第23回宮崎国際音楽祭|能登原由美
♪演奏会〔1〕「夢のあとさき〜フランス音楽のエスプリ」
2018年5月4日 メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)演劇ホール
♪演奏会〔2〕「アジアのヴィルトゥオーソ〜達人たちの響演」
2018年5月5日 メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)コンサートホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by team Miura/写真提供:宮崎国際音楽祭
演奏会〔1〕「夢のあとさき〜フランス音楽のエスプリ」
<出演>
ドン=スク・カン:ヴァイオリン
三浦文彰:ヴァイオリン
須田祥子:ヴィオラ
趙静:チェロ
児玉桃:ピアノ
<曲目>
ミヨー:2つのヴァイオリンのための二重奏曲 作品258(ドン=スク・カン、三浦文彰)
ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調(ドン=スク・カン、児玉桃)
ラヴェル:ピアノ三重奏曲 イ短調(三浦文彰、趙静、児玉桃)
フォーレ:ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 作品15(ドン=スク・カン、須田祥子、趙静、児玉桃)
演奏会〔2〕「アジアのヴィルトゥオーソ〜達人たちの響演」
<出演>
チョーリャン・リン:ヴァイオリン
諏訪内晶子:ヴァイオリン
宮崎国際音楽祭弦楽合奏団
<曲目>
ブラームス:弦楽六重奏曲 第2番 ト長調 作品36
ヴァイオリン:チョーリャン・リン、諏訪内晶子
ヴィオラ:川崎雅夫、鈴木康浩
チェロ:富岡廉太郎、古川展生
ヴィヴァルディ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ短調 作品3-8 RV522
J. S. バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043
サラサーテ:ナヴァラ 作品33(弦楽合奏版)
ヴァイオリン:チョーリャン・リン、諏訪内晶子
宮崎国際音楽祭弦楽合奏団
今年で23回目を迎える宮崎国際音楽祭。筆者が観るのは今回が初めてだ。1996年の発足当初は、アイザック・スターンが(逝去する2001年まで)毎年参加するなど話題を呼んだが、似たような音楽祭は各地に連立し、地方の大型音楽祭としての珍しさは次第に薄れていったようにみえる。また、欧米から世界一流の大家を招くことでメディアや全国の関心を集めるといった手法は多いのだけれども、どこか他力本願的で一時しのぎのような感もあり、巨額の資金を投じて行われるだけの意義があるのだろうかと常々疑問にも感じていた。
そうしたなかで、筆者が再びこの音楽祭に注目したのはそのコンセプトである。すなわち、スターンが当初から掲げていた「アジアの音」という理念だ。日本(その中には地元宮崎も当然ながら含まれるであろう)や他のアジア諸国の若い音楽家の育成を通してアジアの音を追求するという本来の理念が、出演者の顔ぶれやプログラム内容から伝わってきたのである。
かくして、ゴールデンウィークの予定を調整して宮崎へ飛んだ。いずれのプログラムも興味深かったが、日程の都合などで筆者が選んだのは最初の2つのプログラム、「夢のあとさき〜フランス音楽のエスプリ」と「アジアのヴィルトゥオーソ〜達人たちの響演」である。曲目こそクラシックの王道がズラリと並ぶが、出演者は日本と韓国、中国、台湾の奏者たち。ソロや少人数による室内楽曲が中心であるため、アジアの音、あるいは各奏者の個性や音楽性を味わうことも可能ではないかと予想した。
予想は見事に的中した。とりわけソロ奏者の個性の違いが明らかとなった。だがより興味深いのは、それが個人の個性にとどまらず、民族的な資質の違いが少なからず反映されているのではないかと思われたことである。例えば、1つ目の演奏会における2人のヴァイオリニスト、韓国生まれのドン=スク・カンと日本の三浦文彰の個性の違い。冒頭のミヨー《2つのヴァイオリンのための二重奏曲 作品258》からいきなり対照的な音楽が耳目に飛び込んでくる。体全体で音楽の振幅を表現するドン=スク・カンは、情熱的で弓使いも大ぶり、時にコブシさえ効かせた旋律線はアジア的な土着さを感じさせもする。一方、終始ポーカーフェースでほとんど動きのない三浦文彰は、軽やかな弓使いでどこか突き放したように冷静沈着。その音やフレージングに日本古来の匂いや民族性が感じられるわけではない。
だがそれは、これら二人の奏者の違いによるものだけではないことがすぐにわかった。ドビュッシーの《ヴァイオリン・ソナタ ト短調》になると、それまで多少抑え気味だったカンもいよいよ本領発揮。もはや臆することなく感情を放出させる。一方、ピアノ・パートを受け持った児玉桃は、微妙なニュアンスや音色の変化など細部に気を遣い、簡単にはその内面や個人的な感情を露わにしない。つまりその違いは、カンと日本人奏者の間の違いということなのかもしれない。
一方、ラヴェルの《ピアノ三重奏曲 イ短調》で登場した中国生まれのチェロ奏者、趙静もやはり豪快な表現をする。となるとやはりこれは、日本人の感情表現が韓国や中国のそれに比べて冷静、もっと言えば、おとなしいということなのかもしれない。
翌日の「アジアのヴィルトゥオーソ〜達人たちの響演」の場合、これほどではないにしても、やはり日本とアジアの違いがあるように思われた。この日の2人のソリストは諏訪内晶子と台湾生まれのチョーリャン・リン。音色、音量、技巧のいずれにおいても圧倒的なパワーを発する諏訪内だが、その表現と言えば非常に滑舌が良く淡麗だ。一方、リンは諏訪内に比べると決して美音とは言えないが、取り繕うことのない自己表現には惹きつけられるものがある。
どちらが良いというわけではない。ただ、アジアの中でも地域によってその音の表現に違いがあるということが感じられて面白かった。とりわけ日本的気質のようなものが垣間見えたのは興味深い。聴く側でさえそのように感じられたのだから、共演した奏者たちはもっと多くの違いを感じ、相互に影響を与えていることだろう。
さて、「アジアの若い音楽家」に焦点を当てた音楽祭の理念はよくわかるが、このように利益追求型ではなく理念追求型のイベントは地方都市の事業として成立するのであろうか。少なくとも、この音楽祭が当の宮崎の地にどの程度根付いているのかが気になるところである。
客席は、筆者が参加した両日とも八割程度は埋まっていたであろうか。一般的に室内楽のコンサートはオーケストラなどに比べると集客が難しく、今回のようにフランス近代を中心としたプログラムでは空席が多いのではないかと予想していたが、その予想は見事に外れた。老若男女を問わない幅広い客層で、この音楽祭がかなり定着しているのではないかと感じられた。
道中のタクシーでは、運転手に宮崎のことについて少し話を聞いてみた。それによると、宮崎市内の人口は約40万、県全体でも110万に満たない。九州新幹線の路線を外れたため、交通の便は相変わらず悪いという(とはいえ、他県出身というその運転手は、住むには非常に良い街だと絶賛していた)。その言葉を聞けばなおさら、この音楽祭の盛況ぶりには驚かされる。プロ野球やJリーグなどの春季キャンプの時期には賑やかになるというが、それはいずれもスポーツの話。文化面で言えば、まさにこの音楽祭が宮崎の主要行事の一つとして定着していると言えるのかもしれない。筆者にとっては何よりも、ここで毎年少しずつ醸成されている音楽の芽が、これからどのような花を開かせるのかが楽しみである。
(2018/6/15)