東京現音計画#10 コンポーザーズセレクション5:山根明季子|齋藤俊夫
東京現音計画#10 コンポーザーズセレクション5:山根明季子
2018年7月11日 杉並公会堂小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 松蔭浩之/写真提供:東京現音計画事務局
<出演>
東京現音計画
有馬純寿(エレクトロニクス)、大石将紀(サクソフォン)、
神田佳子(打楽器)、黒田亜樹(ピアノ)、橋本晋哉(チューバ)
<曲目・演奏>
プログラム監修:山根明季子
山根明季子:『状態No.1』(2018年、委嘱・世界初演)
ヨハネス・クライドラー:『スロット・マシーンズ』(2009年、日本初演)
ピアノ、エレクトロニクス
ヤコブTV:『ボディ・オブ・ユア・ドリームス』(2002年)
サクソフォン、エレクトロニクス
山根明季子:『ポッピキューポッパキー』(2012年)
打楽器
ヨハネス・クライドラー(山根明季子編):『チャート・ミュージック』(2009/2018年、世界初演)
サクソフォン、チューバ、打楽器、ピアノ、エレクトロニクス
山根明季子:『水玉コレクションNo.19』(2018年、委嘱・世界初演)
サクソフォン、チューバ、エレクトロニクス
山根明季子:『アミューズメント』(2018年、委嘱・世界初演)
サクソフォン、チューバ、打楽器、ピアノ、エレクトロニクス
ヨハネス・クライドラー:『スタイル1k』(2018年、山根明季子委嘱・世界初演)
サクソフォン、チューバ、打楽器、ピアノ、エレクトロニクス
現代音楽の最前線で活躍する演奏家集団「東京現音計画」、今回の「コンポーザーズセレクション5」は、「ポップな毒性」をテーマとし、近年ますます注目を集めている作曲家・山根明季子が自らのコンセプトに基づいてプログラムを監修した。この演奏会、一筋縄ではいかないことは予想していたものの、それ以上に考えさせられるものであった。
まず演奏会で取り上げられた作品全体を総括すると、その音楽的、あるいは音的な「自律性」は恐ろしく低かった。つまり、聴こえる音(楽)を聴いて作品を鑑賞するだけでは楽しめず、かつ、聴いているだけでは「作品の意味」も理解不能であった。聴こえる音(楽)が作品の意味を成すのではなく、作品を取り巻く音楽外の文脈を音(楽)と共に考えることによって作品の意味が判明する、そういう作品群であったのである。音楽のための音楽(芸術のための芸術)という音楽観への疑問と批判、それは他ならぬ音楽のためにも重要な視点だと筆者も考える。だが、今回の作品群で筆者が読解できた「作品の意味」は浅かったと言わざるを得ない。
クライドラー『チャート・ミュージック』、株価のチャート、イラクでの死者数のグラフ、ドイツの武器輸出額のグラフなどを素材として、市販のアレンジソフトを使用して能天気なポピュラー音楽様式の曲を作ったものである。筆者は、現代においては市場経済・資本主義社会の動き、戦争や内戦における死とは関係なく陽気かつ自動的に音楽が作られ続けており、この作品もその社会的な素材から能天気な音楽を機械的に作り出したものである、というアイロニカルな社会批判としてこの作品を捉えた。だが、「音楽とは、その程度のものでよいのだろうか」との思いも同時にこみ上げてきた。
また、クライドラーの『スロット・マシーンズ』『スタイル1k』の2作品は、筆者には全く掴みどころがわからなかったと正直に言うしかない。単純な電子音と、人の声か何かを録音して変調させたらしき噪音が再生されるのに合わせて、あるいは合わせないでピアノを弾く前者、ポピュラー音楽の断片を毎回アレンジしつつ反復し続ける後者、どちらもその音楽的、あるいは美学的、そして社会的意図がわからなかった。もしこれらが自律的な音楽であるとすれば大変に退屈な音楽であり、自律的でない、音楽外の文脈と共に考えるべき作品だとすれば、筆者の読解が足りないか、作曲者の目標が誤っているかのどちらかである。
