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佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ 2018 『魔弾の射手』|小石かつら

佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ 2018 『魔弾の射手』全3幕
(ドイツ語上演・日本語字幕付)

2018年7月22日 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール
Reviewed by 小石かつら(Katsura Koishi)
Photos by 飯島隆/写真提供:兵庫県立芸術文化センター 

<スタッフ>
指揮:佐渡 裕
演出:ミヒャエル・テンメ
装置・衣装:フリードリヒ・デパルム
照明・映像:ミヒャエル・グルントナー

合唱指揮:矢澤 定明
演出助手:飯塚 励生
衣装助手:ハンナ・フォラート
衣装コーディネーター:小栗 菜代子
原語コーチ:ハイケ・ジルバーマン
音楽コーチ:森島 英子
副指揮:大川 修司、瀬山 智博、松川 智哉
コレペティトゥア:高橋 健介、巻島 佐絵子、關口 康祐、中村 圭介
プロデューサー:小栗 哲家
舞台監督:大洞 邦裕

<キャスト>
オットカー侯爵:小森 輝彦
クーノー:ベルント・ホフマン
アガーテ:ジェシカ・ミューアヘッド
エンヒェン:小林 沙羅
カスパー:髙田 智宏
マックス:トルステン・ケール
隠者:妻屋 秀和
キリアン:清水 徹太郎
ザミエル:ペーター・ゲスナー
花嫁の介添娘:楠永 陽子、黒田 恵美、長町 香里、森井 美貴

管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団
合 唱:ひょうごプロデュースオペラ合唱団

 

プログラムノートに、演出家のミヒャエル・テンメは次のように記している。
「このオペラの多くの上演では森をはじめとする自然が主役だとされ、自然というのは一般的に完全な世界だと認識されます。しかし今回私は、人間のなかの“自然”、つまり不気味なもの、説明不能なもの、神秘的なものに対して人間が感じる不安こそを主役に据えます。そこは決して完全な世界ではないのです。」

この解釈によって浮き彫りになったのは、エンヒェンの存在である。「不安」という視点で作品全体を考えると、第一幕の村の場面も、第二幕後半の狼谷も、第三幕の射撃大会も、マックスが抱く「不安」が軸になる。先祖の肖像が落ちたり、花嫁の冠が死者の冠であったり、白い鳩が撃たれる夢を見たりするのは、アガーテが抱く「不安」だ。人間の内にある“自然”が不安であり、それが不完全であるというのは、なるほど納得の解釈である。

ところが、いつも明るく、アガーテの不安を慰め、励まし続けるエンヒェンには、「不安」が無いのだ。さらに言えば、不安を感じることを拒否している存在なのかもしれない。このエンヒェンの姿は、第一幕における集団としての農民にもあてはまるだろうし、第三幕における秩序としての共同体にもあてはまるだろう。

心に不安を抱く人間が「相談する相手」として悪魔と隠者が存在する、のだとすれば、今回、両者が同じ衣装を着て登場したことも、わかるかもしれない。悪魔も隠者も、黒い寸胴のワンピースを腰紐で結ぶスタイル。そして両者とも、森に住む。森は、自然が司る場であり、今回の場合、人間の不安な心を象徴する場だ。

しかしアガーテの相談相手はエンヒェンだ。エンヒェンは森に住まず、共同体に居る。つまり、「相談相手」でありながら“自然”を持たず、不安な心を共有しないのだ。エンヒェンの衣装が途中で変わるのも意味ありげだ。第二幕では茶系の衣装だったのが、第三幕では黒の上着とグレーのスカートになる。隠者も(悪魔と同じ)黒を纏う今回の衣装、エンヒェンも黒、なのである。

それでは、その「森」はどのように描写されたのか。
開始早々、時代背景である30年戦争の説明が、スクリーン全面に映画のエンディングのように白い文字で流された。なんと陳腐な、と感じた。しかし、森を「自然としての場」として設定するのではなく、「戦争で荒廃した場、人間の手の入った場」として設定するならば、これは必要なことだった。幕を下ろしての場面転換が、それぞれの幕の最中にも行われ、上げたり下げたりとバタバタしたにもかかわらず、全幕を貫いて、三角形の鋭角の角が舞台中央、客席に向かって突き出す舞台が存在し続けた。アガーテの部屋は三角形の舞台の上に置かれ、狼谷は三角形の舞台奥部分が上がることで、舞台前の鋭角は谷底となった。そして、その三角形の舞台の周囲は焼け焦げた木々がそびえ、荒廃した森を形成していた。森は、人間の不安な心の象徴として、しかも戦後の荒野として、楔を打たれた形で描かれたのである。

同時期に東京で上演されたコンヴィチュニー演出の東京二期会公演を意識してかせずにか、兵庫は「オーソドックスで読み替え無し」であることをホームページやチラシ等で強調していた。しかし、森の存在の設定だけでなく、観客の心を突き刺し続ける舞台、悪魔たちが踊る狼谷、ぽっかり浮かぶ月、最後の大団円で隠者がマックスを連れて去る、など、方々に深い仕掛けがちりばめられたものだった。そう、マックスは一年間の猶予を得てハッピー、なはずなのだが、隠者と共に、不安の世界へと二人で去っていったのだ。

表面的にはオーソドックスと見せながら、しんとした深さを湛えた『魔弾の射手』。少し残念だったのは、オーケストラと日本人歌手のドイツ語セリフ。どちらも、全体はとてもテンポよく進み、ここちよかった。ただ、オーケストラはひとつひとつの和声の移り変わりとしての進行が少し粗く、一音の、一フレーズの繊細さ、という点で惜しかった。ドイツ語セリフも同様。音声としては完璧に近いが、一語一語の持つ意味、その一語の持つ力、そこから発せられる緊迫感や不安。それらへの追求がもっとあれば、オペラ全体としての「不安」を醸し出せただろうに、と感じた。

そうはいっても。
西宮の芸文センター。地元商店街も阪急電車も『魔弾の射手』だらけ。「『魔弾の射手』スタンプ」を集めて景品をもらうと話している人がいるそばで、楽器を持った団員が歩き、歌手もうろうろしている。舞台の人たちはカーテンコールで本当ににこやかで、ロビーではオーケストラ団員が西日本豪雨災害の募金活動をしている。「その辺」で「オペラの話」ができるのは、西宮の特徴だ。共同体としてのオペラへの親近感は、とてつもなく大きい。

関連評:東京二期会オペラ劇場 ウェーバー:オペラ《魔弾の射手》|藤堂清

 (2018/8/15)