カデンツァ|音楽は教えられない|丘山万里子

音楽は教えられない

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

東京クヮルテット創立メンバーだった原田幸一郎氏にお会いできたのは11月末。ことの流れは前回コラム(フォーレ四重奏団公開マスタークラスで考える)をお読みいただきたい。
氏は現在、桐朋音大、マンハッタン音楽院、韓国国立芸術大学での指導のかたわら、サントリー室内楽アカデミー、プロジェクトQで若手の育成に当たっている。桐朋学部長の5年間、退任後の現在、アメリカ、アジアを月々往来しつつ、何を感じ、何が見えるかをうかがった。
お話の最後に、サントリー室内楽アカデミーのレッスンが12月初めにあることを聞き、それを聴講させていただくことにした。私の都合で全7組中最後の2組だけであったが(12/4@サントリーホール リハーサル室)。

フォーレ四重奏団の公開マスタークラスからこの稿執筆までわずか2ヶ月。負傷もあり、その間に得た私の新材料は原田氏のお話とアカデミーのレッスンのみだ。たったそれだけで、現況をつかめるわけがない。
とりあえず、これまで各地でのアカデミー、マスタークラス見聞に重ねての私の現時点の了解は、16年前の氏の言葉「音楽は教えられない」だ。
氏は今回もその言葉を繰り返した。

私が「音大は何を」などと考えたのは、意味ない問いだった。フォーレは、まず「問いかける」。だが、日本の学生たちは「問いに戸惑う、問いを教師が投げないからだ、問いを自ら立てる能力を育てない教育にこそ問題あり」。
これは、過去、草津などでも目撃してきた光景(講師への気迫や取り組みの相違は別問題)で、「どうしたい?」でなく「こうしなさい」の教育が日本では大方、との経験的認識が、またぞろ頭をもたげたにすぎない。

原田氏に訊ねた。
演奏にあたってのイメージ、アイデアを聞かれて答えられないのは、考えたことがないか、考えていてもそれを言語化できないか、のどちらか。
「どちらも。」と答えは明快。
考えるような「問いかけ」をしない教師。
考えていることを「言語化できない」心身(頭だけでない)の構造。
自ら積極的に発言、議論する習慣のない日本人の心性。
音楽に限らない、と氏は言い、私もその通り、と頷いた。
「東京クヮルテットでも、ゲストとやる時は、向こうがいろいろ言うのにこちらはだいたい黙っていて、自分たちだけの時は盛んに議論する。僕たちもそうだった。意見を求められても言わない。」
主語なしに語ることが可能な「日本語」が、それら全てを表している。
すなわち、発言する個、自己主張する個の稀薄さで、それを日本人の特性とするのは誰もが言うことだ。
曰く、海に囲まれた狭小な島国で「異人」と接する機会の少ない日本人は、「他者」との衝突や軋轢で闘う必要性がなかったゆえ、「個の意識」は育たなかった。大陸は地続きで、常に異人と対面、自らの場とアイデンティティを確保、強化、闘争し続けねばならないのに対し、だ。我が国はのほほん、「和」を大切に。
言語化できない構造もまた、自己説明の不要さ、ということでここに端を発しよう、とか。
だが、これは環境、社会、文化、教育の問題で、音楽だけの話でないゆえ、また回を改めて。

であっても眼前の事象、考えることを促さない、問いかけをしない指導について。
日本の音楽教育が戦後の高度成長と同期、は、氏のかつての言葉、「東京クヮルテットはソニーのように緻密精緻なアジア人アンサンブルが物珍しく評価されただけで、独自な音楽性じゃない」の言葉と響きあう。追いつき追い越せ技術開発と効率化がジャパン・アズ・ナンバーワンを生み、アジアの経済大国にのし上がった成功物語と似る。
戦後日本の早期音楽教育への技術一辺倒批判は、徹底したハウツー「こうせよ」伝授、完璧モデル促成栽培、園田高広氏の「ブロイラー大量生産」の指摘に通じる。

だが、思い出す。
例えば2008年、笠間のクールシュヴェール国際音楽アカデミー(茨城国際音楽祭)でのレッスンを。樫本大進、庄司紗矢香らを国際舞台に送り込んだ名教師ザハール・ブロンのマスタークラス。
彼の指導もハウツーに尽きた。演奏上の問題点とその解決法、楽曲の細かな作り方の呈示。ディナミークや音質など、細部の解釈、あるいは表現を自分が弾いてみせて呑み込ませる。指導に従い求められることを完璧にこなせば、ある水準までは必ず到達できるのだ。
ドン・スーク・カンも同じ、ブロンよりさらに即物的で徹底的。
それは日本人向けの指導法なのだろうか?
辰巳明子は違った。
彼女はしばしば、「どうしたいの?」と受講生に問いかける。同じフレーズの繰り返しをどう弾きたいか。答えを待ち、では、なぜ、そう弾きたいか、を聞く。ブロンやカンなら手っ取り早く、次がこうなってるんだから、1回目はこう、2回目はこうね、と弾いてみせるところだ。が、辰巳は「あなたももう中学1年生なんだから、どういう音楽に自分がしたいのか、考えるようにね。」とチラッと言うのである。
パスカル・ドゥヴァイヨンとクシシュトフ・ヤブウォンスキのピアノレッスンでの共通項は「音(響き)を良く聴くこと」。「ペダルでごまかすな」「楽譜をちゃんと見なさい」「音楽っていうのは、自分のなかでせいいっぱい時間を広げてあげることなんだ」など、音楽の本質についての、宝石のような言葉がポロポロ出て来る。
つまり、「こうしなさい」「どうしたい?」は日本云々でなく、教える側のそれぞれの意識の違いでしかない、ということ。
これはソロも室内楽も同じだ(当たり前だ、音楽は音と音との関係性に尽きる)。

