マウリシオ・カーゲル『アクースティカ』|齋藤俊夫
マウリシオ・カーゲル『アクースティカ』
Mauricio Kagel “Acustica”
2019年6月1日 愛知県芸術劇場小ホール
2019/6/1 Aichi Prefectual Art Theater Rehersal rooms
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 羽鳥直志/写真提供:愛知県芸術劇場
〈演目〉 →foreign language
マウリシオ・カーゲル『ACUSTICA』実験的音響生成装置とスピーカーのための(1968-70):Aバージョン
足立智美『アクースティカですか』(2019、世界初演)
カーゲル『ACUSTICA』:Bバージョン
〈出演〉
足立智美/ディレクター・パフォーマー
有馬純寿/音響ディレクター
太田真紀/パフォーマー
松平敬/パフォーマー
村田厚生/パフォーマー
山田岳/パフォーマー
マウリシオ・カーゲル作曲『アクースティカ』、大量の自作楽器を作らせ、上演のたびに違う演奏・音の形を取るこの「作品」は通常の「作品の再現」という概念と行為に疑問符を突き付ける「作品」である。この作品の「作曲家の意図」、「演奏の良し悪し」、さらに「自己同一性」はどこに存在するのか?
ここでカーゲルではないが、この問題について、ケージの言葉を引かせてもらう。1948年作曲『プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード』についての彼の言葉である。
素材、すなわちピアノのプリパレーションは、海岸を歩きながら貝殻を選り集めでもするように選ばれた。(ケージ「プロセスとしての作曲」(1958年)『サイレンス』(柿沼敏江訳)水声社、1996年、43頁)
「海岸を歩きながら貝殻を選り集めでもするように」、一見するとプリパレーションとは実に気楽な作業のように思われる。だが、この言葉をよく考えてもらいたい。自分の美意識=音楽、に合う貝殻=音を集めるのにどれだけ海岸を歩き回らねばならないか。どれだけの貝殻を拾い、どれだけの貝殻を捨てれば「自分の貝殻」を見つけることができるのか。
ここに作曲家の意図の放棄はない。あるのは昔とは意図するモノが変わっただけの作曲家の意図である。
そして、ケージが選り集めた貝殻に見合ったプリパレーションの再現をするためにどれだけの「音楽的努力」と「肉体的努力」が必要とされるのか、演奏家ならば誰でもわかることであろう。ケージの意図も、プリパレーションと演奏の良し悪しも、作品としての自己同一性も存在する。
カーゲル『アクースティカ』における「譜面の読解と演奏再現」も同様である。自作楽器の作成、その演奏法の探求、上演順序とそれに当たってのパフォーマンスの取捨選択、全てにカーゲルが意図したものが潜在・内在し、演奏家はそれを追求しなければならない。さらに、作曲家の意図を把握するということは、作曲家と演奏家と聴衆の間で何らかの美学的意図の共有がなされなければならない。
それは「ユーモア」と「批判」であろう。
では、『アクースティカ』とは具体的にはどんな作品であったか?