順番は前後するが、ヤコブTV『ボディ・オブ・ユア・ドリームス』、ダイエットマシーンのテレビショッピングの台詞の録音を素材にしてサクソフォンとアンサンブルさせた作品である。過剰な消費活動の中に潜む「音楽」を見つけ出して再構成するという、やはり社会に対するアイロニカルで批判的な視点が見えるが、ここでも「その程度のものでよいのだろうか」と思わざるを得なかった。
これらの、自律的でない、文脈と共に理解しなければ意味を持てない作品群が、例えばノーノの作品のような、音楽として全く自律的でありながら強烈な批判性を持つ作品と、芸術として比肩しうるかと言われれば、否と応えるしかない。
さらに、音楽の自律性に対する疑問、文脈(今回は消費社会という文脈であることは監修者のプログラムノーツに明らかであった)の中で理解すべき音楽という視点が、監修者の山根の中でどれだけ現代の音楽と現代の社会への批判を担っていたかということも疑問である。山根作品を聴き、考える限り、この「批判」という厳しい視線より、「消費社会を楽しむ」という視線を筆者は感じたのである。
以下は山根作品。
開演前から開演後十数分まで続いた『状態No.1』、パチンコとスロットを5台並べて遊ぶ(だけ)というこのインスタレーション的作品、実際のパチスロ店の大量の金の収奪に伴うあの轟音抜きの、ただパチスロの音を聴くだけという行為に音楽的・社会的批判は感じられない。むしろ、パチスロの音の「楽しさ」を見出そうとする姿勢を筆者は感じた。
『ポッピキューポッパキー』、100円均一ショップで買えるプラスチック製のバケツ、カゴ、タッパー、植木鉢などを打楽器として奇妙な「行進曲」を演奏する。所々アヒルの笛(?)や幼児の靴のような「キュッ」という足踏みの音などが入り混沌とするが、基本的に普通の打楽器独奏曲であった。プログラム・ノーツによると、統制や管理に使用されている行進曲を、弱く、幼く、未熟な玩具のようなよちよち踏みしめる音楽として作曲することに意図があったらしいが、聴いてみてその音楽にどれだけの音楽的・社会的「意味」があったのか疑問である。
『水玉コレクションNo.19』はこれまでの同シリーズにあった一音一音が異化しあう「ポップな毒性」が感じられず、「どうした山根」と思わざるを得なかった。
『アミューズメント』、ミラーボールによる照明が回転する中、福引で一等賞を当てた時のようなメデタイ断片がそこここで発せられる。ぬいぐるみがキュウキュウと鳴いたり、チューバに口を当てたまま「こんにちは!」と声を挙げたりと妙な仕掛けが入って陽気なようで、突然警報のような物騒な音がかき鳴らされることもあり、ポップであり、毒もある山根ワールドが展開された。最後にチューバが「バイバイ」と言って終わるまで、筆者にもこの作品は素朴に楽しめたのだが、しかし「ポップな毒性」が楽しいものであるがゆえに、「消費社会と戯れる」その姿勢に疑問を持たざるを得なかった。
あまりに音楽そして消費社会に対して楽天的すぎる、今回の演奏会を通して感じたものをさらに考えた結論はこれにつきる。音楽と消費社会というテーマでありながら、クライドラーやヤコブTVのアイロニーは浅く、山根の「毒」は「批判」というより「遊び」であった。絶望的な消費社会の中で、音楽が持てる意味は、そして力はこの程度のものとは筆者は考えない。だが、消費社会と拮抗する音楽の意味と力を得るためには、楽天主義ではなく、「強靭な悲観主義」をこそ必要とする。それが今回決定的に欠けていたものであろう。
会場はほぼ満員で拍手も盛大であったが、筆者は「これで良いのだろうか」と考え続け、会場と同調することはできなかった。そして、筆者の隣に座った初老の男性は最後まで拍手をせずに帰っていったことを最後に記しておきたい。
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(2018/8/15)