比べ、対岸の火事、なのであろうか。
と思っていたら、10月31日付で音楽言論の代表的団体である「ミュージック・ペンクラブ・ジャパン」(前身「音楽執筆者協議会」1966年設立)が石田一志会長の名で『文化庁の補助金不交付に抗議します』の声明を出した。このペンクラブは学者、評論家、作曲家、演奏家、オーディオ、プロデューサーなど広範な職域に属する音楽執筆者を網羅した組織 (2014年時で約170名)で、HP記載の主な活動の「社会的発言」項目には、「音楽や言論の自由に関わる社会問題が生じた時には、その都度委員会で検討議論を重ね、会としての見解を関係機関に送付しています。」とある(2017年には『「テロ等準備罪」反対声明文』を鈴木道子会長名で出しているのはHPの「声明文」項目を見ればわかる)。

私は音楽界から出されたこれらの声明を支持する。
対岸の火事ではないのだ。
本誌『五線紙のパンセ』で作曲家の寺嶋陸也氏が『冬の時代』を寄稿くださったのは2016/3/15号(五線紙のパンセ|その3)冬の時代|寺嶋陸也)。今日が「戦争前夜」との指摘に続いて、以下の記述がある。

こんなとき、音楽家に何ができるだろうか。
反動的な世の中にあっても、芸術は力を持つ、ということを、私達は音楽の歴史から学んでいる。もちろん、ここでの力というのは、社会を変革する力という意味ではなく、ひとりひとりの心の支えになることができる、というくらいのことである。支えられたひとりひとりの心が集まれば、ときには、それが社会を変革する力になることもあるかも知れない。現代の日本に即して言うならば、社会の変革とまではいわずとも、「戦争前夜」の流れは、なんとかくい止めたい。

幸い、音楽活動が制限されるようにはまだなっていない。スポンサーがつくとか、商業的な公演の場合はともかく、そうでない場合には自由に曲目を選び演奏することもできるし、作品も自由に発表することができる。しかし、マスコミが次第に萎縮しているように、自主規制のような形で「これこれの内容の演奏会にはホールを貸せません」などといわれるようになる日も遠くは無いかも知れない。

同年2月、「政治的公平性を欠く放送を繰り返した放送局には電波停止を命じる可能性も」との「言論弾圧」発言(高市早苗総務相)があり、私もまた寺嶋氏の一文に呼びさまされる気持ちで自分の経験をコラム『この道は』(2016/5/15号)で述べた。規模は異なっても東京文化会館/東京都教育委員会主催の『山田耕筰レクチャーコンサート』開催へのクレーム体験で、歴史認識・見解の相違という点でもあいちトリエンナーレと類似する。
私はイデオロギーも宗教も嫌いだし、自分の思想がどちらサイドかなど色分けされるのも迷惑だと思っている。偏向は「個体」である誰もが必ず備えるのだから、違いを言い立て、騒ぎ、正義は我にあり、との非難の応酬は不毛だと考える。互いの声の大きさ、数で、相手を黙らせようとする暴力的発想は権力闘争と変わりない。
「真実」とか「正しさ」など時代でコロコロ変わるのは歴史が証明しており、私たちはやはり過去に学びつつ、現在を慎重に見極める努力をする他なかろう。

するうち、矢継ぎ早に様々なことが「表面化」している。目に付いただけでも、慰安婦ドキュメンタリー映画『主戦場』の上映中止(抗議により撤回)、ウィーンでの展覧会『ジャパン・アンリミテッド』に「反日的展示」があったとし、在オーストリア日本大使館が友好150周年事業の認定を取り消す、などなど。
ちなみに文化庁所管の日本芸術文化振興会(芸文振)が助成事業の交付要綱を9月27日付で改正、交付内定・決定取り消し条件に「公益性の観点から助成金の交付内定が不適当と認められる場合」「公益性の観点から助成金の交付が不適当と認められる場合」を加えた。あいちトリエンナーレ不交付は9月26日に報道発表されている。
ともあれ、要は「公益性」。
この芸文振、目的は「広く我が国の文化芸術の振興又は普及を図るための活動に対する援助を行い、あわせて、我が国古来の伝統的な芸能の保存及び振興を図るとともに、我が国における現代の舞台芸術の振興及び普及を図り、もって芸術その他の文化の向上に寄与することを目的としています。」運営方針は「その果たすべき役割、国民のニーズを常に踏まえながら、次に掲げる活動を通して、文化芸術の向上に寄与します。」(HPより)
要は「国民のニーズ」。
すなわち「公益性・国民のニーズ」、これを満たさぬものには金を出さぬ。

