ホセ・マセダ:5台のピアノのための音楽、2台のピアノと4本の管楽器|藤原聡
TPAMディレクション/恩田晃ディレクション
ホセ・マセダ作曲『5台のピアノのための音楽』(1993)/『2台のピアノと4本の管楽器』(1996)
2019年2月11日 KAAT神奈川芸術劇場 ホール
Reviewed by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)
Photos by 前澤秀登/提供:国際舞台芸術ミーティング in 横浜 事務局
指揮:ジョセフィーノ・チノ・トレド
演奏:高橋アキ・高橋悠治・寺嶋陸也・入川舜・佐藤祐介(ピアノ)、田中香織(クラリネット)、笹崎雅道(バスーン)、有馬純晴(ホルン)、村田厚生(トロンボーン)
TPAM(ティーパム)、と記してもクラシック音楽ファンにはあまり馴染みがないかも知れない。日本語で言えば「国際舞台芸術ミーティング in 横浜」、英語では「Performing Arts Meeting in Yokohama」。つまり後者の頭文字を取って「TPAM」である(Tは何の略なのかと言えば、横浜で開催されるようになる前に「東京芸術見本市」として文字通り東京で開催されており、だからTOKYOのTである。これが横浜に移っても「TPAM」との名称が定着していたためにそのままにした訳だ。だから今は「TPAM in Yokohama」)。
全体プログラムによれば、TPAMとは「…同時代の舞台芸術に取り組む国内外のプロフェッショナルが、公演プログラムやミーティングを通して交流し、舞台芸術の創造・普及・活性化のための情報・インスピレーション・ネットワークを得る場です」。本イベントは大きく3つの部門に分かれており、1つ目は「TPAMディレクション」(様々なディレクターの企画によるアジアと世界の舞台芸術の動向をいち早く反映する公演プログラム)、2つ目は「TPAMエクスチェンジ」(アーティストやプロデューサー、批評家らによるミーティングやディスカッションのプログラム)、そして3つ目に「TPAMフリンジ」(会期中に横浜、東京エリアで実施される公演やプロジェクトを公募し、TPAMに参加するプロフェッショナルと一般客に紹介するプログラム)。
今回に即して大まかに言えば、「ディレクション」はKAATを中心としたある程度大規模なイベント、「フリンジ」は横浜を中心とした広範な場所で行なわれる小~中規模のイベントといった印象(余談だが筆者はフリンジのイベント中5つに参加した。と言っても全部で40以上のイベント数なのでとても全てフォローできるものではない)。既存のジャンル区分的に分かりやすく分類するならそのイベントの多くは演劇やダンスということになるだろうが、その内実の振れ幅は恐ろしく広い(この辺りを掘り下げるのが目的ではないので止めておくが)。
で、本稿の主眼たる11日、ホセ・マセダ作品のプログラム。これは恩田晃によって「ディレクション」の枠内で開催されたイベントである(この前日10日にはやはりマセダの『カセット100』のマルチメディア・パフォーマンスが行なわれたのだが、筆者は残念ながら未参加)。正直TPAMでマセダというのは意外、というかどういうコンテクストの元で取り上げられたのだろうと思いもしたが(「軽やかな越境者」といった観点? 近年TPAMが強化するアジア圏のアーティストでもある)、ほとんど実演で触れる機会のないマセダ作品がかかる上、それも生前のマセダゆかりのアーティストらによるパフォーマンスとあっては必聴だろう。ちなみに筆者が触れたことのあるマセダ作品はコジマ録音から発売されている当夜と同じ曲目によるCD(演奏者も当夜と複数被っている)、フォンテックの高橋悠治『リアルタイム2』収録の『ディセミネイション』のみ。
当日。自由席だけあってホールに連なるホワイエは大変な人だかり。予想されたことだが客層も通常のクラシックや現代音楽のコンサートに来る層とはだいぶ趣が異なる。これは関係者、あるいは一般客でも他イベントに参加した人がTPAMという括りの中でこれにも来たということはあるだろうが(某演劇評論家や音楽プロパーではない超有名大物批評家の姿なども…)、それはそれとしても若い人が多い。クラシック音楽の文脈ではなく、「TPAMが行なうイベントで面白そうだから来た」アート全般に興味がある感度の高いオシャレさん(否定的に言っているのではないです)といった辺りか。普通のクラシックのコンサートは恐ろしく年配者ばかりなので、上手い具合にコンテクストを作れないものかと思いもする。この「何だか面白そう」というのは物凄く重要だと思うのだが、それはさておき普段は演劇が行なわれるKAATで最も大きいホール内にはどこか高揚した雰囲気が立ち込める。
