パリ・東京雑感|されど第9条 今からでも憲法を救えるか?|松浦茂長

されど第9条 今からでも憲法を救えるか?

text & photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

憲法改正が目前に迫ってきたので、日本記者クラブでは、「憲法論議の視点」というテーマで5回の研究会があった。若手の憲法学者の元気いっぱいの講義を聴き、僕も憲法と平和について思いついたことをメモしたくなった。

1)押しつけ憲法?
井上武史准教授(九州大学)は「国際化された憲法」というスマートな呼び方をしたが、要するに、日本国憲法を占領下の強制された憲法と見る。こういう自律性を欠いた憲法は、日本、ドイツのほか、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソヴォ、キプロス、パレスチナ、カンボ ジア、東チモールなど色々あるらしい。国際社会の厄介者だった国をおとなしい民主的な国に変えるために、憲法を与える。さらに、せっかく平和・和解の憲法を手にしても、国内の政治勢力がたちまち反故にしてしまっては意味がないので、「国際化された憲法」は 改正のハードルを非常に高くしてある。
井上准教授は「国際化」が日本の憲法の疵だと言うけれど、本当にそれは恥ずかしいことだろうか?そもそも憲法とは、権力者が勝手な振る舞いをしないよう縛るためにある。でも不思議ではないか。どうして権力者が自分の手足を縛るやっかいなルールをすすんで受け入れるのだろう?
フランスは革命を起こし、暴力と流血の中で、人権宣言を勝ち取った。血を代償として権力に制約をかけたわけだ。では、革命的状況がないとき、どうやって<自律的>に、<本物の憲法>=<権力を縛る憲法>を実現できるのだろう?
そればかりではない。ルソーに言わせると、国の根本の法を書く立法者は、人間的情念にひきずられず、現実政治の特権・利害から超然とした立場に立たなければならない。さもなければ、「彼の法は、彼の情念のしもべとなって、多くの場合彼の不正を永続化させるだけにすぎないだろう」と警告している。
もろもろの利権の代弁者、欲に動かされる政治的人間には憲法を書く資格がないとすると、聖人にでも任せるしかない。
「立法者は、あらゆる点で、国家において異常の人である。(中略)リクルゴスは、その祖国(スパルタ)に法を与えたとき、まず王位を捨てた。ギリシャの諸都市の大部分では、その法の制定を外国人にゆだねることが習慣であった。近代イタリアの諸共和国は、しばしばこの習慣をまねした。」『社会契約論』
権力制約の法を権力者に受け入れさせるという難題が、憲法制定にはつきものであることを考えると、アメリカに押しつけられた憲法というのは、案外理想に近い解決策なのかもしれない。当時の幣原内閣の法相は、天皇制の論議にたいしては不敬罪をもって弾圧すると声明したほどだから、彼らによって<自律的>憲法が制定されていたら、国民主権のあいまいな准欽定憲法にしかならなかった。それこそ疵だらけの恥ずかしい憲法だ。

2)憲法改正が一度もないのはヘン?
ドイツ基本法は60回、フランス憲法は24回、アメリカ憲法は18回改正された。政治・社会も国際情勢も変化しているのに、憲法がその変化に目を閉ざしているのでは、国の規範としての機能を十分果たせないと、憲法学者はいう。わが憲法は時代に取り残されたのだろうか?しかし、ヨーロッパでこれまでどんな改正が加えられたかを見渡すと、問題は別のところにあるのに気づく。
憲法に新たに書き加えられたのは、欧州の基本原則である死刑の禁止、男女同数原則、同性婚、環境保護、憲法裁判所……。すべて人権を広げ、強める方向だ。パリで暮らすと、毎年確実に社会が前に進んで行く、きのうまで偏見に苦しめられたマイノリティーの人たちが、堂々と生きられる社会に生まれ変わって行くのを実感する。その目まぐるしいほどの変化を、憲法は一つ一つ書き留めてきたわけだ。
日本は欧米と全く歩調が違う。死刑を支持する世論はむしろ強まっているし、同性婚どころか、夫婦別姓も男女同数も前途多難、人権の歩みは実にゆっくりで、足踏みし、時には後退しそうになる。つまり憲法を書き換えなければならないほどの目立った前進はないのだ。それどころか、自民党の憲法草案は、個人の権利の縮小を企てている。

3)第9条は平和の<お守り>?

