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ミュージック・クロスロード|谷口昭弘

ミュージック・クロスロード

2018年1月20日 神奈川県立音楽堂
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 青柳聡/写真提供:神奈川県立音楽堂

<演奏>
一柳慧(ピアノ)、上野通明(チェロ)、平田紀子、寺井結子、中島裕康(箏)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
杉山洋一(指揮)

<曲目>
森円花:《音のアトリウムⅢ~独奏チェロとオーケストラのための~》(2018)
<ソリスト・アンコール>
森円花:《ヴォカリーズ》(2018)
(休憩)
一柳慧:ピアノ協奏曲第6番《禅ーZEN》(2016)
(休憩)
山本和智:3人の箏奏者と室内オーケストラのための《散乱系》(2015/2017)

 

開演前のロビーには、演奏される演目に関連した、楽譜を抽象化したようなビデオがモニターに映しだされていた。他の作品にも関連映像があり、休憩時間に観客が興味深そうに眺めていた。これらは携帯電話向けの配信も行われていたようだった。ホールに入ると、ステージから客席後方に向かって無数の糸が天井に張り巡らせてある。いかにも前衛的な芸術音楽を楽しむ場であり、その近未来的志向に筆者は胸を膨らませた。

第1曲目の森円花の作品は、弦のハーモニクスとフィンガーシンバルから、みずみずしい音空間が広がる。そして様々な音色によるロングトーンやドローンの上に弦楽器・打楽器が素早いパッセージを奏でる。チェロ独奏はさりげなく始まり、時に激しく、時にリリカルに時間を紡いでいく。全体のペース配分がうまく構成力のある作曲家だ。カデンツァも、これみよがしではなく、自然に、そこにあるべきものとして綴られた。冒頭に聴かれた潤いは最後まで続き、カデンツァの後は、メインの楽想が短く戻るような感覚で結ばれた。叙情性とモダニズムが素直に同居する密度の濃い作風といえばよいだろうか。作品演奏中、ステージの天井には交錯する線が映しだされ(空間監修=白井晃)、やがて直線は波線へ。水紋のように動くこともあった。視覚と聴覚の相関性を考えつつ聴いた。

ソリスト・アンコールは、《音のアトリウムIII》で独奏をつとめた上野通明のために作られた森の新作《ヴォカリーズ》。両端にハーモニクスとグリッサンドが支配的な部分があり、中間部には、何かに取り憑かれたようにギンギンに歌い上げる旋律部分があった。この作品も、軸足は前衛の延長線上に置きつつ、聴き手を惹きつける力強いリリシズムが盛り込まれた佳作といえる。

15分の休憩の後は一柳慧のピアノ協奏曲第6番《禅ーZEN》(作曲者自身によるピアノ独奏)。スティックを使ってピアノの弦をこすったりピアノの弦を押さえながら鍵盤を叩く内部奏法がおもむろになされたあと、オーケストラのみとなり、低弦から高弦へと対位法的な弦楽合奏が続く。間のリズムやグリッサンドを使ったトムトム、ドラのゴーンという鳴りは、和の趣きを狙ったものだろうか。
かと思えばオスティナートに乗せて思わせぶりなフレーズが繰り返される箇所、アルペジオに乗せて弦楽器が情感を込める箇所、ミュートされたトランペットも入ったブルースっぽい箇所など、いくつかのセクションから成り立つラプソディックな構成。ピアノのカデンツァらしきところもあり、鍵盤の両端から中間、中間から両端の運動を繰り返してみたり、ピアノのボディを叩いてみたり。最後はオーケストラが波のような音型を対位法的に展開し、ピッコロ独奏、ピアノの内部奏法で完結した。この作品に関しては、新作に挑む一柳氏の奮闘ぶりを目の当たりにした…とだけ述べておこう。

舞台転換のため30分の長い休憩。聴衆を一旦ホワイエに出すというのは異例だが、どうやらホール天井に張り巡らされていた糸(絹糸提供・協力=丸三ハシモト株式会社)を少し降ろしたということらしい。ホールに戻ってきた人は、もの珍しそうに写真を撮っていた。どうやら下げられた糸は楽器につながっているものと、それとは別のワイヤーのようなものにつながっているものがあったようだ。糸はいくつものプラカップを貫いており、まるで糸電話のよう。
これらは山本和智の《散乱系》のための仕掛けで、ワイヤーにつながれた糸に関しては、箏の奏者がワイヤーをスティックで叩くと会場の糸が揺れ、プラカップから「シュインシュイン」と渦巻く音が響き渡る。3つの箏に付けられた糸は、箏が爪弾かれると、プラカップのある場所により時間差で楽器から伝わってきた音が鳴る。どんな電子的エコーを使うより、繊細な豊かな音の拡散といえるだろう。そしてその音は必ずしも箏そのものではなく、三味線のサワリのような濁った音になって耳に届いた。これも面白い。
もちろんそういった音響効果だけが山本作品の魅力ではない。ブレス音とグランカッサ、箏の弦をこする音から始まる曲は、人間の呼吸のよう。また全体の構成は箏を中心に据え、それを、劇場オーケストラを想起させる小編成のアンサンブルで活かす方向性で考えられており、洋の東西の出会いを提示する作品としては、どちらかを他方のために犠牲にしたという感覚を持つことなく聴けたのが幸いだった。

終演後のトークで一柳慧氏は、今回の公演で演奏された音楽を「現代音楽」ではなく「未来音楽」と呼ぶべきだと述べていた。筆者は「現代」も「未来」も付けず、ただ「音楽」と呼ぶべきだとは思うが、少なくとも、次の世代から新しくて面白い音楽はまだまだこれからも出てくるに違いないということを確信した公演であった。

(2018/2/15)