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ローザス Rosas|藤原聡

ローザス Rosas
『至上の愛』
『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』

2019年5月11日(『至上の愛』)
5月18日(『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』)
東京芸術劇場プレイハウス

Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by Abe Akihito(『至上の愛』)、 Futoshi Osako(『我ら〜』)

<出演>
『至上の愛』
  José Paulo dos Santos, Bilal El Had, Jason Respilieux, Thomas Vantuycom

『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』
  Boštjan Antončič, Anne Teresa De Keersmaeker, Marie Goudot, Julien Monty,Michaël Pomero
  チェロ:ジャン=ギアン・ケラス

<振付>
サルヴァ・サンチス(『至上の愛』)、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル(『至上の愛』、『我ら~』)

 

2017年に団体の原点たる記念碑的作品『ファーズ―Fase』と新しい作品『時の渦―Vortex Temporum』(音楽はジェラール・グリゼー)で来日公演を行なったローザス、その2年ののちの本年5月に再び東京芸術劇場プレイハウスのステージに登場した。しかも、その作品がジョン・コルトレーンの『至上の愛』を用いた同名作品、及びバッハの無伴奏チェロ組曲全曲を録音ではなくジャン=ギアン・ケラスその人のステージ上での実演を背景に踊られる『我ら~』という誠に興味深いラインナップである。

舞台装置の全くない余りに簡素な空間に、これまた飾り気のないラフな黒づくめの格好をした男4人が登場したかと思うと、3人のダンサーが残り1人のリフトを反復する。しばしこの4人の遊戯的な動きが連続した後には他のダンサーも次第に抜けて行き、最後にはステージ上に1人のみが取り残されるが、いわゆるダンスらしいダンスをするでもなく、それは普通に歩いたりしゃがんだりと日常的動作の延長線上の所作に近い。この間音楽は流れず全くの無音だが、既にこの段階でローザスの非凡さが浮き彫りとなる。彼らはいわゆる「ダンスらしいダンス」をしない。その意味で彼らの動きは緩慢とも言えるが、これは無論仕組まれた緩慢さであって、残された1人の男が舞台袖に向かって歩いて行ったのちおもむろに/不意に流れ出す『至上の愛』の作用によってそのコントラストがいやでも際立つように作られているのだ。

音楽が始まったのち次第に気が付くのは、彼ら4人が「黄金のカルテット」(ジョン・コルトレーン、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズ)のそれぞれの4人の「音」に対応して動いていることだ。次第に全員が同様の短いスパンでの動きを繰り返したり、あるいがそれぞれが徐々にずれて複雑になり、いわばポリフォニックな様相を呈して来たりもする。しかし、その動きはそれぞれの楽器から放たれる楽音のテンポや音程の跳躍にいわばミッキーマウシング的に同調するのではなく、その音楽を一旦自身の身体に入れて咀嚼したのちに独自の動きに「翻訳」または「解釈」してアウトプットする、とでも形容できる繊細さ/複雑さを見せる。ただスピード感に富む、であるとか4人の動きがスポーティな快感を伴いつつ音楽に「沿って」立ち現れるのではない。これは見て頂く他ないのだが、何ともユニークなダンスである。あるいは、それぞれがソロイスティックでいかにも即興的に振る舞いながらも(この即興と厳密さの境界のファジーさ――少なくとも観客にはその境目は俄かに判別できまい)、ふとした瞬間見えない糸に操られるかのごとく旋回していくさまは実に不可思議な印象をもたらす。ダンスでありながらもダンスを超越しているような「ダンス」だが、ここに神に捧げられたというコルトレーンの『至上の愛』の超越性への指向性との類似を見出すのはあながち牽強付会でもなかろう。

photo:Abe Akihito

photo:Abe Akihito

photo:Abe Akihito

 

 

 

 

 

 

日は変わって2演目目は『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』。演奏はケラスとの事前情報はあり、筆者は開演直前まで勝手にその録音を用いるものだと思い込んでいたのだが、それゆえこのチェリスト本人がステージに登場した際にはちょっと驚いた。それはともかく、本演目でも舞台は至ってシンプルであって何一つない。ダンサーと共に楽器を持って登場したケラスは客席に背を向けて第1番を弾き始めるのだが、各曲が終わるごとにダンサー共々1度袖に引き、曲が変わる毎に自らが座る椅子を置く方向及び舞台上の位置を変える。この極めて単純な振る舞いと変化が何故だか誠に感動的なのだが、それは諸要素がミニマムに構成されるがゆえの不意な変化への動機なきフィジカルな感銘とでも呼ぼう。
ダンスにおいては第1番から第5番までは各々1人のダンサーがメインとなって踊り、そこにケースマイケルも随時加わったり離脱したり、という構成を取るが――両手を前に突き出しつつ背後に飛びながら退く特徴的なケースマイケルの愛らしいムーヴメントが反復される――、最後の第6番のみは初めて5人が同時に登場。そして、それぞれの曲間ではケースマイケルと他メンバーが舞台の床に幾何学模様と思しきものをテープで貼り付け、これが終わるとケースマイケルが客席から見て上手側の舞台前方に寄りつつ、恐らく舞台上の模様と関連のある形を手でサインのように示したあとに組曲の番号を提示(同時にBWV番号が背後に投影される)。このケースマイケルの一連の動作がまた実に美しく格好が良いのだが、まったく何と言う身のこなしなのだろう。尚、先に触れた幾何学模様はバッハの音楽の持つ幾何学的な構成美のメタファーであると同時に、ケースマイケルそしてローザスのダンスの持つ抽象的な美をも象徴しているだろう。

ケラスは第1番から第6番まで暗譜でしなやかにバッハを奏でるが、時には間の曲を飛ばしたり、またある時には弾くのを止めたり、さらにはダンス中にも関わらず舞台から去ることすらあり、逆にダンサーはいなくなってもケラスだけ残って演奏が続けられたり、とその全体の所作は不意打ち的な驚きに満ちる。
全6曲中で殊に感動的なだったのは第5番であり、ハ短調という調性とシンクロするように舞台は一筋の光のみ残して漆黒の闇に覆われ、そしてその中でケースマイケルが踊るシーンは全体の白眉であっただろう。それゆえ、この沈滞の後で全員が一堂に会する晴朗な第6番ではその開放感もまたひとしおであり、照明の効果はあれど意図的にモノクロームの色調に覆われた舞台は対比的効果によって誠に華やいだイメージを観客にもたらす。筆者はここでその舞台を円環する振り付けも相まってアンリ・マティスの『ダンス』を反射的に連想した。色彩それ自体は異なるが、内的なイマージュはさほど遠くもない、と言うよりもかなり近いものがあると言おう。全6曲で約2時間、一瞬たりとも退屈する瞬間はない。個人的には『至上の愛』をも凌ぐローザスの傑作だと感じた。

2年前の『ファーズ―Fase』で自らが踊ったケースマイケル。今回も『我ら~』においてその唯一無二の身体性の発露を感じたのだが、この先もずっと踊り続けて欲しいと思う。衰えも間違いなくある種のチャームになりうるのがケースマイケルの踊りだろうから。

photo:Futoshi Osako

photo:Futoshi Osako

photo:Futoshi Osako

(2019/6/15)