いずみシンフォニエッタ大阪 第40回定期演奏会|能登原由美
いずみシンフォニエッタ大阪 第40回定期演奏会
「幻想と衝撃の夢体験−超人的オーボエ!インデアミューレを迎えて−」
2018年2月10日 いずみホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 樋川智昭/写真提供:いずみホール
<演奏>
トーマス・インデアミューレ(オーボエ)
飯森範親(指揮)/いずみシンフォニエッタ大阪
<曲目>
レスピーギ《ローマのいずみ(室内管弦楽版/川島素晴編)》
西村朗《オーボエ協奏曲「四神」》(委嘱新作)
カーゲル《フィナーレ(1980/81)》
指揮者の死をもって終わりを迎える演奏会。なんだか皮肉めいているし、妙に予言じみているような気がして笑うに笑えなかった。40回目の節目となる公演。その記念も兼ね、17年前に行われた第1回公演で一躍話題になった演目を再演。つまり、曲の途中で指揮者が倒れるという筋書きをもつカーゲルの《フィナーレ》の再演ということだったらしい。けれども、指揮者がいなくても演奏は最後まで続いたのだ。「指揮者不要論」でも投げかけたいの?という思いが頭をよぎった。もちろん、世界初演を自ら指揮したカーゲル自身にはそういう目論見もあったのだろうけれど。じゃあ、この楽団にとっての指揮者の存在とは何?最後にして頭をよぎった疑問が胸に突き刺さったまま、幕は閉じられた。
とはいえ、それまでの演目は実にワクワクさせるものだった。まるで色とりどりのキャンディーが詰まっているような、様々な音の形、色、響きの溢れる音の小箱を眺めているような作品が並ぶ。基本は25名、今公演では31名という小さな編成だけに、気圧されるような音楽は期待できない。だからオーケストラ作品を演奏する場合にはそれなりの工夫が必要なのだけれど、プログラム冒頭に演奏されたレスピーギの「ローマ三部作」からの編曲版など、個々の楽器、奏者が繰り出す音の戯れがよりくっきりと見えて、小編成ならではのサウンドが楽しめた。
その曲、《ローマのいずみ(室内管弦楽版)》を手がけたのは、当楽団のプログラム・アドバイザー川島素晴。これまでにも当団のために編曲を手がけてきた。今回のレスピーギ「三部作」の編曲版では、ホールの名前「いずみ」とかけて《ローマの噴水》の4つの部分をそのまま構造の土台にしながら、《ローマの松》や《ローマの祭》の素材も部分的に引用しつつ大作を織り直していった。確かに原作の派手さや華やかさはないけれど、奏者の間を縦横無尽に駆け巡るフレーズが空間的な広がりを感じさせるとともに、ホール設置のパイプオルガンをも駆使したきらびやかな響きの変容が、ほとばしる泉の様を目の前に浮かび上がらせてくれた。
続く演目は、楽団創設の提唱者で音楽監督でもある西村朗の《オーボエ協奏曲「四神」》。委嘱世界初演である。4種のオーボエを使った贅沢な作品だけれども、オーボエという楽器の魅力よりもむしろ、それによって描き出される四神、つまり中国の神話に由来する霊獣、朱雀、白虎、玄武、青龍の世界に魅せられた。各霊獣が司る四季、先の順で言えば、夏、秋、冬、春の季節がそれぞれ一つの楽章を構成し、さらに各楽章がコーラングレ、オーボエ・ダモーレ、バス・オーボエ、オーボエを順に取り上げる。時にはヘテロフォニックに、時にはガムランのようにミニマリスティックに形成されるテクスチュア、あるいはポルタメントを効かせた音の動きなど、アジア的な音の造形が季節を支配する怪物たちの蠢きを彷彿とさせる。もちろん、ソリストのトーマス・インデアミューレの神業的な演奏があってこそ作り出される世界だったのだろう。
さて、冒頭で触れたカーゲルの《フィナーレ》は、プログラムの後半に置かれた。2001年の当楽団による日本初演を私は見ていないが、今回の演奏では指揮者が倒れた後にその顔に白布が被せられ、担架で運び出されるという演出だった。レクイエム(死者のためのミサ)で奏される「怒りの日」の旋律がちょうど重ねられるように、ここでの「フィナーレ」とは「死」によって迎えられる「終わり」のこと。ただし、その後はコンサートマスターが采配を取ることで演奏は最後まで続いていくわけだから、やはりこれは「指揮者の死」を示すのだろう。
ただ、その演出だけなら単なるユーモアとして笑い飛ばし、「指揮者不要論か?」といった疑問が胸に突き刺さるまではいかなかったのかもしれない。というのも、常任指揮者である飯森範親、プログラムの前半はいずれも初演だったせいか、慎重さが前面に出て躍動感や疾走感が今ひとつであった。何よりも、演奏そのものから沸き立ってくるような色合いが乏しく、冗長に感じられる場面もあったのだ。指揮者が倒れるという演出で沸かせるのも良いが、やはり音楽そのもので沸かせて欲しい。せめて「指揮者不要論」が後々まで胸の中で疼くことのないように。そういう意味では、やはりこれはカーゲルの目論見通り、かなり辛辣なブラックユーモアだ。自らが生み出す音楽によって自ら一掃されるわけだから。
(2018/3/15)