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無垢の予兆―八村義夫生誕八十年祭|平岡拓也

無垢の予兆―八村義夫生誕八十年祭

2018年10月28日 トッパンホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目・演奏>
ジェズアルド:マドリガーレ第6集より
    もし私の死がお望みなら
    おお、うるわしき、わが宝である人
    私はただ溜息をつくだけ
  演奏:混声合唱団 空

八村義夫:アウトサイダー第1番「愛の園」 Op. 8-1(1971)
  演奏:混声合唱団 空、成蹊大学混声合唱団、
     男声合唱団クール・ゼフィール、女声合唱団 暁

伊左治直:天外脱走(2018/委嘱新作・初演)
  演奏:混声合唱団 空

ジェズアルド:マドリガーレ第6集より
    私は死ぬ、ああ、私の悲しみゆえに
    あなたを愛するために
  演奏:混声合唱団 空

ブソッティ:イタリアへの5つの断章(1967-68)
  演奏:ヴォクスマーナ(1・3・5曲)
     混声合唱団 空、女声合唱団 暁・成蹊大学混声合唱団 有志(2・4曲)

八村義夫:アウトサイダー第2番 Op. 8-2(1974)
  演奏:混声合唱団 空、成蹊大学混声合唱団、男声合唱団クール・ゼフィール、女声合唱団 暁
  (ソプラノ:後藤萌黄、アルト:和地真優、テノール1:束原裕次郎、テノール2:藤本拓希、バス:竹中遼平)

指揮:西川竜太

 

八村義夫(1938-85)の生誕八十年祭という演奏会企画であるが、単なるアニヴァーサリー的意味合いにとどまらず、日本音楽史において八村という作曲家が如何なる位置付けだったかの再考を促す演奏会だったのではないか。
「再考を促す」などとやや大上段に構えてしまったが、かく言う自分にとっても、昨年の日フィル定期(井上道義指揮、『錯乱の論理』)を聴くまで八村義夫は恥ずかしながら未知の存在だった。それだけに、その作品から受けた衝撃は今だに生々しく記憶している。「錯乱」「論理」というタイトル(花田清輝の同名評論集から採られている)には一見相反する要素が同居しているようだが、その二要素は八村の音楽では矛盾せず連携していた。激烈な音響を用いた錯乱に書き手の情念をみる瞬間はあったが、それはきわめて論理的な道程を経て提示されており、作曲家のいうところの「私(わたくし)音楽」を適切に音化する手腕の見事さに唸ったのである。

序盤から話が逸れた。今回の生誕祭では、西川竜太がかかわる複数の合唱団体がかわるがわる登場。八村の合唱作品は2つの『アウトサイダー』のみであるため、他3人の作曲家による作品が並ぶことになった。ジェズアルド、ブソッティという八村が傾倒した作曲家に加え、委嘱初演となる『天外脱走』を書いた伊左治直は本公演の監修的役割も担い、更にプログラム・ノートには福島康晴・杉山洋一という八村作品に強い思いを寄せる面々が加わっている(この3人は『冬の劇場』メンバーという共通項もある)。北爪道夫による寄稿もあり。演奏会そのものが周到に企画され、研磨された、ひとつの「作品」となっているのである―こうまとめてしまうと、月並みな言い回しになるが。

前後半の冒頭を飾ったジェズアルドのマドリガーレは、彼が生きた時代を考えれば衝撃的な前衛で、その節々に現れる不協和音程や半音階進行、そして雄弁な音画的手法は今聴いても新鮮である。生と死の対比、愛への執着や自暴自棄な叫びなどが紡がれる中で、人間の内なる感情がさらけ出される音楽。

