小人閑居為不善日記|炎上と廃墟と忘却の夏|noirse

炎上と廃墟と忘却の夏

text by noirse

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ロックバンド、RADWIMPSの新曲〈HINOMARU〉が、軍歌を連想させるとしてネットで炎上した。歌詞を書いたボーカル、野田洋次郎が謝罪するも、火の粉はしばらくくすぶり続けていた。野田は幼少期をアメリカで過ごしており、それが歌詞に繋がったのではなどと類推する向きもあるようだ。少し前にも、ゆずや椎名林檎らも「愛国ソング」を歌ったと批判されていている。表現と政治。昨今この手の話題には事欠かない。

だがこのような騒動、今に始まったことではない。たとえば1970年の大阪万博では、ご存知の通り丹下健三や磯崎新、岡本太郎、粟津潔や横尾忠則、小松左京など、錚々たるメンバーが集結、音楽家では武満徹、高橋悠治、湯浅譲二、黛敏郎、三善晃らが作品を提供し、大いに注目を浴びたが、もちろん批判もされた。「反博」と呼ばれた反対運動では、批評家の針生一郎や多木浩二らによる鋭い追求、唐十郎やゼロ次元らによる過激なパフォーマンスが盛んに行われた。

だが現在、彼ら万博参加者の仕事は高く評価されている。批判する者はほとんどいない。言うまでもなく、元来音楽や美術、建築というものは、国家や権力との、時には幸福な、時には緊張感ある関係の中で発展してきた。それを否定してしまっては、歴史自体が成り立たない。ポップスやロックは大衆文化だが、だから反権力であるべきと決めつけるのも一方的だ。

どんなに個人的な作品でさえ、どこかしらに政治性は含まれており、不可分にはできない。レニ・リーフェンシュタールのように、ナチスに協力しながらも、それはそれとして作品が高く評価されている者もいる(もちろん批判もされている)。

国の事業に参加したからといって全否定するというのは極端で、そこで何を残せたかを見極め、個々に評価していくのが適切だろう。もちろん作品がお粗末であれば批判されても仕方ないし、RADWIMPSの場合も、不用意だった感は否めない。ただそれだけの話であって、もっと注視すべきケースは他にあるはずだ。たとえばRADWIMPSも関わった、2年前の夏の、ある作品がそうだ。

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2年前の夏。《君の名は。》の大ヒットをまだ覚えているだろう。監督・新海誠はRADWIMPSのファンで、ラブコールに応え、彼らは新曲を書き下ろした。彼らの楽曲は、マニア向けだった新海作品にメジャーの味付けを加えた。

美少女ゲームのメーカー出身で、個人制作のアニメからキャリアをスタートさせた新海は、もともとオタク層に強く支持されてきた監督だ。《君の名は。》でそれまでの作風から脱却し、広範な人気を獲得した傍ら、かつてのファンの一部からは不満の声が上がる結果にもなった。理由は多々あるが、今回注目したいのは、そこで描かれた東京の姿だ。

長野県の建設会社社長の子として育った新海は、大学進学と共に上京し、そのまま東京を活動の拠点としている。そのためか作品の舞台に東京、それも新宿が設定されることが多い。

《君の名は。》は東日本大震災を背景としており、悲劇の対比として、新宿の風景が肯定的に扱われている。主人公は建設会社の就職活動に力を入れており、彼がいずれ東京の発展に尽くしていくだろうことを、映画は示唆している。若い主人公と、東京のこれからの姿が、希望として描かれるわけだ。

社会を生き抜くためには、純粋さや夢を諦め、捨てなくてはいけない。それまでの新海作品は、そうした喪失感をノスタルジックに、オタク的な意匠を絡めて作られてきた。虚構の世界に夢中になっても、そこにずっと安住することはできない。そうした思いに共感してきたかつてのファンが、社会に積極的に参与しようとする主人公に、すんなり同調できるだろうか。わたしは新海のよい観客ではないが、停滞化する日本の経済状態を知りながら《君の名は。》のポジティブな東京像を見てしまうと、この映画の中に自分の居場所はないなと感じてしまう。

若き新海は、父親の仕事に背を向け、虚構の世界へ身を投じた。だが成功を手にし、家庭もできて、変化もあったのだろう。今では東京の輝かしい未来をあっけらかんと提示してみせる(ここ数年は大成建設のCMも手掛けている)。

ベタに解釈すれば、これは古典的なテーマ、「父との和解」だろう。父親や権威との問題に関わらず、自分自身の不満や苦悩を作品に投じることで傑作を生む、そういうタイプの表現者は一定数いる。だが成功を収め、苦悩が解消すると、作品のクオリティが途端に落ちたり、大きく方向性が変わってしまうことも多い。いきおい、ファンから批判されることもしばしばだ。