蓋の外された5台のピアノが客席に向かって扇状に並べられた特異な視覚状況。ホールが静かになってからややあって指揮者のジョセフィーノ・チノ・トレドが登場したが、ここで拍手と共に複数の歓声と口笛が飛ぶ。主は恐らくフィリピンからの聴衆だろう。右端の高橋アキが煌くA音のオクターヴ反復音を奏でると、それが左の奏者へリレーのように受け渡されて『5台のピアノのための音楽』が始まる。反復音形の多いその音楽はいわゆるミニマル・ミュージック的なテイストを漂わせているが、ミニマル的なモアレ効果とは違い、そこに予期せぬ不定期性が入り込んで来る。ジオメトリックな構成と曖昧さの両立といった辺りにマセダ的な音楽が感知できよう。中盤ではテンポを速めて鋭いパッセージが連続するパートに移行するが、ここではペンタトニック・スケールも出現してどことなくドビュッシー的でもある。ほどなくして冒頭が回帰するが、ここでは最初の部分から変化が加えられていて既視感とともに別の音楽を聴いているような錯覚に陥る。
演奏の精度ということでいえば、恐らく短い時間で仕上げる必要があったのだろうが縦の線がやや緩く、奏者間のフレージングが微妙に合っていないと思われる箇所もあるのだが、それでも会場がデッドな響きであるために各ピアノは比較的明晰に聴こえる。しかしここまで書いて思う、そもそも西欧的な時間の分節=縦の線の明晰化などという観点で聴かなくてもよいような気もする音楽で、逆にこれをよく響くコンサートホールで演奏してみれば倍音が共鳴してより陶酔的な音楽となっていたかも知れない。明晰な音像を望むならCDで聴けばよいのだから。
休憩後の『2台のピアノと4本の管楽器』ではピアノに高橋アキと高橋悠治が再登場し、そこに田中香織(クラリネット)、笹崎雅道ら4人が加わる。配置は右端に高橋アキ、左端に高橋悠治。その間に左から右へトロンボーン、ファゴット、ホルン、クラリネット。その音楽はまずピアノが「外枠」を作り、その中に管楽器が参入してくる構成を取る。トロンボーンは中低音で短いアタックによる断片的な音形を発し続け、メロディと呼べるような長い旋律線はない。これはクラリネットも同様だが、この2楽器は音の大きさと中声部の使用音域の聴き取り易さが意図的されているのだろう、全体の中でも目立って耳に入る。対してファゴットとホルンはもっぱらpで吹かれ、かつドローン的な持続低音が全体に溶け込むように演奏されているためにそれ単体としては目立たない。これら4管楽器は狭い音域を行ったり来たりして、先に書いたこととも共通するがピアノがその外枠=高音と低音を煌びやかに装飾する。この曲でも中間部ではテンポを速めて緊迫感のあるパートに入り、そして回帰する。1曲目に比べると管楽器が加わっているおかげで響きの変化と色彩感に富み、これは録音よりも実演でより明確に感知できた点である。
但し、ここでも演奏はより精度を上げる余地はあっただろうか。中間部で6連符が連続する箇所ではどうも微妙に「ずれる」。全体としても音像がよりシャープで引き締まったものになっていればさらに聴き映えしたとも思われる。この「緩さ」は意図的なものでもないと思うが、しかしその辺りの是非について批評的記述は難しい(これは筆者がマセダの音楽をよく知らないからだと告白しておく)。美的には「あり」だと思うのだが、発信者が意図して出したものなのか、意図せずして出してしまったものなのか。またはそれらを享受者がどう受け止めて判断するか。
亜熱帯地域の森林にしとしと、長々と降り続く雨。そしてスコール(両曲の中間部?)、両曲の心象風景。横溢する独特のアトモスフィア。西洋の楽器を用いながらも、西洋音楽の定型的・類型的あるいは分節化された感情表現の全くない音楽。エキゾティシズムではない。マセダの音楽は独特で、仮にミニマル・ミュージックやフランス近代音楽の影をそこに見るにせよこの作曲家のユニークな単独性は揺らがないように思える。マセダの音楽をもっと実演で聴いてみたいと思ったのだが、難しいだろうか。
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