Pick Up (19/3/15) |ホセ・マセダ『カセット100』|齋藤俊夫
2019年2月10日KAAT神奈川芸術劇場アトリウム
text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
photos by 前澤秀登(Hideto Maezawa)/写真提供:国際舞台芸術ミーティング in 横浜 事務局
作曲:ホセ・マセダ
振付・演出:東野祥子&カジワラトシオ(ANTIBODIES Collective)
技術コンサルタント:デヴィッド・ディノ・グアダルーペ
空間演出・美術:OLEO
特殊効果・美術:関口大和
美術・テクニカル:森田賢介、矢野貴雄、西村立志、加藤裕美、伊藤あや、上地アヤコ、倉持祐二
演奏:ケンジルビエン、石井則仁、井田亜彩実、尾身美苗、斉藤成美、白井剛、田路紅瑠美、東野祥子、ミナミリョウヘイ、もっしゅ、矢島みなみ、吉川千恵、他、全約100人
記録:アライヨシヒロ、塩田正幸、Sean Ahaha、宇波拓、前澤秀登、遠藤幹大
制作:中山佐代、松島さとみ、恩田真樹子
KAAT神奈川芸術劇場|プロダクションマネージャー:安田武司、山本園子
舞台監督:齋藤亮介
機構:本田康広
照明:梶谷剛樹、安藤息吹
ディレクション:恩田晃
1999年11月3日サントリーホール、新星日本交響楽団の「アジアの鼓動」と題した演奏会で、筆者はホセ・マセダの管弦楽曲『リズムのない色』に衝撃を受け、終演後思わず彼に駆け寄り握手を求め、「ベリービューティフルミュージック、グレイト、グレイト」などとうつむきながら呟いた。
それから19年後、2018年12月半ば、このホセ・マセダ『カセット100』上演と参加者募集を知り、過去の日本公演(今推測して調べるに、1991年の仁和寺での上演ではなかったかと思われる)に参加した某氏に「足が少し悪くても参加できるか」と尋ねた所「ラジカセ持って練り歩くだけだから大丈夫」との返答を得、運営にも足が少し悪いが参加したいと告げたところ、やはり大丈夫、参加してくれ、とのことであった。
そして厳寒の2019年2月9日に杖をついてKAAT神奈川芸術劇場に赴いた。集会場であるロビーには筆者の為に椅子が用意されていたのが実にありがたい。配られた本公演オリジナルTシャツを着る。
還暦過ぎから10代と見られる老若男女入り乱れての約100人が集まり、3時から、まず恩田晃によるホセ・マセダについてのレクチャー、東野祥子、カジワラトシオ、そしてフィリピン大学の民族音楽学研究所管理人にしてホセ・マセダ・アーカイヴ管理人のデヴィッド・ディノ・グアダルーぺ氏からの今回の企画についての意図やメッセージなどを聞く。
本作品の基本構造は以下の通り。
ホセ・マセダがフィリピン・ミンダナオ島の民俗音楽を素材にして、100パート全てを30分丁度に記譜した上で100個のオープンリール録音を作った。それらをマスターとしてダビングしたものを、昔はカセットテープでラジカセを持って、今回はMP3プレーヤー(ラジカセも併用される)を持って、マセダの作曲通りに同時に再生しつつ踊り歩く。
100人は10名を1グループとして10グループに別れ、それぞれにプロの舞踏家などのリーダー1人ずつが付く。全体のタイムスケジュールや全体で同じ動きをする箇所、配置などはマセダ自身や今回の演出やリーダーたちが決めており、その中で自由な部分をどのようにするかはグループごとに相談して決める。
筆者のグループリーダーN氏は和洋をまたいだ活動をしているプロの舞踏家。他のメンバーの中には九州から新幹線で泊りがけで来た人や音楽や舞踏の関係者もいるが、舞踏のプロはリーダーたち以外ほぼいないようだった。
4時過ぎから練習とリハーサル(本番と同じく30分間丁度)を2セット。初めのタイムスケジュールなどに微調整を加えつつ、全体と各グループが有機的に作品を構築していく。
まず、筆者の片足と腰骨が悪い、ということをグループリーダーには承知してもらい、走ったりして足に負担をかける振り付けはしないなどを配慮してもらえることになった。それゆえ、10人が集まってウネウネとイソギンチャクのように踊る「隙間埋め踊り」や「MP3プレーヤーで自分の名前を空間に描きながら踊り歩く」などを案出してもらい、さらに、筆者に障碍があるということからリーダーが決断したのが、「筆者が両手にラジカセを持ち、腕を伸ばして十字架のように身体を固め、それを他の9人が担ぎ上げて階段を登る」というパフォーマンスであった。
2時間程の練習とリハーサル、少々どころではない運動量であった。走ったりはしないものの、エスカレーターで1階から5階まで登り降り登り降り、時にはエスカレーターを逆走してぐるぐるとそこを回り続ける。足と腰骨に痛みは来ないが、筋肉には乳酸がどんどん溜まっていく。
一旦長い休憩。会場の外は雪。1人でMP3プレーヤーを再生して自分のパートの音楽を聴いてみると、100パート同時で聴くとほぼカオスであるが、笛、笙、篳篥、口琴、打楽器のようなおそらく竹の楽器による、単旋律とドローンとオスティナートで構築されていることがわかる。これを100パート30分全て記譜し構築してこのとんでもない一大イベントを考えついたとは……!
