トン・コープマン・プロジェクト2018|平岡拓也
トン・コープマン・プロジェクト2018
トン・コープマン指揮 アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団
2018年9月8日 すみだトリフォニーホール 大ホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ソプラノ:マルタ・ボス
カウンターテノール:マルテン・エンゲルチェズ
テノール:ティルマン・リヒディ
バス:クラウス・メルテンス
合唱:アムステルダム・バロック合唱団
管弦楽:アムステルダム・バロック管弦楽団
指揮・オルガン:トン・コープマン
<曲目>
J. S. バッハ:フーガ ト短調 BWV578「小フーガ」
ミサ曲 ロ短調 BWV232
ロマン派や近現代音楽のアルバムをじっくりと聴いて脳が火照った時、(甚だ恐縮ながら)箸休めとしてバッハの音楽を聴くと、その豊穣で雄弁な音世界に驚かされることがある。西洋音楽の名だたる作曲家にあって、とりわけバッハの音楽は聴く度に新しい表情を提示してくれると感じるのは筆者だけだろうか。勿論他の作曲家でも同様の発見は起こり得るのだが、バッハの音楽が許容するアプローチの幅、シンプルにして深い音楽の魅力は群を抜くように思えるのだ。コープマンとアムステルダム・バロック管の演奏会もその例に漏れず、バッハ音楽の尽きせぬ魅力を味わう機会となった。
コープマンとアムステルダム・バロック管が合唱団を帯同して来日するのは、2000年以来18年ぶりだという。筆者はエラート・レーベルの録音などで彼らの演奏に親しんできたが、実演を聴くのは初となる。
ミサ曲の演奏前に、コープマンが一人オルガン席に現れて「小フーガ」BWV578を弾いた。峻厳なミサ曲の前菜としての扱いだろうか、その演奏は細部に拘泥せず力強く各声部を畳みかけてゆくもの(フーガの構造がやや崩れる場面もあった)。精度は高いとは言えないが、彼の温かみあるバッハ観は既に滲み出ていた。
コープマン単独の答礼を経て合唱と管弦楽が揃い、「ミサ曲 ロ短調」BWV232である。第1曲のキリエから、動的な音楽をコープマンは引き出す。冒頭3曲は主への悲哀に満ちた呼びかけだが、瞬間毎に活き活きと変化する音楽は悲壮感を伴わない。4拍子(地上世界)から3拍子(神の世界、父・子・精霊の三位一体)の音楽へと転じると、この特徴はより強まる。音楽が一段上に登る開放感、輝かしさを舞台上の全演奏者が共有しているのだ。ニケーア信条の第2部でコープマンは曲間を殆ど取らず猛進し(そのためか復活を歌う第16曲でトランペットが飛び出すという些事もあったが)、一気に駆け抜ける。このエネルギーの横溢を聴く限り、コープマンには「円熟」「老成」といった形容詞は相応しくないようだ。フレージングは溌剌とし、時折ぐいと強調されるバス声部の強調は音楽の祝祭感を更に掻き立てる。彼の指揮に応じる管弦楽も、肉感豊かなファゴット、オーボエら木管、そこに軽やかに乗る金管楽器と実に機敏だ。
声楽陣では、合唱団の充実を第一に記したい。ノン・ヴィブラートで歌ってゆくが、その響きは柔らかく温かい。自在に伸縮する彼らのバッハ、国内団体ではあまり耳にすることのできないものではなかろうか。独唱では大ヴェテランのバス、クラウス・メルテンスの滋味豊かな歌唱に強く惹かれた。彼の丁寧な語り口の歌で聴く第17曲は絶品である。
なおミサ曲の演奏前には、「日本列島を相次いで襲った台風と地震の犠牲者に」というコープマンのスピーチが挿入された。コープマンとアムステルダム・バロック管はこの東京公演の前日に大阪、翌日に札幌で同プログラムを演奏する日程が組まれていたが、このうち札幌公演は中止を余儀なくされ、結果的に東京公演が最終公演となってしまった。ミサ曲第4部に込められた万感の祈りを聴きつつ、無力ながら筆者も“Dona nobis pacem.(私たちに平和を)”と願った次第である。
関連評:トン・コープマン指揮 アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団|藤堂清
(2018/10/15)