床に置かれた木の箱から伸びた木の棒を背中に擦り付け、円状の木板に環状に立てられた長さの違う木の棒を弓や、毛のようなもので擦ったり、振動機を当てたりし、膨らませた風船を口に当てながら何か歌い、小型のサンダーマシーンを打ち鳴らし、床に叩きつけ、底にカスタネット様のものがついた靴で歩き、板についた6~8個の蝶番状のものをバタバタと鳴らし、マウスピースに風船をはめて吹き、バンドネオンを小さくした位のアコーディオン属の楽器の鍵盤を押さずに空気だけ出し入れし、水の入った長いバケツ状の容器に石を落とし、ターンテーブルに乗せたLPに漏斗のようなものを接触させ、紙と櫛を口に当てて声と息を発し、おもちゃのサクソフォンを吹き、風船を濡らした手で擦り、長い棒に自転車のベルがたくさん付いたものを鳴らし、鳥のおもちゃのようなものが先についた長い紐をぶん回し、ベルトコンベアに鉄片、ワニの玩具、サンダーマシーン、シンバル、警報機、ガラス製のグラスなどを乗せて落とし、机を手や小型シンバルで乱打し、口にコンタクトマイクをつけて集音し、小さなドアについたシリンダー錠と鎖鍵を開け締めし、マイクに手をかざしたり塩化ビニール管をかぶせてハウリングを起こし、紙を口に当てたまま叫び、スピーカー付きミュートから「この音ではない」などと録音された言葉を再生しつつトロンボーンを吹き、人の背丈くらいある巨大な風船を1人、2人で擦り、リコーダーが軟らかいビニール管でたくさん枝状に繋げてあるものに送風しさらにその管をいじり、大きなトランシーバーで会場の音を集音・拡大再生し、電気メガホンで発声し、トロンボーンの先に管をつけて、それを水の中に入れて空気をブクブクさせ、銅鑼を振動機で発音させ、洗濯バサミでミュートしたヴァイオリンをピチカートしながら会場を練り歩き、口に空気をためて頬を手で叩いてポコポコと音をたて、トロンボーンのマウスピースを額に当て、細長い金属の筒に携帯式ガスバーナーの炎を吹き込んで音を立て、加熱したその金属筒を水に入れてそれを蒸発させる、そんな作品であった。以上、パフォーマンスの順不同。またエレクトロニクスは最初から最後まで謎な音を発し続けていた。
何が何だか皆目わからないが、異常な迫力と求心力とユーモアに満ち、したがって意味不明の説得力すら持ち合わせているという曰く言い難い体験をした。そう、この作品の要点は「体験」なのである。巷に溢れる再現可能な知識や情報ではなく、自力で楽器を作り、試行錯誤し、パフォームし、それを見届ける、そこにある「1回限りの生の体験」を自分で獲得することこそ、この作品の大きな目的なのである。
足立智美作品についても書かねばなるまい。
ターンテーブルに笑顔や泣き顔の図や音符の書かれたレコード盤を置き、それを回転させる。ターンテーブルの上にはカメラが取り付けられており、映像に映った図などに合わせて他メンバーが笑顔なら笑い声、泣き顔なら泣き声、といったふうに「演奏」する。ターンテーブルの回転を速くすると当然演奏は困難からグシャグシャになっていき……そこで足立がタンゴのLPをかけて、皆でそれに合わせて演奏するのを足立が手持ちカメラで撮影する。
『アクースティカ』でも使われたベルトコンベアーに皆で色々なものを置いて落とす。中には「Po」「A」といった字も含まれ、コンベアーの端につけられたカメラにそれが映ると足立がその声を発する。
最後はカメラをコンベアに乗せ、スクリーン上でコンベアの端に屈んだ足立の顔が接近していき、その足立の顔芸に他メンバーが声を合わせて、カメラが足立に最接近した所で落下して終わり。
「様々な形態を取った楽譜」が「即興的なパフォーマンスを指示する」、また「楽譜が視覚的パフォーマンスの一種になる」という明確なコンセプトの中、豊富なアイディアを満載にして楽しませる所、流石は足立智美であった。
ただ、1つだけ今回の演奏会について正直に言わねばならないのは、『アクースティカ』は2回、「Aバージョン」と「Bバージョン」が演奏され、それぞれパフォーマンスが異なったのだが、それでも2回目のBバージョンの時は筆者にはその求心力は弱まり、平たく言えば飽きが来ていたことである。「1回限りの体験だから」面白いのであって、それが「繰り返される」ことには、どこか矛盾というか、無駄なものがあったのかもしれない。
いずれにせよ、一生に一回きりでもこのような「体験」をできたことは幸せであった。出演者6人に大きな感謝をしたい。
(2019/7/15)
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<pieces&players>
Mauricio Kagel:Acustica(1971)
Tomomi Adachi:Acusticadesca(2019 World Premier)
Tomomi Adachi, Sumihisa Arima, Maki Ota, Takashi Matsudaira, Kousei Murata, Gaku Yamada