9日最後のリハーサル。疲れてはいたものの、これまでで段取りと雰囲気は大体わかったので、全体としては非常にスムーズに、不自然な所なく演じられた。
8時頃帰路に。私宅近くの行きつけの中華料理屋で自分に少し贅沢を許す。
2月10日は好天であった。いざKAATへ。1時半集合。
各グループで振り付けの復習と再構成をして、ゲネプロ。昨日から通算4セット目になると場馴れしてきて、かなり落ち着いて終えられた。本番を前にパフォーマー100人に加え、振付・演出・リーダーたちも興奮し、かつ安堵の模様。
4時半頃長い休憩で一旦解散。6時頃また集まるも、脱力か、緊張か、なんとも言えない空気が漂う。が、5階から下を見ると黒山の人だかり。あの中で踊るのだ、我々は。
6時15分、全員出発。
本番第1回。配置に付く。6時30分、カウントダウン。「5、4、3、2、1」、プレーヤーを再生。
まず直立して10数える。
ごくごくゆっくり1回りする。
ゆっくりと上を仰ぎ、プレーヤーを天にかざす。
上を向いたままゆっくりと1回りする。
めいめい、体をひねってプレーヤーをかざす。
地面を舐めるようにプレーヤーをかざす。
ゆっくりと直立に戻り、その場でゆっくりと回り続け、おもむろにリーダーの作る列に合流し、全員で数個の輪を作り練り歩く。
「隙間埋め踊り」をしている最中に、リーダーの合図により、筆者の両手にラジカセが持たされた。十字架となってメンバーに担がれて、広間から階段をゆっくりと上がる。身動きをしてはならない。今、俺は動かずに皆と踊っているのだ。
そして100人100台のMP3プレーヤーとラジカセの轟音の中、歩き、登り、降り、踊り続け、カウントが27分の時点で、皆が自由な方向に、かつ「1、2、3」のステップに合わせて3歩あるいては方向転換を始める。
29分、全員が停止・直立し、ゆっくりとプレーヤーを天に掲げ、下ろし、30分、プレーヤーを停止し、全員がゆっくりと床に倒れる。沈黙の中、独りのダンサーが踊り狂いながら去り、照明が落とされる。終演。
照明が再び灯され、立って皆でお辞儀をし、5階へ。
10分程度の休憩を挟み、第2公演。
既に疲労と精神との戦いで朦朧となっていた筆者は、「冒頭」「名前描き踊り」「1、2、3ステップ」などで前の公演通りにいかず、最後床に倒れた後、照明がついてもなかなか起き上がることができなかった。
万雷の拍手の中、息を切らせながら5階までエスカレーターで上がる100人。
そしてロビーで歓声を挙げる。やった、俺たちはやったのだ。ホセ・マセダ『カセット100』の記念碑的公演をやりきったのだ、と。
しばしの歓談の後、ロビーから階段に出た瞬間に「ズドォッ!」と全身に錘がのしかかり、足には激痛が。
杖にすがって辿り着いた私宅最寄りの駅ビルで飲んだビールと御酒の美味いこと。神よ、いや、ホセ・マセダよ、見たか、聴いたか、俺たちは本当にやりきったのだぞ!
最後に、ホセ・マセダ(1917~2004)についての恩田によるレクチャーを基に彼の人生と音楽を概説する。
16世紀のポルトガルとスペインによる占領以来約4世紀に渡って西欧人による半統治下におかれ、マセダの生まれた時代には土着の民族音楽は彼の階級(彼は華僑の家系である)においてはほぼ忘れられていた。
若き天才ピアニストとしてマセダは第二次世界大戦以前にパリのエコール・ノルマルでコルトーに師事し、その後もパリ、サンフランシスコ、コロンビアと移りつつ西洋前衛音楽を学び、シェフェール、ヴァレーズ、クセナキスらと親交を結ぶ。
しかし帰国後、彼はフィリピンの土着音楽を「発見」し、諸島の山奥でそれらの採集・録音・記録のフィールドワークを専門とする、東アジア民族音楽学の権威となる。
1963年、46歳にして初の作品をものするが、それはフィリピンの民族楽器を使ったものであった。西洋前衛音楽における「クラシック」や「コンサートホール」の枠に留まらない空間や楽器の使用法は、彼が足を運んだ村々の音楽儀式を現代に再生しうるものであったのだ。
今回の『カセット100』(1971)や、マニラのラジオ局全てで24時間生放送したという『UGNAYAN』(1974)などの極端に大規模な前衛音楽が可能だったのは、皮肉なことに、独裁者マルコスの夫人・イメルダが前衛音楽を振興していたからであった。
しかし、マセダはマルコスたちと離れ、大学にこもった後、1986年の革命ではデモなどに参加した形跡もあるという。
世界に彼の音楽が知れ渡ったのは『UGNAYAN』などを収録したアメリカのジョン・ゾーンのCDによるが、それ以前から例外的に日本では高橋悠治がマセダとの親交により彼の音楽を積極的に広めており、マセダと日本の関係は深いものであった。
これまで、日本でこの『カセット100』は1991年5月仁和寺でのパフォーマンスを含めたものと、1991年2月3日サントリーホールでのパフォーマンス抜きのものが確認されているが、今回が最も初演時に近い日本公演であった。
なお、1999年新星日響「アジアの鼓動」の資料は筆者がデヴィッド・ディノ・グアダルーぺ氏に差し上げた。フィリピン大学のホセ・マセダ・アーカイヴに収蔵されるという。
関連評:ホセ・マセダ:5台のピアノのための音楽、2台のピアノと4本の管楽器|藤原聡
(2019/3/15)