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カデンツァ|フォーレ四重奏団公開マスタークラスで考える|丘山万里子

フォーレ四重奏団公開マスタークラスで考える

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
photos by 藤本史昭/写真提供:トッパンホール

そもそも、私たちはなぜ、西洋音楽を「やる」(享受する)のだろうか。
トッパンホールからの帰路、歩きながらずっと、そして今も考え続けている。
今回に限らず、この問いは、時々、私の中に浮かんできて、いつも答えはない。

前夜、フォーレ四重奏団の第1夜(10/1)を聴き、その興奮で頭が火照ったまま、彼らの公開マスタークラスに出かけた。
1組目はブラームス『チェロ・ソナタ第1番』第1楽章。 K・ハイドリッヒvcとD・モメルツpfがじっと耳を傾ける。
最初の指摘はモメルツからで、「ピアノは伴奏ではない」「チェロは歌声、歌手」。
ハイドリッヒが「テーマ弾いてみて。」チェロが弾くと「いや、ピアノも一緒に。」
「第2主題は?」受講生、顔を見合わせ、笑い、これかな?と、探るようにテーマに続く楽節を弾く。「違うよね。」首を振るハイドリッヒ。
フォーレの二人が、はい、おしまい。ソナタの基本(歴史・楽式)を勉強してきてね、と言って当然のレヴェルだ。
だが、彼らはそれから1時間近く、丁寧にアドヴァイスを続けた。
大事な音は何か。この1音で世界が変わる、その音を見つけ出すこと(ピアノのハーモニーの変化、互いによく聴き反応せよ)。
テンポ。ピアノが促して。ここはチェロが引っ張る。
身体。ピアノに向かう姿勢、座る位置(前傾、近すぎ)、脱力、力の配分。チェロは体幹から音の方向性を生み出すこと。
音色の変化。ピアノは腕、手首の使い方、チェロは弓の重さ、弾力。
私は席に身を沈めたまま呻いた。
音大で何習ってるんだ、いや、何教えてるんだ。初歩の読譜ができていないって、初歩の楽器扱いができていないって、どういうこと?

休憩後の第2組はコンクール優勝、留学中など顔を見知った若手たちだからレヴェルが雲泥の差なのは明らか。ブラームス『ピアノ四重奏第3番』第1楽章。
聴き終えて、モメルツが問いかける。「最初のピアノのCで何を想像する?」
受講生4人、顔を見合わせ黙ったまま。
「ハ短調は生と死。20代のブラームスが抱えていたクララへの叶えられぬ思慕とシューマンの自殺未遂、スコアの表紙には頭にピストルの姿をブラームスが指示。だから極限、すべての音がこの世の最後の音、生死に貫かれていなければならない。」
曲の背景を語るモメルツ。「その衝撃が感じられない。」
曲の入り方(ハイドリッヒらも加わる)。
「Cをよく聴いて。目をつぶって。ここで入る、自ずとここだ、とわかるその地点。やってみよう。」呼吸の合わせ方、1,2,3と数えるのでなく、互いに測り感じるもの。メンバー口々に「ため息なんだ、同じ呼吸で、全員が音の重さ、深さを探って。」
コミュニケーション、ピアノとの関係を指摘するE・ゲルトゼッツァーvn。
「ピアノと弦の3人の間に壁がある、それじゃダメ。コミュニケーションをとって。ピアノから太陽が昇る、その響きを弦は映して。」
ハイドリッヒはやはり奏者の身体論。
「腕じゃない、腰の重さを弓と弦にのせるんだ。肘を自由に(これはピアノも指摘される)。身体は楽器、心身を解放してあげないと。3つの眼は常にピアノに、楽譜じゃない。音色はどう創る?ここはトリルの練習か?君のはお仕事してるみたい。ドイツ語は子音が多い、だから発語のテンションが大事、喉と胸。ピアノは横隔膜の役目。ピアノを自分の身体に取り込んで。」
一番発言の少ないS・フレンブリングvaは中声楽器の難しさを。
「この中で一番ピアノとコンタクト出来るのはヴィオラ。だから一番大変なんだ。外から聴く耳を持たないとダメ。」
ただ彼はずっと奏者に寄り添い、スコアを覗きながら細かな指摘を続けていた。
濃密な1時間半(が、フォーレの指摘への鋭敏な感応・即応は見出せず)。
フォーレのメンバーの音楽創造に至るそれぞれの役割、位置が浮き彫りにもなった。
総論はpf、コミュニケーションはvn、身体表現で自分も動き引っ張るvc、バランスを担うva。適材適所で4者が対峙対話し生み出すアンサンブル。前夜の演奏を思い起こす。

1組と2組のレヴェル差以上に私が考え込んだのは、受講生の反応の「一様さ」「鈍さ」。
フォーレは常に「問いかける」。だが、彼らは必ず「顔を見合わせ、笑みを浮かべ、黙り」、一人がようやく何かボソボソ答える。
なぜ、まず人の顔を見る?自分はこう思う、こう考えていると、どんどん発言しない?何も考えていないのか?それとも言えないのか(言語化できない日本人の特性or日本的「和」)?
アンサンブルのレッスンなど、今までたくさん受けてきたはず。こういう「問い」をされたことがないのか?
その曖昧な、笑みを含んだリアクション。講師たちを見あげる眼差しの「微温さ」。
私がこの種のマスタークラスを初めて見聞したのは1981年第2回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル。ピヒト=アクセンフェルト、カルロ・ゼッキら一流講師陣に必死にくらいついてゆく受講生たちの姿があった。草津より一足早い木曽音楽祭(1975~)の公開レッスンだってそう。みんな熱く前のめり。今回の受講生らにはその熱量が感じられない。今やこんな機会も多々であれば、「別にぃ〜」なのか?

