日本の作曲家2018 第1夜 JFCニューカマーズ|齋藤俊夫
2018年2月23日 東京オペラシティリサイタルホール
Reviewed by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
双子座三重奏団(トランペット:曽我部清典、ピアノ:中川俊郎、バリトン:松平敬)
<曲目>
杉山隼一:『《落下、観察、そして影》(ハイレッドセンターの追憶に)』(トリオ)
熊谷美紀:『Biodiversity for Piano』(ピアノ)
寺崎圭太郎:『Hymn in the woods』(トランペット、ピアノ)
山田香:『ASOBU-ASOBOU-ASOBEST~どうやって遊ぶ? Ver2.3』(改訂版初演)(声、ピアノ)
永野聡『Ricercare pour trompette et piano』(トランペット、ピアノ)
深澤舞『children of light―バリトンソロのための12のフーガ』(バリトン)
山邊光ニ『Peninsula O.』(ピアノ)
山本準:『ポツダム宣言』(トリオ)
(企画:川島素晴)
JFCニューカマーズは日本作曲家協議会の新入会員を紹介する企画。今回は現代音楽を中心に活躍している双子座三重奏団を迎え、歌曲、器楽、パフォーマンスなど様々な形の作品が並べられた。
最初の杉山作品はいわゆるパフォーマンス作品。松平は籠に入れた洗濯バサミを1つ、また1つと顔の高さから落とし続ける、すなわちタイトルにある「落下」である。中川は観客席の椅子をためつすがめつしながら歩き回る、すなわち「観察」。ステージに置かれた脚立の上に曽我部が聴衆に背を向けて立ち、その背後からスポットライトが当てられて壁に彼の影が浮かび上がる、すなわち「影」。作曲者の説明では松平が中西夏之、中川は赤瀬川原平、曽我部が高松次郎で、「根本的に今日の社会の在り方、アートの在り方を問い直すために作曲した」(プログラムノーツより)らしいが、残念ながら筆者には彼の作曲意図はわからなかった。
熊谷作品、高音域での軽やかな高速パッセージを上層に、中音域でのゆっくりとした音を下層に置いて、キラキラとしたガラス細工のような「綺麗な」ピアノ曲であったが、綺麗なだけでは音楽として心に響いてこない。何かもっと、自分の訴えたいことを絞り出すような力、「欲求」のようなもの(しかしそれは「綺麗さ」と背反するものではない)を作曲家に求めたい。
寺崎作品はトランペットが1音1音途切れ途切れに、旋律にならない、かといってセリーのような規則性も聴き取れない、孤独な音を延々と吹き、ピアノも同様に旋律にもセリーにもならない反復(?)音型を延々と弾く。1人1人の演奏も通常の意味での「音楽」にならず、そして2人の音楽の縦の線も横の流れも合わず、通常の合奏にもならない。近藤譲の流れを汲むと見たが、しかし個性的な「音楽的脱臼」とでも言えるユニークな聴取体験をさせてもらった。
山田作品は文句なしに楽しかった。「子どもが夜眠る時、お父さんにお話をしてもらうというシーン」を作品化したものなのだが……。まずピアノが童謡風の音楽を爪弾き、松平が子守唄(にしては朗々としたベルカント唱法であったが)を歌うが、「こんな歌じゃ眠れない?昨日の話の続きが聞きたいか?」とのセリフの後、その「話」を松平が独演する。
しかし、その「話」が、かつての「火曜サスペンス劇場」のような「ベタな」物語で、松平が探偵(警察官?)、被害者の娘(ファルセットで歌われる)、真犯人、の迫真の(それゆえに笑える)演じ分けをし、中川のピアノがこれも「ベタにもほどがある」音楽で物語を盛り上げる。そして真犯人が死んで(自殺して?)、探偵と娘が抱き合って(これも独演で)「話」は終わり、「おや、もう寝たのか?また明日同じところからだな」と「お父さん」がつぶやいて終わる。
思い切り笑わせて、かつ、松平の歌唱力・演技力を遺憾なく発揮させる、現代音楽の予想外の可能性を見せてもらった。
永野作品、「古典的な調性からは逸脱しているが、その響きは多分に調性的である」と作曲者は言っているが、複調における調相互の緊張感や、旋法を用いたときの音響の「色」の違いなどは聴き取れず、フランス近代(つまり現代以前)の少しだけ調性が珍しい音楽のようだった。確かに響きは美しいが、もっと逸脱して良いのに、そう思わざるを得なかった。
深澤作品、闇の中から松平がアンティークシンバルを鳴らしつつ入場し、終了時もまたアンティークシンバルを鳴らしつつ松平が闇の中に帰っていった。同音の反復が支配的な切り詰められた旋律線の動きと、時折入るメリスマがルネサンス期よりさらに昔の古楽のように聴こえた。そしてその静謐な音楽は宗教的ともいえる感覚、音楽の始源にある人間性を呼び覚ました。
山邊作品、点描音楽のような断片、童謡のような音楽の断片、古典派のソナタのような断片、ガーシュウィンのような断片、ベートーヴェンのピアノソナタのような断片など、様々な様式の断片が入り混じり、そしてそれらが統一されることなく現れてはどこかに行ってしまう。音楽の同一性をあえて拒否した音楽と言えるだろう。面白く聴けたが、しかし既存の様式を用いることにもっと間テクスト的な意味を持たせることができるのではないだろうか。まだまだこのコンセプトには伸びしろがあると思えた。
最後の山本作品は、ポツダム宣言の日本語訳と、それを受けての日本の反応を松平が朗読・朗唱し、器楽で『星条旗』『君が代』なども引用されるという極めて政治的な作品である。だが、筆者には作曲者の主張がどこにあるのかがはっきりとせず、さらにテクストと音楽の、言わば「掛け算」ができていないと思えた。音楽に政治を持ち込むなという見解には筆者は全く与しないが、しかし、政治的な音楽であるならば、題材として政治的なものを扱うだけではなく、音楽にしかできない政治的な主張・批判を求めたい。戦前の雰囲気を色濃くしていく現代日本においてこのような音楽をものする作曲家の意志は大いに買いたいが、しかし、作品としては時代に抗いきれていないと思えた。
今回の演奏会で特筆すべきは、8人の作曲家が8人とも全く違う音楽を聴かせてくれたことであり、企画者である川島素晴と演奏者たちの音楽的懐の深さも注記しておきたい。辛い批評も書かずにはいられなかったが、それぞれの個性がしっかりと聴こえてきたのは確かである。作曲者たちがこれからもその個性に磨きをかけることを期待したい。
(2018/3/15)
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(付記)山邊光ニ『Peninsula O.』評で「ベートーヴェンのピアノソナタのような断片」としたのは誤認であり、正しくは「ショパンのエチュード第12番の引用」であるとの指摘を受けた。