Menu

山根一仁&上野通明&北村朋幹 Vol.2|丘山万里子

山根一仁vn&上野通明vc &北村朋幹pf Vol.2
Kazuhito Yamane(vn) & Michiaki Ueno(vc) & Tomoki Kitamura(pf) Vol.2

2019年7月31日 トッパンホール
2019/7/31 TOPPAN HALL
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayahi)

<曲目>        → foreign language
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調 Op.70-1《幽霊》
ラヴェル:ピアノ三重奏曲 イ短調
シューマン:ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 Op.63

(アンコール)
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調 Op.1-1より第2楽章 Adagio cantabile

 

山根一仁、上野通明、北村朋幹三若衆トリオ、ベートーヴェンを軸に据えたシリーズの第2回。第1回はすべて「第1番」を揃え、まさに「青き春」の息吹を伝えたが、それから1年、ぐんぐん伸び盛り、を実感した。

ラヴェルが抜群、と思ったのは、何より各人の成長ぶりが手に取るように見えたから。
導入、北村の泡だつ音色、放たれる微光が一気にラヴェル世界を引き寄せる、いや、ラヴェルの音の波頭を滑る。それがたちまち北村、上野を引き込み、紡ぎ出される弦の響きの細くかぐわしき旋律線。なんと、ほのかな色気(あくまで清潔だが)まで漂わせて。
スケルツォの跳ねっぷりは波上を踊る若魚3尾なのだが、ここに弦のギザギザ進行が色形くっきりモザイクのように嵌めこまれ、さらにフレーズの満ち引きに回転というかグルーブが思い切りかかり(スケボー競技を想起されたし)、さらにクールでドライな打鍵がバシバシ要所で決まるので、いまどきAssez vifとはこのことよ、とはげしく納得してしまう。北村の才気煥発は常日頃感服なのだが、弦二人をのせまくり、締めるところはガッシと、その手綱さばきの見事さはあるのだけれど、即興性に満ちたやりとりを嬉々泳ぎ回る二人に、一段の伸長を感じるのだ。
筆者には2年前の春、リサイタルでの山根の、言って見れば禁欲王子みたいなある種の静謐と頑なさ(という言い方はあまり適切でないが)が強く頭に残っており、以降、それなりに聴くうち、何かが彼の中でほどけてきている感じは持っていたのだが、それがここではっきりした、と言おう。つまり、音楽全体の表情が豊かに、大胆になった。彼のボウイングは無重力と重力の限界を極めるようなところがあり、どちらにしても「触れなば切れん」切迫があったのだが、その鳴らし方の上にふっとした彩りが加わった、と思う。だから、彼の唇には時折微笑が浮かび、なんと半開きになって喘ぎさえし(これはシューマンの第2楽章で最も顕著で、筆者はおもわず笑ってしまった。誰かに似ている、ああクレメルだ、アルゲリッチとのデュオの時の彼、ほとんど悶絶寸前だった、と思い出しもして)、膝をしなわせ伸縮大きく、全身で音楽を生き切っているのがありありであった。
上野はといえば、音楽の恰幅がぐんとよくなった。もともと、やわらかな包容力を備えた人で、当夜も終始一貫山根へ眼差しを配り、あたたかで抒情性に富んだ響きを奏出した。が、今回、そこに筋力と度量の幅が付加され、いかにも全体のキャパが大きくなった感じ。さらにこまやかなコミュニケイトのセンスが磨かれ、3者の中でもっとも的確で愛情に満ちた「あいづち」を打っていて、筆者はときどき一緒にあいづちを打つ自分に気づき、その能力に感嘆したのだ。こういうコミュニケーションができる奏者は、そうはいない。
と、長広舌になってしまったが曲に戻ろう。
第3楽章、深海に沈む鐘のごときピアノにたゆたうノン・ビブラートの弦の音調。敬虔な黙思から一呼吸、ヴァイオリンのハーモニクスで星屑を撒くように始まる第4楽章はピアノの華やかさ、重量打鍵がスケールをぐいぐい押し広げる。この駆動力はやはり北村ならでは。加えて、音色のパレットが増え、混色配合の妙も手に入れつつあるようだ。ここでの伸びやかなチェロ主題もまた上野の恰幅を示すもので、柔に剛が備わってきたみたい。これを縫いとる山根の芯ある美音から3者加速、噴きあげるような海竜巻で客席を席巻したのであった。
トッパンなら当然かかるブラビ!がすぐに来なかったのが訝しいくらい。

以上で、彼ら3人の持ち味とその成長ぶりは述べ尽くしたと思う。
シューマンは、最初はなんだか焦点定まらぬ感があったのだが、第2楽章に入ったとたん、眼(まなこ)が開き(筆者のか?)、釘付け夢中になったのは刻まれる付点リズムでの3者の猛アタックぶりに唖然としたから。シューマンはやっぱり内声よね、なんぞという御託を吹っ飛ばし、攻めまくりの演奏。その快感が全員にたぎって、ステージまるまる音楽。痛快ですらあった。
ベートーヴェンはそんなわけで印象が飛び、それをいちいち引っ張り出して記述の気にはなれないのでご容赦を。

思うに。
奏者の音楽する悦びが、まずは一番ではないか。
ただ、これは危険水域でもあり、溺れる可能性大だ。
それでもやはり、これのあるなしが演奏の命だと痛感した。
それから、私たち聴き手の既成概念、理解。
凝り固まった「かくあるべし」をさっぱりぬぐいとって、ただ向き合ってみたら何が聴こえるか。
筆者はなるべくまっさらで臨むようにしているが、それでも積年の手垢は付いている。あの人たちはああだったこうだった、古典派ロマン派近代様式は云々かんぬん、もちろんそれは大事だ。学びは必要。
だが結局のところ、音楽は教えられて身につくものではない。自分で見つけるものだ(聴き手も同様だろう)。
そうしてこのトリオに、「自分たちの音楽」が息づいていることに、さあこれからだ!という気持ちと、頼むぞ!という気持ちを、はち切れんばかりに持ったのだった。

関連評:山根一仁&上野通明&北村朋幹  Vol.1|丘山万里子

 (2019/8/15)

—————————————
<Artists>
Kazuhito Yamane(vn)
Michiaki Ueno(vc)
Tomoki Kitamura(pf)

<Program>
Beethoven: Piano Trio No.5 in D major Op.70-1 “Geister”
Ravel: Piano Trio in A minor
Schumann: Piano Trio No.1 in D minor Op.63

~Encore~
Beethoven: Piano trio No. 1 in E flat major Op. 1-1 Second movement