パリ・東京雑感|危うい<共感>? 感情を鍛錬する|松浦茂長
危うい<共感>? 感情を鍛錬する
text & photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
正月は朝日新聞の『感情振動 ココロの行方』という連載に苦しめられた。今は感情の時代、共感、感動を競う時代なのだという。「4回泣けます」を宣伝文句にした映画をとりあげ、SNS上で「泣きすぎて目が痛い」「涙腺が崩壊」などの言葉があふれたとか。続いてそうそうたる評論家、学者にインタビューし、共感・感動過剰の危険を警告させている。
僕は、いまの日本を感情希薄な、カサカサした国と思いこんでいたので、大いに戸惑い、椹木野依氏の「僕自身は絵を見て『感動』した体験はありません」と誇らかに告白する『感動』否定に度肝を抜かれた。どうやら僕の感性は20年ほど遅れているらしい。あわてて『朝日デジタル』から長文のインタビューをプリントアウトし、アンダーラインを引きながら何度も読み直してみた。
『感情化する社会』の著者、大塚英志氏は「感情は人間にとってもちろん大切です。他者への共感力ですから。ただ、現代は感情が価値の最上位にきて共感が社会を動かしている。そこでは言語による丁寧な対話が回避されてしまう。それが『感情化』です。」という。
<感情化>で思い出すのは、24年前、地下鉄サリン事件後のテレビ報道だ。僕たちの世代のテレビ記者は「テレビ報道にBGMをつけてはいけない。ニュースは感情ではなく理性に訴えるように作らなくてはいけない」と教えられたのに、オウム真理教について報道するときは、記者のレポートより芝居がかったナレーションが好まれ、おどろおどろしい音楽をかぶせ、恐ろしさを情緒的に訴える演出が流行した。ニュースが<感情化>し、オウムを憎まない者は<非国民>にされそうな勢いだった。
でも、いまそんな挙国一致的な<感情>が日本を支配しているのだろうか?
阪神大震災のあと、災害ボランティアが活躍した。東日本大震災後は、<絆>という言葉があふれた。文学の世界では、2000年前後から、<感動><泣ける>を目的として特化した作品がふえてきたのだそうだ。たとえば、難病を扱った『君の膵臓を食べたい』は発行部数260万部、映画が35億円とか。バブルがはじけ、天災が続き、人びとの心がやさしくなったように、僕には見えたが、『朝日』の特集は、そこに<共感>暴走の危険を感じ取った。
<感動>が危ない!椹木氏いわく「感動は、同じ感動を共有することで自分は間違っていないと確認する、ある種の集団的な現象だと思います。自分には自分の感性があって、その体験は、他の人とは共有できない」。つまり、感動すると自分を失う。感動とは主体=個喪失の危険な罠というわけだ。
でも個性が強いので有名なフランス人は感情に振り回されない理性の人だろうか?とんでもない。日本人よりよっぽどよく泣き、烈しく怒り、感動をあらわにする人たちだ。
洪水のニュースで、被災者にインタビューすると、家具が泥だらけになっただけで、家はしっかり建っているし、けが人もないのに、男が泣きながら「恐ろしかった」と訴える。
小さな町で若い女性が襲われ殺されると、町中の人が粛々と行進し、犯人への怒りを表す。
有名なシャンソン歌手が死ぬと、ニュース番組はほとんどその追悼で埋まり、そのあと特別番組を組む。国民総服喪だ。(そもそもキリスト教は仏教、イスラムに比べ感情的宗教。聖人伝には涙を流しすぎて睫が一本もない聖人の話がのっている。)
ワールドカップとなると、カフェが超満員になり、歓声をあげながら中継を集団視聴する。去年は近所のカフェの前を通りかかったら、舗道まであふれた黄色いシャツの男女が一斉に僕と妻の方を見て、なにやら嬉しそうに叫んだ。日本対コロンビアの試合だった。
ボナールの特別展を見に行ったら、浴槽の女の絵の前で、隣の中年女性が僕に向かって「ボナールは本当に女が好きなのね」と感極まったように言う。そして「ピカソは女を憎んでいたわ」とつけ加えた。
哲学的議論だってクールではない。アカデミー会員の哲学者フィンケルクロートがゲストを招いて1時間議論するラジオ番組があるが、この人、「老いたる熱血漢」とでもいった迫力があり、聞く方も興奮させられる。#MeTooをめぐってフェミニストと対決したときなど、仇敵にめぐりあったような情熱でくってかかった。他方モンテーニュを語ったりするときは、彼の敬愛の気持ちがストレートに伝わってくる。知を究めるとき情も強まるのだ。