サントリーのアカデミーはどうだったか。わずか2時間の聴講であったから、短絡的には言えない。原田幸一郎、磯村和英、毛利伯郎、練木繁夫の4人の講師陣の指摘を拾ってみる。
チャイコフスキー『ピアノ三重奏曲 ある偉大な芸術家の思い出のために』では。
原田氏「室内楽というより、各人それぞれが拮抗し合う曲。君たちの音に対するイメージはなんなのかな。僕の中に刻まれているのはカーネギーでのホロヴィッツ、スターン、ロストロポーヴィチのトリオ。壮絶だった。全員が俺が俺がって感じで前に出て行くのね。」
練木氏「哀しさ(誰かを失う)をどう表すか」「ここっていう肝心なところをさっと通り過ぎちゃう。」「合わせることに神経使ってるけど、それがいいことなのかどうか。ホロヴィッツたちなんか、我慢できないで出て行っちゃう、そういう内から溢れ出るものが必要なんじゃないかな。」「濃く、濃く、濃く!お茶漬けじゃないの。」(他の受講生たちも聴講しているリハ室、みんな笑)
磯村氏、毛利氏は発言控えめ。フレーズ調整「そこ、ちょっと弾きすぎかな」「ここはもうちょっと頭をはっきり」。
次はハイドン『弦楽四重奏曲第75番』。
しょっぱなから原田氏「こんなんでコンクール受けようなんて無理だね。」ときつ〜い一言。
あとはほぼ磯村氏主導。自分の中に流れる音楽を伝えようと身振り手振りでヒートアップ。「形式美が不足。立体感をもって。和声進行をもっと感じて。」「いろんなことしたいのはわかるけど、流れがデコボコになってる。」
常に控えめ毛利氏「アレグロってどんな感じなのかな?」問いかける。受講生「陽気で楽しい・・・」顔を見合わせての答え。
練木氏、スコアを見ながら、でもたまに口を挟む(ピアノはないゆえ)。
第2楽章は時間がなかったが、ピアニシモでの冒頭の入りに指導が集中、思わずフォーレの時のことを思い出す。難しい。部屋全員の耳、息が1点に集まる緊張。
レッスン終了が告げられると磯村氏「あ〜時間か。残念だなあ。」

以上(とその他の見聞経験を含め)から、強引にまとめる。
考えるような「問いかけ」をしない教師は、たくさんいる。手っ取り早く効果、結果(コンクール優勝など)が出るから。
だが、「問いかける」教師も、ちゃんといる。彼らは答えをじっくり待つ。時間がかかっても。
アカデミーでの4氏、意見が異なる場合もあり、それもまた「問い」に他ならない。
日本的指導どうこうの話でない、それぞれで、あとは教師と生徒の出会いに尽きよう。音大だろうとなかろうと、だ。

音大の現状についての原田氏の話をざっとまとめると以下。
室内楽の指導はほとんどなし、音大外の場(多くはないが、あることはある)。
指導は相変わらずソリスト志向。中国、韓国、台湾などアジアも同様。ヨーロッパは逆に室内楽へ傾きつつある(それが何を意味するかは深く考える必要あり)。
音大生の意識の変化。曰く、社会の豊かさが「覇気」なき若者を生んでいる。僕たちの頃は場や機会に飢えていた。ジュリアード四重奏団を聴きに日光まで出かけるとか。
一方、今どきの学生は欧米と日本、といった差異意識も少なく、自然体。技術も高度、音楽性も豊か。
目立つのは音大のファッション化、タレント志向。
今後については、日本にとどまらず、アジア各国に室内楽連合のような教育と演奏のネットワークができるといい、と。

音楽は教えられない。
「どうしたい?」だろうと「こうしなさい」だろうと、効率を追おうが追うまいが、「その子の持っているセンスはどうしようもない。ここからクレッシェンドとか、ヴィブラートはこう、とかは教えられる。でもそこまで。なんか外れていても、すごく音楽的にいいセンス、魅力がある、それはどうしようもない。そういう子が、残ってゆくんだし、そうじゃないと音楽は豊かになって行かない。」(原田氏)

私も同感だ。ただ、こうも思う。
確かに、音楽は教えられない。でも、教えられない、ということを教えることはできるんじゃないか。
何れにしても、なるべく若い人たちの演奏を聴き、アカデミーにも通ってみるもり。

もう一つ。改めて考えたいと思ったことがある。
アジア連合の話。
音楽市場としての中国、韓国その他アジアが、ただ「先進国」に消費されるのでなく(演奏ツァーの今日パターンにそれは明らか)、新たな音楽ヴィジョンを生み出す可能性について、私たち、もっと真剣に向き合わねばならないのではないか。
今の世界力学図と、それは必ず連動しているのだから。
その新たなヴィジョンが、前回の「私たちの音楽」であることは言うまでもない。

そもそも、私たちはなぜ、西洋音楽を「やる」(享受する)のだろう。
こう聴くと、原田氏はうーんと首を傾げた。ふと、思う。みんな、理由なんかない。ただ、好き、なのだ、こうして、音楽する人たちは。
受講生たちを指導しつつその音楽とともに、自分が弾いているかのように身体を揺らし、力を込める4氏の背を見ながら、私はなぜ、「なぜ」などと考えるのだろう、と思うのだった。

 (2018/12/15)