かつて批評紙を出していた頃、最後のテーマは「日本の音楽教育を考える」だった。結局、そこに行き着くのは自明のことで、教育者たち(スター演奏家も含む今や重鎮)にインタビュー、連載した。問題の在所はとっくにわかっていた。
あれから16年。最初に訊いた園田高広氏の指摘はこうだ。
「音大は商売、病気に罹らないブロイラーの大量生産。海外から帰国してポストを得た教師も雑用に追われ、演奏会は行けずCDも聴けず本も読めず、人間性も鋭さも失せてシワシワになってしまう。」
原田幸一郎氏「構造改革が必要だけど。室内楽をやりたくて日本に根付かせようと頑張ったけどうまくいかなかった。場がない、次の仕事につながらない、都度で終わる。日本人のソリスト志向。コンクールとか成果が出るとそっちがメイン、教育は片手間じゃ生徒は育たないし。生徒を囲って他流試合させないのも日本の体質、僕はオープンだけど。教師はオーディションにすべき。日本人にしかできない演奏をアピールできるかどうか。東京クァルテットはソニーと同じ、精巧緻密なアンサンブルを認められただけで、決して強い個性を持っていたからじゃない。」
最後にポツリと言ったのはこの言葉。
「日本に住んで、やっているのは西洋音楽、実際の生活と一致しない違和感は常にある。この年になっても向こうへ行こうかな、と時々思う。」(氏は当時桐朋の学部長に就任したばかり)
もう一度言う。それから16年、何が変わったか?
状況は、ものすごく変わった。どこのホールも若手を、室内楽を育てようといろんな工夫をしている。アンサンブルは音楽の基礎の基礎、室内楽を大切に、くらいの認識は誰もが持っている。
だのに、読譜もできない、曲の背景のイメージも持てない、問われて戸惑う(繰り返すが、フォーレの問いかけは基本的なことで、少なくとも音大のレッスンで当然なされているはずでは)、そんな学生を未だに音大は生産(もはや、大量ではないが)しているわけ?

ふと思う。「日本にいると音楽がのっぺりになっちゃうの。」「向こうの空気を吸っていないとやっぱりダメになるから。」そう言って海外に暮らす、あるいは行ったり来たりする演奏家たちのこと。
ふーん、日本じゃまともな西洋音楽は育たない、できないってことね。
いつまでそんなこと言ってるんだ、と突っ掛かりたくなる自分の一方で、現況に喉元を突かれる。

だけど。そもそも、だ。
フォーレの持つ文化伝統は移植できない。私たちは日本語で「生きている」から、ドイツ語の子音のことなんて勉強しなけりゃ、したって本当には解らない。言語は社会で、関係で、音楽はそれを映したものだから原田氏の言通り「日本の日常との違和感」は生まれて当然。から始まり、冒頭の一文に至ったわけだ。

だけど。ともかく、だ。
あの時、「音楽は教えられない」「音大の構造改革」と言っていた原田氏に、今、何が見えているか、何を考えているかを改めて訊いてみようか。
氏は東京クヮルテットの1vnとして1970年ミュンヘン国際音楽コンクールで優勝、1984年の来日公演評に私は「日本が西洋音楽を学びはじめて以来追い続けた夢の一つの到達点」(伝統という素地なしに異文化のエッセンスを自身の呼吸と化す、が、これを音楽の持つ普遍性で語るのは疑問云々)と書いたが、原田氏はすでに退団(1981)していた。
以降の氏の演奏家としての活躍、内外の教育現場での活動から、今見えるものは。さっそくマンハッタン音楽院に出講中の氏に連絡、帰国後早々に時間を取っていただくことになった。

と、ここまで下書きしたところで、あろうことか私は右手首靭帯損傷でギプス装着2週間、約束は延期となってしまった。
ギプスが取れ、再読思案の末、今回はこのまま入稿、続きは次号(たぶん)とする。
マスタークラス時には迂闊にも気づいていなかったが、2組目の受講生チェリストは今年9月ミュンヘン国際音楽コンクールピアノ3重奏部門に「葵トリオ」で優勝したばかり(室内楽では東京クヮルテット以来48年ぶり、12/14に凱旋公演@ブルーローズ)。トリオはサントリーホール室内楽アカデミー第3期生(2014~16)で、原田氏もこのアカデミー講師。そのアカデミー富山合宿が11/7~12(富山室内楽フェスティバル室内楽セミナー)とのことで、負傷前の私はなんとか覗けないものかと考慮中であった(上述「音楽教育を考える」連載以後続けた各地のマスタークラスやアカデミー見聞はここ数年遠ざかっていたし)。
やれ、残念。

というわけで、本稿、次回に続く。
明治の欧化から150年。東京クヮルテット優勝は100年(戦後25年)、葵トリオはそのほぼ50年後。
テクノロジーの凄まじい進化は私たちの日常を激変させているが、その傍らで私たちが奏で、心を寄せる「私たちの音楽」とは?
その受容パターンとしての追いつき追い越せ高度成長に同期する日本の音楽教育の今とこれからは?
3~7万年前に遡るであろう人類の音楽の始源から眺めれば西洋音楽もまた「瞬景」に過ぎないけれど(ギプスの間にU・N・ハラリ『サピエンス全史』『ホモ・デウス』を通読、人工知能支配下における「芸術が人間の最後の聖域」的発言への懐疑も記されており、それも含め、我が問題意識の矮小に笑ったが、ともかく。まずは目の前の事象から、だ)。

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フォーレ四重奏団公開マスタークラス
10/2@トッパンホール
http://www.toppanhall.com/sph/concert/detail/201810021830.html

(2018/11/15)