政治家も実業家も組合リーダーもギラギラと感情を露わにするから、テレビニュースはドラマみたいに面白い。
頭だけでは人間は動かない。抽象的理念から行動に移るには<感動>が不可欠だ。2015年1月7日、風刺漫画紙『シャルリーエブド』が襲われ12人が殺された夜、誰の指令もないのに0℃のレピュブリック広場に1万5000人が集まったのはなぜか。殺された漫画家に共感したのではない。挑発的で下品な『シャルリーエブド』はむしろ嫌われていた。友人のジャーナリストに言わせると、あれは動物的直感のようなもので、「自由を守るための市民の義務」などと頭で考えるより前に、胸がうずいて飛び出してしまう。同じ気持ちの大勢と一緒になることによって、昂揚した一種のエクスタシーに入るのだ。
翌日、近所のプールで泳いでいたら、急に視界から人が消え、泳ぎやすくなった。良い気分でスピードを上げたがプールサイドに着くと肩を叩く女性がいる。小声で「私もシャルリー」。そうだ!黙祷の時刻だった。笛が鳴るでもない、アナウンスもない、誰も合図しないのに12時になると、全員がプールから出て黙祷した。襲撃の翌日正午、全フランスは会社も商店も自発的に1分間の黙祷を守り、地下鉄、空港も止まった。
<自由>とか<人権>が叩かれるとヨーロッパ人があんなに憤慨するのはなぜだろう?昔から彼らは抽象的な理念のために興奮する変わった人達なのだ。中世のベストセラー『薔薇物語』という奇妙な本がある。登場するのは<強欲><閑暇><美><礼節><気前よさ><若さ>などという名の人物ばかり。つまり抽象が人間の姿を取ってドラマを繰り広げるのである。この物語が大ベストセラーだったからには、昔からヨーロッパ人は抽象にいたく感動する人達だったに違いない。
抽象を人間の姿で表すことをアレゴリーというが、日本人の僕にはアレゴリーの絵はちっとも面白くない。そもそも有名な『自由の女神』というのは誤訳で、あれは『自由』のアレゴリー、神さまではなく抽象。彼らは<自由>という抽象に美しい女性を見て、心がふるえるのだ。
フランス人の感情家ぶりを見慣れていると、日本の<感情>過多を恐れるよりも、むしろ<感情>希薄を気にした方が良いように思えてくる。内田樹氏は「感情って基本的に一人一人のなかにあるもので、自分で鍛錬したり教育したり、深めていったりできるもの。……たとえば『赤毛のアン』を読んで感動すると、少年のなかには少女の気持ちはないんだけれども、少女の感覚というものが感情の襞として刻み込まれてくる。……みんなが自分自身の感情に対して丁寧に水をやって、肥料をやって、深めていくと、実は軽々に共感ってできなくなる。いま非常に共感が過剰になっているということは、逆から言うと、一人一人の個人の感情がすごくシンプルなもので、みんな同じようなものを心のなかに持っていることが前提になっている。」と、感情教育の大切さを説く。音楽ファンにはピンとくる説明だ。(正月に散歩しながらヘッドフォンでワルター指揮のマーラーの交響曲9番を聞いたら、マーラーとワルターの悲しみの巨大な広がりに圧倒された。民族の3000年の苦難と連帯があんな高貴な劇的情念――孤独な魂の悲哀とは正反対の、開かれた共同悲哀――を可能にしたのだろうか。ともかく、この<感情教育>の結果、いままで親しんできたバルビローリがセンチメンタルに聞こえ、<共感>不能になってしまった。)
でも、いくら<感情教育>を深めても、悪い奴、嫌な奴にまで共感を及ぼすことが出来るだろうか。テロリストやソマリア人ギャングの社会復帰支援のNPOを立ち上げた永井陽右さん(27)にとって他者の<痛み>が、キーワードだ。「たとえば腕を骨折したら、同じ霊長類ヒト科だったら、おそらく同じくらい、とてつもなく痛いだろうなと考えました。他者の幸福や考えはさっぱりわからないし、わかるわけがないけれど、自分の痛覚を通して痛みならある程度高い精度で推し量れると思っています。同じ種として体の構造なりはおおむね同じじゃないですか。だから、それを介して他者を理解したほうが正確だなと思って」。気負いのない語り口だが、善悪の分別、文明・国家の違いを突き抜けるしなやかなヒューマニズム宣言ではないか。胸が熱くなった。
(2019年1月30日)