中嶋 香 リサイタル―ピアノと声による音楽空間を求めて Ⅳ―|西村紗知
中嶋 香 リサイタル―ピアノと声による音楽空間を求めて Ⅳ―
2019年5月11日 Hakuju Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 齋藤亮一
<演奏>
中嶋 香(ピアノ)
<曲目>
松村禎三:ピアノのための『ギリシャによせる二つの子守歌』(1969)
別宮貞雄:ピアノのための『南日本民謡による 三つのパラフレーズ』(1968)
平川加恵:声とピアノのための『凛として、花』(2018委嘱作品)
野平一郎:声とピアノのための『午前2時半、エクルズ通り7番地』
〔ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」より〕(2019委嘱新作・初演)
篠田昌伸:ピアノのための『炭酸』(2010委嘱作品)
アンコール曲
ジョン・ケージ:18回目の春を迎えた陽気な未亡人
中嶋香は、なんてチャーミングなピアニストなのだろう。
現代音楽の演奏家というと、「自分こういう変な音楽ばっかりやっていまして」といった卑屈なのか謙虚なのかよくわからない自意識が滲みだしている人が多い。自らを客観視しているといえばその通りで、それ自体何の問題もないのだろうが、そういう演奏態度からすっきりとした聴取体験を得るのは案外困難である。そうした腑に落ちない聴取経験をした場合、そもそも腑に落ちない音楽をやっているのだ、と言われてしまえば何も言い返せなくなってしまう。しかし、苛烈なまでに音楽を更新しつつ、それでも腑に落ちないものなどないとまで言い切って、なおかつそこには妙な自意識など存在しない――ここにジョン・ケージという音楽家の偉大さがあったのではなかろうか、などと個人的には思う。
それだから、中嶋がアンコール曲にケージの「未亡人」を選んだというのは、少なくとも筆者にとっては納得がいった。「腑に落ちないものなどない。これが音楽なのだから」と、中嶋は演奏を通じて語りかける。ピアノと「声」による表現の可能性を心から楽しんで模索する中嶋の実直さが、それぞれの作品の在り体にそのまま反映されたかのようで、それは彼女の魅力に他ならない。
さて、今回の演奏会における、ピアノと声による表現の探究は3つに大別できよう。
1)実際の発声を伴わない通常のピアノ作品で、民族的・土着的な歌声をピアノで奏することにより、ピアノ作品の新たなパースペクティブを開示しようとするもの。最初の二つの作品、松村と別宮がこれにあたる。
2)発声(テクスト無し)を伴う特殊奏法に類するピアノ作品。ピアノと声が共に発音体として共鳴し合う。平川の作品。
3)発声(テクスト有り)を伴う特殊奏法に類するピアノ作品。朗読劇あるいは演劇に接近する。野平の作品。
最後の篠田の作品を「ピアノと声」という括りでどう捉えるかが問題だが、ひとまずこうした3つの取り組みがなされていたことをここに確認したい。
それでは、個々の作品と演奏について。
松村の「子守歌」は、左手のループする8分音符の動きが、ゆりかごか母親の腕の抱擁を彷彿とさせる、ゆったりとしたテンポ感の作品で、一番耳に残るのはその8分音符でつくる残響の美しさである。全体としてエーゲ海の陽光の下の一幕を描く風景描写的なところがありつつ、古代ギリシャの旋律から採用したという右手のメロディは、やはり優しい子守歌なのであり、8分音符の効果と相まって、聴く者の想像力の中でピアノの歌声は誰かの歌声へと変貌する。とにかくぺダリングが絶妙だった。
これに対して別宮の作品における歌声は、情感が漂白され清潔な構築体のパーツへと変貌している。日本の民謡をそれぞれ主題として用いて、ポリフォニックなピアノ作品をつくりあげる試みとあって、民謡が西洋音楽の基盤の中で新たな位置価を獲得する。この作品は「Ⅰよさこい」「Ⅱ五木の子守唄」「Ⅲおはら節」からなるが、最後の「おはら節」になると声部の数が多くなり、いよいよ熱狂の感を呈する。クライマックスになるとなかなか弾き切れない箇所が目立つようになるが、作曲家本人のプログラムノートには「いくらか音をはずしてもいいから」とあるので、ごめん遊ばせ、といったところか。
平川の作品は、幅の広いアルペジオと伸びやかなヴォカリーズが、野原を吹き渡る一陣の風のような音楽をつくる第1曲目にはじまり、全部で5曲に分かれている。それぞれ中心を担う調性や、ピアノと声の関係が少しずつ変わったりして、表情豊かな作品に仕上がっている。第2曲目では「シューシュー」音の声とピアノの和音、第3曲目では子音を多く含む声とピアノとのすばやい掛け合いの関係を楽しく聞くことができ、第4曲目はラメントで第5曲目はピアノと声が元気にシンクロしてグラーヴェな音楽、といった具合だった。てきぱきと表情が変わる様から、今回の中では最も中嶋のキャラクターに合う作品であると感じた。
休憩を挟んで後半は、今回の委嘱新作である野平の作品から。ジョイスの「ユリシーズ」の最終章である第18章から抜粋されたテクストにピアノが付随するこの作品は、音楽作品にまとめ上げるということ自体に問題を含む。主人公ブルームの妻・モリーの夜半の考えごとを記したこのテクストには、句読点がない。その反面、そもそも音楽というのは時間を分節化する技である。無意志的で方向や目的をもたないモリーの内的思惟は、音楽を伴った瞬間、あけすけなお喋りとなり、演奏会の聴衆は喋り相手に変わってしまう。作品全体は、テクストが発話される間を、稲妻のような速いパッセージと、多義的なるものの表現を担わされていると思しきクラスターとが埋めるようにして、進展していく。はっきりとした曲調の切り替えはなかったように思うが、終盤のブルームに結婚を申し込まれた日を回想する場面ではいくらか穏やかだった。しかし最後はヒステリックなクラスターで閉じられる。ジョイスのテクストの多義性は、クラスターで終わらせるには荷が重い。
発する音を模倣したものであり、加えて様態そのものであるかのような――要らないものを排してひたすらイメージに接近しようとする、篠田の「炭酸」はそうしたものだった。「Ⅰ.Splash」は、ひたすらキラキラ、パチパチしている。長2度や完全4度といったパキッとした音感がクリアに響いて、デュナーミクもあまりないので硬質な音楽。「Ⅱ.Ice」は、長7度などの厳しい音程の響きから、ドライアイスから漂うひんやりとした冷気が見えてくるよう。終曲「Ⅲ.Swim into Carbonic water」では、低音部の線的でごにょごにょした動きで、演奏者も聴衆も、炭酸水の海に飲み込まれる。それぞれ、実直ではあれ贅沢なイメージであった。
実直で素直な表現が堪能された今回の演奏会。来年以降の表現の探究にも期待したい。
(2019/6/15)