ベトナム国立交響楽団2018|丘山万里子
2018年7月20日 サントリーホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:サントリーホール
<演奏>
本名徹次 指揮/ベトナム国立交響楽団
チェロ独奏/宮田大
<曲目>
チョン・バン:交響詩「幸せを私たちに運んでくれた人」
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104
〜〜〜
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」
(アンコール)
ベトナム民謡:糸通し
日越外交関係樹立45周年記念としてベトナム国立交響楽団が5年ぶりに来日、大阪・東京公演を行った。
1959年創立のこのオーケストラは、ベトナム戦争時には分断状況(1954年南北分断)であったが1984年に現在の組織となった。1887年からのフランス植民地時代に持ち込まれた西洋音楽摂取の一つの形がそこにはある。
おしなべてアジアのオーケストラを我々より数十年遅れだの、かつての日本の演奏を聴くようだ、だのの言辞で済ませるのはいかにも浅薄だ、と常日頃私は思っている。
アジアオーケストラウィークなどで聴く度にいつも感じるのはそれぞれの国独特の味で、それは何年遅れ、といった尺度からは決して測れないもの。では、日本のオケの味は、というのが毎回考えることなのだ。
私はこのオーケストラは初めて。
まず、ベトナムの作曲家チョン・バン『交響詩「幸せを私たちに運んでくれた人」』。ベトナム建国の父ホー・チミンのことで、歌曲『ホー主席を讃える』(ヴァン・カオ作)を主題とした作品。民族的旋律が滔々と流れるかと思うと急に元気いっぱいのお祭り風になり、というのを交互に組み合わせた素朴な音楽で、あとに続く2曲を聴くに及び、なるほどこれがベトナムの味なのだな、と振り返ることになった。
つまり、弦は時々(であるが)うっとりするような優しい響きを奏でる。特に弱奏。が、管はなんとも不可思議な音程で、響きも地声のよう。日本のお囃子でピイヒャラ鳴る、ああいう音に近い。打はあちこちドンシャン多用されるゆえ(好きらしい)、元気モリモリ感が沸き立つ。終句、ベートーヴェン的トゥッティで、も一つ来るぞ、が鳴らずパサっとおしまい、肩透かしを食う。嵩にかかって攻め込まない美学と見た。
ドヴォルザーク、宮田のチェロは素晴らしかった。
はっきりしていたのは、彼の音楽とオケの音楽とが全然違うものだったということ。そう言うと身も蓋もないようだが、そうではない。
どう違うか。要するにチェロの歌にオケが絡む、その響きの違いと呼吸の段差。オケの響きは上述した通り、ドヴォルザークだからとガラッと変化するわけでない。例えば第2楽章のチェロと木管との会話。切々たるチェロの甘やか、かつ情感の襞に分け入る響きの繊細に、微妙に甲高い雑穀米のような舌触りの音と息が入ってくるのだ。
この感触をどう表現したら良いか、ベトナム訪問時(ホーチミンを中心にメコンデルタを巡った)に出会ったあれこれを思い浮かべてみたが、茶褐色のメコンに似る、つまり土が溶けた、透明度は全くないが生命感にあふれ、水面にプカプカ大きな水草が浮いてゆっくりゆっくり流れてゆく、その感じ、だろうか。親子で最多5人乗りのバイク、群れなすその雑然噪音、露天の賑わい、水上マーケットの物売りの掛け声などなど、そのむうっと立ち昇る空気、匂い、肌触り、響きの混淆、とも。ベトナム語の六声調「a à ả ã á ạ」のニュアンスも無論そこに内包され(それが摩訶不思議なピッチを生む?)、それら渾然の響きが彼らの音なのだ。
であるなら、宮田の響きはなんだろう。彼の演奏を聴きながら胸打たれる私の感受に内在するものは。
さらに、これほど噛み合わない協奏を、宮田は全身全霊で全うし、貫き、オケもまた真摯に応えているのであり、本名はその両者を泰然と見渡している風であった。どちらをどちらに、とか言うのでなく。
私の中に、第2楽章あたりまで「おいおい」という気持ちがあったのは事実。が、聴き続けるうち、自分の中の何かに大きく揺さぶりをかけられ、「いいものを聴かせてもらった」に変化、最後は両者に大きな拍手を送ることとなった。
二つの異質の遭遇が一つに溶ける、などという予定調和の話でない。この未聴の協奏がなんであったか。散々考えたが、インド古代の思惟方法「〜でなく〜でなく」と、事物の本質を否定で積み上げて語るあれ(弁証法でない思惟)であるな、いうことにして頭を収めた。異質を異質のまま絡み合わせっぱなし(組み合わせでない)のゆるやかな開放系フォーム。
『新世界より』の奮闘を含め、彼らとともに17年を歩んできた音楽監督兼首席指揮者である本名徹次には心から敬意を表したい。
彼らの演奏を「懐かしい」「忘れていた何かを思い出させる」的な了解に着地させるのは、どこか先進意識が臭う。だが、本名のまとめぶりにはそのような上から目線はなく、そのことが何より清々しいものであった。
日本の洋楽受容史(音楽取調掛設置1879年)を振り返りつつの学び多き良き一夜。
(2018/8/15)