新日本フィルハーモニー交響楽団 トパーズ<トリフォニー・シリーズ>第583回定期演奏会|齋藤俊夫
新日本フィルハーモニー交響楽団 トパーズ<トリフォニー・シリーズ>第583回定期演奏会
2018年2月2日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi) 2/3撮影
<演奏>
指揮:マルクス・シュテンツ
新日本フィルハーモニー交響楽団
<曲目>
ヨーゼフ・ハイドン:交響曲第22番変ホ長調 『哲学者』
ヨーゼフ・ハイドン:交響曲第94番ト長調 『驚愕』
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ:交響曲第7番
ハイドンとヘンツェの交響曲を並べるというプログラムに驚いたのは筆者だけではあるまい。「交響曲」とは名付けられているものの、古典派と現代音楽、その懸隔は大きすぎるのではないか、と。だが、全く違う毛色の曲でも、並べて聴くと1つのコンサートとして成立する、そんな音楽の不思議な現象が起こったのである。
まずはハイドン1764年作曲の交響曲第22番『哲学者』。弦楽器をはさんで舞台の左右にホルンとイングリッシュホルンが立ち、呼びかけ合い語り合う第1楽章、飾り気や力みがなく純朴。第2楽章はのんびりとした第1楽章と対比をなす軽快で爽やかな音楽。第3楽章は典雅極まりないゆったりとしたメヌエット。トリオの管楽器がのどやか。第4楽章は第2、第3楽章のバロック様式の濃い音楽から脱した交響曲らしい大きなスケールの音楽だが、演奏に過剰なところが全く無い。全曲を通じて暖かな音楽作りに好印象を持った。
同じくハイドンの1791年作曲、交響曲第94番『驚愕』。第1楽章は春眠暁を覚えずといった風情の甘やかな序盤からスケールの大きな主題の提示部へ。展開部で短調に転ずるとさらに劇的に。そして再現部でソナタ形式の大団円を迎える。通称の由来たる第2楽章では眠っているティンパニー奏者をチェロ奏者が起こすという劇が演じられた。変奏の度に異なる音楽的表情が現れる。管楽器のソロが実に愛らしく、またトゥッティでは堂々とした音楽に。第3楽章のメヌエットは先の第22番のそれとは全く時代様式が違う、より「シンフォニック」なメヌエットである。フィナーレたる第4楽章、ロンド・ソナタの各部に1つとして同じ音楽がない、堂々たるプレスト。見事!これぞハイドン、これぞ古典派交響曲の完成形、と感心することしきりであった。
前半のハイドン2作品から約200年後の1984年作曲、ヘンツェの交響曲第7番である。筆者も録音で聴いてこの作品をわかった気になっていたが、それは完全に覆された。録音と生演奏の違いではない。指揮者の作品理解・解釈が別次元と言っても良いほど明晰だったのである。
まず「ダンス」と題された第1楽章、筆者はこれまで「なんかモヤモヤした前半があって、その後変拍子のグシャグシャが来る」といった漠然とした印象で、つまりあまりエクリチュールに長けた楽章だとは思っていなかった。しかし今回のシュテンツ・新日本フィルと出会って評価は一変した。「モヤモヤした前半」は各パートが複雑なテクスチュアを形成し、調性と無調のあわいで表現主義的な力のある音楽を奏で、「変拍子のグシャグシャ」は「ダンス」の題の通り、異教徒の土俗的舞踏風な激烈な音楽が奏でられる。だがどちらも「モヤモヤ」にも「グシャグシャ」にもならず、あくまで整然として、はっきりとした音楽的輪郭が見えてきた(聴こえてきた)のである。今まで私はヘンツェの何を聴いていたのか?
第2楽章もまた驚かされた。前半の弦楽器の繊細な調べのなんたる痛切なことか。ホルンとトロンボーンが先導する後半はぐっと劇的になり、クレシェンドの頂点で一旦音がかき消え、弦楽器と管楽器が室内楽的な楽想を奏でる所に金管楽器が狂気を思わせる大音量で襲いかかる。軍靴の音のようなスネアドラムが実に恐ろしい。最後は短3和音が静かに奏されて終わる。
スケルツォの第3楽章、リズムもテクスチュアも複雑すぎる。プログラムノート(石川亮子氏筆)には「マーラーやショスタコーヴィチを思わせる」とあり、筆者もそう感じたが、ヘンツェの複雑な書法は2人を凌駕する。決して音楽をカオスにしない計算し尽くしたシュテンツの指揮が、オーケストラ全体で完璧なアンサンブルを成立せしめたことに改めて感嘆。
第4楽章はヘルダーリンが狂気に侵され始めたころの詩『生の半ば』を音楽化したものだという。フルートとハープに始まり、弦楽と打楽器がそれに加わる序盤から前半は、塔の中に幽閉されたヘルダーリンが窓から夜空を見ているといった雰囲気から、次第に朝陽が昇るかのようにクレシェンドする。しかしゲネラルパウゼの後、寒風、いや、吹雪が吹きすさぶような楽想が現れる。そして悲劇的というより、悲劇が全て終わった後の廃墟を眺めるような無常観が支配し、さらに廃墟が崩壊して世界すらも終わるかのような破局的な轟音の最後に、全ての楽器が突然演奏を止め、ピアノの弦の残響だけが残り、それもかき消えて、終曲。
救いはない。それゆえに、これは紛れもなく「現代の交響曲」と呼ぶに相応しい作品である。ハイドンが完成させた交響曲が、現代においてその時代的必然性を持って再現されたとき、このような音楽となることがよく理解できた。
マルクス・シュテンツと新日本フィルはこれが初共演とのことだが、シュテンツの実力もさることながら、楽団との相性も抜群だと思われる。願わくば、今後も今回のような絶妙の両者の「交響」を聴かせてもらいたい。
(2018/3/15)