大阪フィルハーモニー交響楽団 第524回定期演奏会|能登原由美

大阪フィルハーモニー交響楽団 第524回定期演奏会

2019年1月17日 フェスティバルホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 飯島隆/写真提供:大阪フィルハーモニー交響楽団

<曲目>
指揮:尾高忠明
ヴァイオリン:神尾真由子
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団

<曲目>
武満徹:トゥイル・バイ・トワイライト〜モートン・フェルドマンの追憶に
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調作品26
〜休憩〜
エルガー:交響曲第1番変イ長調作品55

 

今シーズンより音楽監督に就任した尾高忠明。それから8ヶ月が過ぎ、いよいよその音楽が姿を現わすとともに、今後の方向性も見えてきたように思う。とりわけ今公演では、指揮者、音楽監督、また音楽家としてのカラーがより鮮明になっていたのではないだろうか。もちろん、エルガーの演奏においては本場、イギリスでもお墨付きを与えられているのだから、当然と言えば当然だ。そのシンフォニーを取り上げた今回の演奏は、先導役として当楽団の歩む道を示すものになったとも言えるが、それも狙いの一つだったのかもしれない。見事な采配ぶりであった。

そのエルガーの《交響曲第1番》、とりわけ壮大な第1楽章が当夜の白眉となる。いや、壮大だがこの尾高の演奏は非常に精緻だ。まるで織物が出来上がる様を見ているかのように。綾となる個々のモチーフがクリアで、その反復や変容、対比も実にスマートでわかりやすい。それらを織り上げる過程においても、歪みや綻びはほとんど見られない。爽快に、だが丹念に織り上げられていくその果てに、全体の壮大な景色が見えてくる。

もちろん、それにはオーケストラの技量、あるいはそれを引き出す統率力がなくてはなるまい。特に管楽器を中心に、いつにも増して個人技よりアンサンブルの巧さが際立っていた。その結果、細部に至る工夫も、存分にその効果を発揮することになる。全奏ともなれば、圧倒的なパワーと華やかな音色に彩られる。やはりそのタクトの力量を称賛しないわけにはいかないだろう。

ただ、欲を言えば、このエルガーは若干洗練され過ぎているようにも感じた。というのも、過ぎ去りし大英帝国の栄華を彷彿とさせるかのようなあの冒頭の主題を、尾高は過度な身振りや作り込みをせず、ごく自然に中庸に語っていく。その中庸さは全体を支配するものともなっていたが、同時に、威厳と郷愁の混濁した「イギリス的」な俗っぽさを削ぎ落とし、大陸的な構築性、論理性を全面に感じさせるものともなっていた。だが、そのイギリス的な響きこそエルガーをはじめ、この時代の英国音楽ではないか。私自身はそこを聞きたいと思ってしまうのだが、当時の英国人が抱いたドイツ音楽への憧憬を思えば、こういうエルガーも当然あってしかるべきなのかもしれない。

一方、オープニングは武満徹の《トゥイル・バイ・トワイライト》。やはり緻密にコントロールされた音の線が面を形作り、面が空間を埋め尽くしていく。そのバランス感覚は見事だが、この作品においては逆に、織り目や音の輪郭が幾分目につき、色彩や空気の微妙な移ろいを阻害しているように思えた。

ブルッフの《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、神尾真由子がソリストを務める。ここでの尾高による押し引きは絶妙だった。オケには抑制させた表現を与え、浪花節を思わせるかのような神尾のウェットな音楽とまさに好対照を形作っていく。だがそれによって彼女の表情の彫りを一層浮き立たたせるとともに、音楽にメリハリをつけ、全奏部分では一気に前へと押し進めていく。

それにしても、神尾にはすでに女王の風格すら漂っている。もちろん音楽においてもだが、アンコールを期待する観客の拍手に何度も舞台に戻されるも、結局その要求には応えなかった。今日はこれ以上言いたいことないわとばかり、堂々としたものだ。いや、その毅然とした態度ゆえに、こちらも何だか妙に納得した。確かに、あれだけ饒舌に語った後で何かをやるのは無粋かもしれない。

さて、昨年ベートーヴェンのチクルスを終えた尾高と大フィル。今年はブラームスのチクルスを予定しているという。エルガーの憧れたドイツの音楽を今度はどのように織り上げていくのか。注目していきたい。

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(2019/2/15)