井上准教授はこう言う。「日本では民主的な決定が信用できず、安全保障政策について今なお憲法の歯止めに頼らざるを得ない状況があるとするとすれば、戦後われわれが手にした民主主義とは何だったのか。憲法9条は日本の民主主義を成熟させたのだろうか。」
これは、われわれ戦後世代への正当な叱責だ。耳が痛い。9条に書かれたような平和な世界を築くための魅力的な物語を生み出すこともできなかったし、隣国への憎悪をかきたてる権力の策動に対抗することも出来なかった。
恐ろしい数字がある。アメリカの民間調査会社が2015年に世界各国の人々に「中国をどう思うか」聞いた調査によると、日本は「中国が好き9%」「嫌い89%」と圧倒的な中国嫌いなのだ。日本にいると、中国は世界中から嫌われているように思えてくるが、とんでもない。フランスは「好き50%」「嫌い49%」。韓国は「好き61%」「嫌い37%」。パキスタンは「好き82%」「嫌い4%」。ブラジルは「好き55%」「嫌い36%」。このブラジルの数字がほぼ世界の中央値で、どちらかというと中国は世界に愛されている。
なぜ日本人だけがこんなにまで中国嫌いになったのだろう。尖閣の領有権争いのため?中国政府が反日教育、反日キャンペーンを繰り返すから?でも、日本よりひどい目にあっている国が日本ほど中国嫌いにならないのはなぜだ?中国にミスチーフ礁を盗られたフィリピンは54%が中国好き。中国との国境でいまも流血の衝突が続くインドは41%が中国好き。国家として中国と喧嘩状態でも、国民全体が中国嫌いにはならない。国の政策がどうあろうと、一人一人が自分自身の中国人像を持とうとする、成熟した判断があるように思える。
隣国に不信と憎悪を抱きながら平和を語るなんて、これ以上のインチキはない。私たちは日本人の心の中の、平和構築に失敗したのだろうか。
権力は隣国への不信、嫌悪をあおるため、多額の資金を注いで一連の国家的神話を打ち立てた。北方4島一括返還、尖閣、竹島、拉致家族……。隣国憎悪の物語を作るのは、どの国もやる常套手段だが、日本人ほど素直にそこにはまりこみ、異論を唱える<非国民>を許そうとしない従順さ、偏狭さは世界にあまり例がないのかもしれない。

泰緬鉄道
日本軍がタイとビルマを結ぶために建設

4)されど第9条
映画『戦場にかける橋』で知られる泰緬鉄道を見物に行ったとき、カンチャナブリの捕虜の墓地で年配のオランダ人参拝者にとがめられた。「日本人は来るな!」日本軍から受けた屈辱は何十年たっても忘れてもらえないらしい。そういえば、ロンドンの戦争博物館には泰緬鉄道の線路が展示してあった。

チョンカイ連合軍共同墓地
鉄道建設のため1万数千人の連合軍捕虜が死亡

もう30年も前のことだが、ロンドン赴任中、日本軍の捕虜虐待を扱った連続テレビドラマが大人気だった。そのせいもあってか、道でつばを吐きかけられたり、プールで水を浴びせられたりして、そのたびに戦争の恨みの深さを思い知らされたものだ。
日英と違って日仏間には戦争の記憶がない。(仏印で小規模な軍事衝突があったが、フランス人は覚えていない。)おかげでパリでは日本人だからという理由で意地悪された経験がない。それどころか歯医者は「日本の寿司職人のドキュメンタリーを見た」と和食の奥の深さに感嘆するし、眼鏡屋のアルジェリア人店員は「マンガが大好きだから日本語を勉強したい」と言うし、同じアパートの医者は京都旅行をして大の日本ファンになり、週末ごとに菓子を焼いてはおしゃべりに来る。モロッコ人の八百屋は日本の平和憲法をほめてくれた。
どうもパリの人は日本に甘い。アメリカ人は、かわいそうにレストランで露骨に意地悪されるのを見かける。中国人は観光客があまりに多い上に行儀が悪いので嫌われ始めた。うっとうしい米露中の大国と対照的に、日本は政治的存在感が希薄なかわりに、美的生活を営む洗練された桃源郷に見えるのだろう。
なにしろ70年間一度も武力を行使しない希有な国だったのだから。

(2018年3月27日