八村のアウトサイダー第1番『愛の園』はジェズアルドに続いて演奏されたが、400年の時を越えた2人の作曲家の音楽が滑らかに結び付けられるような感慨を覚えた。ウィリアム・ブレイク『愛の園』を基調に、やはりブレイク作の3つの詩の断片が織り交ぜられる。混声合唱の分厚いクラスターに圧倒されがちだが、声部の数が減じた時に聴こえてくる抒情的な美とその脆さに、ジェズアルドの暗翳が宿っているではないか。かと思えば『ジェルサレム』の静かな語りをハミングの頂点で無愛想に断ち切る。ハミングやヴォカリーズには語り以上の思念が込められることが常であるが―八村の筆の多面性には背筋が凍る。

前半の締め括りは伊左治直の委嘱新作『天外脱走』。この原口統三の詩をテキストとして作曲するアイディアをかねてより温めていたという(本誌『五線紙のパンセ』への伊左治氏の寄稿も改めてお読みいただきたい)。楽曲の中から断片的ではあるが語りが見え始め、音楽と言葉が乖離せずに美しく陰翳を描いてゆく。その運びは明らかに先ほど演奏された2作の延長線上にあり、前半のプログラムにおいてジェズアルド・八村・伊左治という三部作が立ち現れたことになる。

後半はジェズアルドに続き、シルヴァーノ・ブソッティ(1967-)の『イタリアへの5つの断章』。ブソッティの近所に居を構えるという杉山洋一が解説を寄せているが、これがまず面白い。八村とイタリア音楽の係りに触れたのちブソッティの解説となるが、「テキストの翻訳は理不尽」と作曲家に煙に巻かれ、それでも杉山氏が可能な限りで翻訳を試みた成果が次頁以降に続く。図形楽譜として記され、同性愛詩人ということ以外の共通項を持たないテキストは知覚されることを到底想定していない。奇数番号をヴォクスマーナの6人が担い、偶数番号の2曲は混声合唱で歌われる。鮮烈さでは演劇性濃厚な第4曲が筆頭。ここでは指揮台に椅子と机が運び込まれ、指揮者は机に置かれた番号札を黙々と立ててゆく。その札の番号は個々の合唱団員に対応しており、団員は一人ずつ全く違った行動をとる。自己紹介する者、激しく震え床をのたうち回る者、指揮者に詰め寄って抗議する者―そして、最後にはそれらが一斉に行われ(トゥッティとでも書いてあるのだろうか?)、パゾリーニの言葉が続く。
滅多に全曲続けては演奏されないという本作だが、この特異な編成と音楽に耳を傾け、音化の難しさに愕然とした。

生誕祭の最後は八村の『アウトサイダー第2番』。重厚なクラスターを持つ『第1番』と比べると『第2番』はモンタージュ的に書かれ、発声もヴィブラートを排して歌われる。筆者が感じ入ったのは第2部で、テキスト(太宰治が小館善四郎に宛てた手紙)の中から浮かび上がる言葉そのものの原色の響き―「いっさいの表情の放棄である」「一杯のミルク」等々―には、直前に体験したブソッティとの類似性を感じつつも、その言葉一つ一つが八村の音楽として精緻に収斂される光景に目を見張った。八村は『アウトサイダー第2番』初演の4ヵ月後、冒頭で述べた『錯乱の論理』を初演することになる。その書法の見事さは、共通している。

八村義夫の『アウトサイダー』2篇を軸に、多様な視点からこの作曲家に光を当てた生誕八十年祭であった。ブソッティで楽譜の限界に挑んだヴォクスマーナ、難曲一つ一つに丁寧に向き合い成果を挙げた混声合唱団 空、成蹊大学混声合唱団、男声合唱団クール・ゼフィール、女声合唱団 暁―その演奏に最大限の敬意を表したい。異なる団体を厳格にまとめつつ、団員一人一人の人間性をも表出させる西川竜太の統率力にも瞠目した。
現状、八村作品の演奏機会は決して多いとはいえないが、幸い『アウトサイダー』2篇は成蹊大学混声合唱団の定期において12月再演される。会場の空気を介して体験すべき作品だと思う。

(2018/11/15)