だが作り手からすれば、作品を通して自分の悩みを解消し、その上新たな客層にアピールできるのであれば、それに越したことはあるまい。成長と呼んでもいい。昔からのファンは受け入れにくいかもしれないが、本来それは喜ばしいことでもある。〈HINOMARU〉も、やり方に問題はあったかもしれないが、やや特殊な境遇のもと育った野田洋次郎にとって、書かなくてはいけない曲だったのかもしれない。

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もうひとつ、2年前の夏に話題になった映画といえば、《シン・ゴジラ》を忘れてはいけない。ゴジラにより東京は焦土の地と化すが、政府や自衛隊、「巨災対」と呼ばれるプロフェッショナル集団により、怪獣は凍りつき、活動を停止する。そのせいか公開当時、《シン・ゴジラ》は政府や自衛隊を賛美する、右翼的なコンテンツだとして批判の声が上がった。だがもともと怪獣映画には政府や自衛隊の存在は欠かせないもので、これはジャンルの特性と言うべきだ。問題はそこではない。

注視すべきは、焦土と化した東京のその後だ。《シン・ゴジラ》は、復興への希望を、若い世代に託して終わる。《君の名は。》もそうだが、震災を背景にしているため、このように着地させるのが無難なのは理解できる。だが《シン・ゴジラ》監督のひとり、庵野秀明のそれまでの作品を知っていれば、どうしても引っかかってしまう。

庵野秀明といえば「エヴァ」だ。《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》(1997)では、世界は最後に廃墟と化し、復興など微塵も感じさせず幕を閉じる。やはり散々議論の的となったが、「世界の終わり」という、これまた昔からあるロマン主義そのままでもある。当時の庵野にとって社会は滅ぶべき対象であり、復興など歯牙にもかからないものだった。そうした心性に、当時の観客は共感したわけだ。

だが庵野も年を経て、エヴァの新シリーズ(「新ヱヴァ」)では世紀末的なトーンは緩和され、《シン・ゴジラ》も希望に満ちたラストを迎える。これも一種の、社会との和解と考えられよう。

このように、以上の変化は、個々の作家の成長として片付けることもできる。だがこれらの作品の成功を見ると、観客がそれを望んでいたようにも見えないだろうか。

たとえば庵野と交流もあるアニメ監督、押井守の《機動警察パトレイバー the Movie》(1989)や《機動警察パトレイバー 2 the Movie》(1993)を見ると、東京という街への嫌悪、呪詛が込められているのが分かる。学生運動末期に青春時代を迎えた「遅れてきた世代」押井は、80年代のバブルに背を向け、破壊や廃墟に強いシンパシーを抱いていた。〈パトレイバー〉に復興や希望という言葉は出てこない。初期の庵野の作風は、立場は違えど、その延長線上にあったはずだ。

だが時代は変わった。たとえば先日最終回を迎えた深夜アニメ《ひそねとまそたん》だ。庵野と共に《シン・ゴジラ》監督を務めた樋口真嗣の新作で、軍用機に擬態するドラゴンと、そのパイロットを担う女性自衛隊員たちを、デフォルメされた可愛らしいデザインで描いた。押井の《パトレイバー》シリーズも警察官を主人公としていたが、組織のはぐれ者として扱っており、権力とは距離を取っていた。押井版《パトレイバー》と、自衛隊員を可愛く描いたアニメ。好悪はともかく、誰もが隔世の感を抱くはずだ。

もっと極端な例もある。つい先日、原作者のSNS上での差別発言が問題となり、制作中止になったアニメが話題になった。だがもともとその作品自体に差別的なニュアンスが含まれており、そもそも企画した制作会社側の責任を問う声も上がっていた。

これはRADWIMPSと同じケースと見るべきだろう。どちらの作品も、物議をかもすのは分かっていたはずだ。だが会社はGOサインを出している。多少のリスクはあっても、「売れる」と判断したのだろう。これは作り手のみならず、会社や市場の問題でもあるのだ。

今の市場は、国家や権力寄りの作品であっても問題ないと判断できる、もしくはそう思わせてしまう状態にあるのだろう。作り手や制作会社に責任がないとは言わないが、受け止める観客自体のあり方をも問うべきではないのか。

正直なところRADWIMPSのようなケースは、分かりやすいだけに、個人的にはほとんど興味がない。注意すべきは、気付かないうちに変化している我々自身なのだ。新海や庵野はおそらく、その変化を俊敏に察知できるアンテナを持つ、特別な作家なのだろう。

新海の重要な主題のひとつに、「忘却」がある。人間は常に、何かを忘れて生きていく。ちょっと目立った炎上案件にいちいち飛びつくのもいい。だがその前に、自分自身が何かを忘れていないか、何かを見落としてはいないのか、そこにこそ気を配るべきだと、《君の名は。》は囁いているようにも思える。

(2018/7/15)

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noirse
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