思い出す。
2009年、芸術文化振興費が仕分け対象となった際、指揮者の小澤征爾や歌舞伎の市川団十郎(当時)が民主党に抗議に出向いた。トリエンナーレへの補助金不交付はいわば事業「内容」への「事後制裁」だが、こちらは事前段階での各事業予算縮減話。振興・育成・国際交流・伝統文化体験・アウトリーチが俎上に上がり、大幅削減の判断が下され、これに大物音楽家、役者たちが立ち上がったわけだ(ちなみに、仕分け現場に内田裕也が銀髪なびかせて現れ、どんな項目がどういう理由で削減却下されるのか見学していたが、彼が陳情・抗議した形跡はない。当たり前だ、彼らの活動に国の補助など関係ない)。
同時期2008年にはびわ湖ホールで管理・運営費削減をめぐる議論が起きている。当時の自民党議員が「福祉医療への1億とびわ湖ホールのオペラへの1億のどちらを取るかが政策判断」と述べ、「福祉か芸術か」と論議になった。芸術文化関係者(愛好家も含む)は「芸術には金がかかる。政治家には芸術文化の重要性がわかっていない」と怒った(大衆文化は大衆が支えよ、芸術文化は国も支えよ?)。
いずれにせよ、この時私が感じたのは「芸術文化の重要性」を唱える文化芸術族(愛好家を含む)と一般の人々との意識の乖離だ。オペラと児童医療福祉を天秤にかければ、そりゃ福祉だ、未来への投資が優先、県民税なんだから、となるのは当然。「一般の理解・共感」は難しかろう。
この2件もまた「公益性・国民のニーズ」の話で、これに正面から答えられる論客がいたかどうか。私も説得力ある論は提示できなかった(『JAZZTOKYO』副編当時)。
芸術なんぞ生活の余剰品で、金と暇のある階級層の娯楽だろ、私たちは保育園が欲しいんだ、と言われたらどう返すか?

一方、「公益性・国民のニーズ」の「判断」が何に依拠するかも問われねばなるまい。しかも判断はその分野の「専門家・有識者」で、その仕組みもまた何やら不透明、背後で働くのは何か。魑魅魍魎の世界だ。
そうして「公益性・国民のニーズ」は、その気になれば瞬時に「芸術文化の重要性」など吹っとばし、あるいは巧みに利用することも確か。歴史を見よ。

などなど、私の頭は行ったり来たり。

するうち、ラグビー熱狂が来て(私も「行け〜!」とTVの前で絶叫した)、「one team」に日本中が酔いしれた。
国籍の異なる選手たちが一丸となって「ニッポン」の勝利をもぎ取ってゆく姿は、いまどき「diversity & inclusive」「国民一丸」の「最適」モデルケースだ。

するうち、天皇即位のお祭り騒ぎ。
「即位の礼」(10/22)では天皇皇后が高御座開帳による「降臨」演出、安倍首相の万歳三唱に背筋がぞわっとした。
祝賀パレードに続く皇居前広場での「国民祭典」(11/9民間主催)の目玉はアイドル嵐。奉祝曲『Ray of Water』の第3楽章<Journey to Harmony>を歌い、二重橋に立つ皇后が涙ぐまれた。99年即位10年(現上皇)でYOSHIKI、即位20年でEXEILの登場は「大衆と皇室」のショーケースであったが、その時の空気とはまるで違う。もはや プロパガンダだ。クラシック畑では辻井伸行が第2楽章<虹の子ども>を弾いた(NHKの今年の正月番組で片山杜秀がこれからの活躍を期待される演奏家を問われ、庄司紗矢香と辻井を挙げていたが、そういうことか?)。
主催者による祝賀の万歳三唱(この際、天皇皇后は赤提灯を持たされ、万歳と共に上げ下げされた)と、退出を見送っていつまでも続く「天皇陛下万歳!」の連呼に一斉日の丸小旗の波、戦時の国民の高揚そのままの皇居前が映し出され、SNSで拡散された。

来年はオリンピック。
いつの時代も「世紀の祭典」は何かのターニングポイントとなることが多い。
今、私がひしひし感じるのは得体の知れない巨大な力。
ここずっと、その発動するところを見極めたいと目を凝らしたが、そんなものはないのだ。誰が、とか、何が、でなく、誰もが、何もかもが、その契機・原動力で、それは無数の様々な「人間の欲望の総体」としか言えないものなのではないか。
「diversity & inclusive」もまたその現代の「しるし」に過ぎず、今日を形成する世界のあらゆる細胞が「そこ」に向かって蠢いている。この「欲望の総体の制御」は果たして可能だろうか?私もまたその総体の一細胞として、何ができるだろう?
「Yes, we can」が世界にこだましたのは、わずか10年前のことだ。

2019/11/11記
(2019/11/15)