低音デュオ第11回演奏会|齋藤俊夫
2019年4月24日 杉並公会堂小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 平井洋
〈演奏〉
バリトン、声:松平敬
チューバ、セルパン(*):橋本晋哉
〈曲目〉
ギヨーム・ド・マショー:『ご婦人よ、見つめないで』(14世紀)(*)
ペロタン:『祝福されたる子よ』(12世紀)(*)
山根明季子:『水玉コレクションNo.12』(2011)
近藤譲:『花橘』3つの対位法的歌と2つの間奏(2013)
桑原ゆう:『浮世忍びくどき歌』(2019委嘱初演)
小出稚子:『寿老人 福禄寿』(2019委嘱初演)(*)
福井とも子:『doublet IV』(2019委嘱初演)
杉山洋一:『バンショワ「かなしみにくれる女のように」による「断片、変奏と再構築」』(2014)
新美桂子:『砂漠の足踏みミシン』(2019委嘱初演)(詩:新美桂子)
「低音デュオとはバリトンの松平敬とチューバ・セルパンの橋本晋哉による異色のデュオである」というやや紋切り型の紹介文を書いてみて、ふと気がついた。異色ではない音楽とは現代においてどのようなものであるか?と。
しかし、まずは2人の音楽に耳を傾ける。
14世紀のギヨーム・ド・マショーの2声のバラード。ホケトゥスが、音楽を飾るというより、人間の侘しさを醸し出す。セルパンの音程の不安定さ、ずれもまた枯淡の風を漂わせる。
12世紀のペロタンの単声のコンドゥクトゥスは、まずセルパンが旋律を奏で、松平はコンサーティーナ(アコーディオン属の小さな楽器)と小さな「オー」という声での持続音を発する。旋律がセルパンから松平に交代しての歌も、音を聴くというより、音の向こうの静寂を聴くがごとし。音楽に満ちた修道院の無言行とでも言い得ようか。
山根明季子『水玉コレクションNo.12』、かつて筆者は山根作品について、消費社会に対する批判的視座が足りないというような批判を述べたが(東京現音計画#10)、今回改めて彼女の作品を聴いて、この批判とはまた別の見方を得た。
松平はカウンターテナー、ベルカント、名称はわからないが妙な発音などで「プッ」「ポッ」「ピッ」等々、全く意味のない発音を続ける。橋本もチューバを割れた音または重音奏法、吹きながら声を出す、などでこれもナンセンスな音を発し続ける。
されど恐ろしいのは、このナンセンスな音楽が、音楽が本来持っていた何らかの意味や形式を模倣することで、その意味や形式が剥奪され、さらにそれを反復することによって本来の意味や形式とは別の「なにものか」を備えてくるような感触を味わったことである。ここに何か現代の政治シーンが重なって感じられたのは筆者だけであろうか?
近藤譲『花橘』、メロディーもリズムも調性もあり、合奏もしているかもしれないし、メロディーもリズムも調性もなく、合奏もしていないのかもしれない、と言わざるを得ないこれも異色の音楽。
2人がそれぞれマイペースに歌唱・演奏しているようで、よく聴くと肝心要の所で合っている謎の対位法。無調ではないが、少なくとも通常の調性でもない。朗々と歌われる箇所もあり、チューバが軽快に吹かれる箇所もあり、だが、どうしてもその音楽に安らうことが拒絶される。実に「難しい」音楽だが、それゆえに面白い。
桑原ゆう『浮世忍びくどき歌』、これは西洋クラシック音楽から見ると異色なのだろうが、筆者はある程度日本伝統音楽を知っているがゆえに、物足りなさを感じざるを得なかった。
有り体に言って、バリトンとチューバが日本の長唄の真似をしているようにしか聴こえなかったのである。しかも、歌手はただのバリトン歌手ではなく「何でも歌ってしまう」松平敬なのであり、彼が本気で長唄を真似したらどれくらい面白かろうなどと考えてしまったのである。
桑原は日本伝統音楽や芸能とのコラボレーションを重ねてきているとのことだが、今回の作品ではその本領は発揮されていなかったのだろう。ただ、終わり近く、長唄やバリトンといったものとはかけ離れた松平の大音声には圧倒されたことも確かである。
小出稚子『寿老人 福禄寿』これは異色にも程が有るほどの異色作であった。
真っ暗な冒頭から、照明がつくと、バリトンが寿老人、セルパンが福禄寿の「役」で、寿老人は鹿、福禄寿は鶴と関係のある尺八本曲の引用や歌詞(?)を奏で(?)歌い(?)ながら、太極図に沿ってステージ上をゆっくりと歩く。松平は片手に杖を突き、片手にカスタネットを持ち、橋本はセルパンと鈴を持ち、時折をそれらを鳴らす。また、頻繁に発せられる「かの~ぷす」というのは道教における「南極老人星」を指すことは後に調べてわかったが、「ん~~~~~も~~~~」「た~~~~お~~~~」「も~~~も~~も~ももももも……」などの声は何だったのかわからずじまい。「し~か~しかしかしかしか……」というのは「鹿」だったのであろうが……。
最後は松平が舞台袖に引っ込み、橋本が独りで歩きつつセルパンを吹く。袖からカスタネット、橋本の鈴が呼応しあい、冒頭と同じく照明が落とされて了。
何が何なのか全くわからなかったが、曰く言い難い求心力に満ちた作品であった。
福井とも子『doublet IV』、福井と来たら「噪音と轟音」に違いないと予想したとおりであった。息の音、無声音、発泡スチロールを擦る、足踏み、スネアドラムの響き線を鳴らす、口を塞いで歌う、チューバにファゴットのリードを取り付けて吹く、などなど、ほぼ全く楽音がない。その一瞬一瞬の音響をゴリゴリと積み上げて、「音楽」として構築してしまうのが彼女と演奏者たちの力量の凄さである。
杉山洋一『バンショワ「かなしみにくれる女のように」による「断片、変奏と再構築」』、前半の「断片」の部分、原曲を1、2音節で切断し、休符を挟んでまた1,2音節の断片を発し、突如異音が挟まれる所は、音楽に伴う感情移入をあえて拒み、異化し、音楽についてかんがえさせるところには作曲者の厳しい精神性が感じられた。
だが、その後の「変奏と再構築」は、論理的もしくは数学的に正しい変奏と再構築を最初から最後までやり抜いたのだと筆者は判断したが、残念ながらその音楽的な意図は読み取れなかった。平たく言えば、単調で長すぎた。聴く人を選ぶ作品ではあるだろうが、こう正直に述べざるを得ない。
最後を飾った新美桂子『砂漠の足踏みミシン』新美ならではのユーモラスでシュルレアルですらある歌詞に、正統派の音楽が……つかない。ポップな雰囲気なのにバリトンとチューバはどこかいびつな音楽を奏でる。ラストもオクターブや和音ではなく、不協和な2音ではなかっただろうか?
もし現代日本の「正しい音楽」がスーパーマーケットやら駅のプラットフォームやら炊飯器やら電子湯沸かし器やらトイレやらあらゆる所に溢れる「音楽」なのならば、俄然筆者はそれより今回のような驚きに満ちた「異色の音楽」を選ぶだろう。
(関連評)低音デュオ 第9回演奏会
(2019/5/15)