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ジャン=ギアン・ケラス&フレンズ トラキア・プロジェクト|齋藤俊夫

ジャン=ギアン・ケラス&フレンズ トラキア・プロジェクト
~クラシックとギリシャ・ペルシャ伝統音楽の架け橋~

2018年9月23日 三鷹市芸術文化センター風のホール
Reviewed by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
チェロ:ジャン=ギアン・ケラス
ザルブ/ダフ:ケイヴァン・シェミラーニ
ザルブ/ダフ:ビヤン・シェミラーニ
リラ:ソクラティス・シノプロス
(楽器については後注参照)

<曲目>
ロス・ダリー(1952-):『カルシラマ』(全員)
ソクラティス・シノプロス(1974-):『ニハーヴェント・セマーイー』(全員)
アンリ・デュティユー(1919-2013):『ストローフ』(ケラス)
即興演奏:シェミラーニ兄弟
モハンマド・レザー・ロトフィ(1947-2014):『ホマユン』(全員)
ゾルタン・コダーイ(1882-1967):無伴奏チェロ・ソナタより第2楽章(ケラス)
打楽器とリラの演奏:(シェミラーニ兄弟&シノプロス)
フランク・ルリシュ(1965-):『ハムセ』(全員)
即興演奏:シェミラーニ兄弟
作者不詳:『もしも私が鳥だったなら』(シノプロス&ケラス)
(トラキアの伝統音楽)『日曜日の朝』(全員)
(全員によるアンコール)
(バルカン伝承曲)『ハサピコ』
(トラキア伝統音楽)『マンディトラス』

 

ギリシア、トルコ、ブルガリアにまたがる「トラキア」文化(今回はさらにペルシャ文化も含まれていた)の音楽の担い手と、現代クラシックの世界を背負って立つチェリスト・ジャン=ギアン・ケラスとの共演。眉に唾をつける人も少なからずいるとは知りつつも、筆者としては、題目的な「異文化交流」以上のものが聴けるに違いないと期待し、そしてそれは見事に的中した。

なにより、生演奏では初めて聴くソクラティス・シノプロスのリラの響きにたまらなく心打たれた。音は小さいものの、いや、むしろ音がかそけきがゆえに心に強く訴えてくる。切々と、物悲しく、喉から絞り出す声のようなその音色は、近代以降の機械文明・消費文明では抑圧され抹消されてきた、生活の中の身体性と直に結びついている。ノスタルジアとオリエンタリズムとの批判を受けることを承知の上でのクリシェを使えば、「我々が忘れていた音色」なのだ。

シェミラーニ兄弟の、荒々しさと優しさが同居し、そしてなにより「自由な」ザルブとダフの演奏にも感嘆した。これもまた我々が忘れていた身体性を呼び覚まし、いかに我々の感性が「型にはまった」ものであるかを教えてくれるものであった。前半と後半の2回のザルブ・ダフのみの即興演奏を聴いて、「正しい」音楽という観念がいかに窮屈で貧しいものであるかを心底知らしめられた。指で、掌で、拳で、膜部分を、枠を、胴を、叩き、はじき、こする。そこにはなんの「型」もない。

してみると、ケラスのチェロに感じた違和感についても正直に述べなくてはならないだろう。リラと比べて、チェロは近代的であり、機械的であり、文明的な楽器なのだ。リラの訥弁に対してチェロは饒舌であり、リラの生活の中の身体性、言わば自然な裸のそれに対して、チェロはボディビルダーのごとく、見事にできあがってはいるが、それゆえに自然から離れた肉体なのだ。
この、チェロの「近代性」を激しく感じ、今回の演奏会で最も違和感を持ったのはデュティユー作品である。雄弁だが、観念的で、生活と身体を忘れ、室内に閉じこもった音楽世界。おそらく他の場、他の演奏会で聴けばとても美しく感じたであろうこの作品がなんとも「不自由」で「堅苦しく」感じてしまったのである。

だが、シノプロスのリラ、シェミラーニ兄弟のザルブ・ダフと、ケラスのチェロが奏でる音楽が全く異なるものであって協和していなかったということでもない。「音楽に国境はない」という言葉は半分は偽であるが半分は真なのであり、また国境があってもそれを越えることができるのが人間とその営みなのである。
ケラスとシノプロスが交互に主旋律を奏で、やがて2人が同時に演奏する『カルシラマ』冒頭から、ケラスがいかにシノプロスのリラの音と自分のチェロの音を落差なく合わせるか配慮し、そしてそのことを楽しんでいるのかがよくわかった。
前半の『ニハーヴェント・セマーイー』『ホマユン』のリラの哀切な語りに対しては先述の通りチェロは多弁すぎたが、後半の『ハムセ』の舞曲的な華やかな音楽ではそのような違和感は全く感じられなかった。
プログラム最後の続けて演奏された2曲『もしも私が鳥だったなら』と『日曜日の朝』、前者でのチェロの低音ドローンにリラの高音の旋律がのる所など、涙なしには聴けないほどの美しさであり、それはこの2人の間の友情が可能にした音楽でもあっただろう。そこからザルブ・ダフが入ってきて、皆で喜びの輪舞である『日曜日の朝』(プログラム・ノートによるとこれは婚礼の歌らしい)を踊り始めたとき、チェロとリラ、ザルブ、ダフは「国籍など不問」の楽しさを皆で分かち合い、聴衆も皆その輪の中に入っていった。
盛大な拍手の中からのアンコール2曲、『ハサピコ』は小悪魔的につま先立ちに踊るように、『マンディトラス』は誇り高き歌声から7拍子の舞曲を、4人が見事に奏できって、さらに盛大な拍手と歓声の中演奏会は終わった。筆者には初体験の音楽であり、また作品の多くも近現代のものでありながら、何故か懐かしく感じられる、忘れがたい体験となった。

(後注)リラ、ザルブ、ダフについてはプログラム・ノートの小幡一誠氏が簡にして要を得た説明をされているので、そこから引用させていただく。
リラ:「トルコのビザンチン帝国に起源を持ち、ギリシャのクレタ島で伝統楽器として今日まで命脈を保ってきたリラは、洋梨型の胴体に3本のネックを備え、それを膝に立てて弾く楽器だ。弦を指の腹で押さえず、脇から爪を当てることによって音程を変えるのも奏法上の大きな特徴である」
ザルブ:「ペルシャの伝統楽器だが、この名前自体はアラビア語だ」「形状は酒杯型で、その開口部分にヤギなどの皮が張られ、胴体はクルミなどの木で作られることが多い」
ダフ:「丸い木枠の片面のみに皮が張られ、木枠の内側には多数の金属製の輪が取りつけられている。皮を叩くと連動して金属の輪が鳴るのはタンバリンと同じ理屈であり、上下に揺らして輪の金属音のみを鳴らす奏法も同様だ」

(2018/10/15)