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トリフォニーホール・グレイト・ピアニスト・シリーズ ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル|西村紗知

トリフォニーホール・グレイト・ピアニスト・シリーズ ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル
Triphony Hall Great Pianists Series – Piotr Anderszewski Piano Recital

2019年6月4日 すみだトリフォニーホール 大ホール
2019/6/4 SUMIDA TRIPHONY HALL
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 三浦興一(Koichi Miura)

<演奏>              →foreign language
ピョートル・アンデルシェフスキ(ピアノ)

<曲目>
シューマン:フゲッタ形式の7つのピアノ小品 作品126
      暁の歌 作品133
ベートーヴェン:ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲 作品120
アンコール曲
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻より第8番前奏曲とフーガ BWV877

 

口幅ったいことを言うようだが、あれは非在の響きだった。それというのも「生のまま」とか「身体的」とか言われるであろうものが、それぞれの作品を演奏するにあたって抜け落ちていたりしたように思えて仕方がないからだ。抜け落ちているというより、克服されている。やっぱり何かが非在で、それは最初に感じるものだとなんらかの定型表現や聴衆へのアピールの無さで、まぁ、でもこういうのをつまるところ完璧主義って言うんだろうな、などというところで一旦落ち着いた。帰りの車中でのことである。
車中では最後に演奏された作品が頭に残ったままとなる。アンコールのバッハ、平均律の2巻の方のdis-moll。あんなやわらかいフーガあってたまるものか。あんなのって、神様の考えごとみたいじゃないか。フーガがやわらかいものだなんて考えたこともなかったけれど、なんていう説得力だったろう。それも、説得しにかからない演奏だというのに。
このアンデルシェフスキというピアニストには、熱っぽさとか悩ましさとか、そんないかにも表現らしい表現は一切必要ないのであった。ひとつのタッチであまりに多くのことを語れるようであったし、なにより時間を統べる仕方をよく心得ているようであったから。

時間を統べる仕方について思い至ったのは、アンデルシェフスキの奏でる音色が特殊だったからである。というのも、演奏会を通じてずっと、どこへ向けて、あるいはどういった場所で音楽が鳴っているか謎めいたままだった。もちろん、音は聴衆の目の前のアンデルシェフスキの奏でるピアノから発されるのであって、表現の在り方としての音が問題なのである。音楽に成るより前に、すでに一音一音の段階で、音に方向がある。通常音の方向性などというのは、フレージングなどにより音のつながりを方向あるものとしてつくっていくことで生じていくのであるが。しかも、それらの方向性ある、軽やかにたちまち逃げ去っていくような音は聴衆のところに飛んでくるというのでもない。どこかへ飛んでいくのだ。こうした音色の特殊さに加えて、今回アンデルシェフスキが「フーガ」(あるいはフゲッタ)と「変奏曲」という異なる時間モデルの作品でもってプログラムを構成していたという事情も関わってくる。フーガは存在する時間、変奏曲は生成する時間。いずれも、それぞれの形式感で自らの構成物である音を方向づけようとする。されどアンデルシェフスキの音は唯唯諾諾とは従わない。だからフーガがやわらかいなどという実感につながってもくるのだ。一音一音が、これらのもつそこはかとない方向性により、フーガといういわば建築物に、とらわれないでいられるのだから。

アンデルシェフスキの音色の謎に、晩年のシューマンの謎が被さってくる。
「フゲッタ」と「暁の歌」というシューマン最晩年のピアノ作品には、はっきりとした性格がない。中庸なテンポと拍節構造の緩やかさが、全体のぼやけた印象を決定づける。どのフレーズも何も語るまいとしている。音楽が始まるよりも前に、もうすべて語ったのだ、と言わんばかりに。この二つの作品は聴衆が聞く段になって、ひたすら逃げ去っていくか、あるいはもうどこか別の場所にいってしまっているのである。もしもシューマンと同じ場所に行けば、これらの音楽がちゃんと鳴っているのを聞けるのかもしれないが、そうでない以上、ここで鳴っていないものを努めて想像することしかできない。
「フゲッタ」は、シューマンの日記帳を開いてしまったかのような罪悪感のある作品である。バッハのフーガなら、時間はもっと視覚的で存在への欲求を露わにするであろうが、このフゲッタには前に進む力すらない。ノートの片隅に書かれたままのなにかの但し書きのようで、書かれたその言葉自体が理解できたとしても、本当のところはきっと書いた本人にしかわからないのだろう。
「暁の歌」もまた、誰も帰ってこない部屋のようにわびしい。符点のリズムで反復される音型であっても、不自由に重々しく、〈クライスレリアーナ〉なんかがそのまま老人になったかのようだ。ただ、語ることを拒めば拒むほど、語りの性格は強い。どこで鳴っているかわからないアンデルシェフスキの音色は、「暁の歌」の沈黙を際立たせる。彼の奏でる音の数々もまた、帰る場所がない。

同じ晩年の作品であっても、ベートーヴェンの〈ディアベリ変奏曲〉の方が少なくとも健康的ではあった。ちなみにこれは、アンデルシェフスキの十八番とも言うべき作品で、リーズ国際ピアノ・コンクールで脚光を浴びるきっかけを彼に与え、ワーナー・クラシックス/エラートから発売されたデビュー盤の収録作品でもある。
変奏曲の時間は生成する時間、それも『千夜一夜物語』さながら、延命される時間である。変奏曲の終わりはその音楽の主題の寿命が尽きたときだ。その「ディアベリ」の主題の一生を、アンデルシェフスキは真に鮮やかに、何一つ惑うことなく描き切っていた。アンデルシェフスキの手にかかれば、ともすれば暴力的になるフォルテの音色すら軽い。それでいてすべて言い切るように奏でる。彼は一体今までどれくらい、ディアベリの主題を葬ってきたのだろうか。

それでもやはり、耳に残るのはフーガのやわらかさだった。もし来世も人間として生まれたなら、アンデルシェフスキのようにフーガが弾ける人間に生まれてみたい。帰りの車中でそんなことを思った。

(2019/7/15)

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<Artist>
Piotr Anderszewski

<Program>
R. Schumann:7 Fuguettes Op.126
R. Schumann:Gesange der Frühe Op.133
L.v.Beethoven:33 Veränderungen über einen Walzer von A.Diabelli Op.120
(encore)
J.S.Bach:Das wohltemperierte Clavier, 2 teil, Prelude und Fuge Nr.8 dis-moll BWV 877