日下紗矢子 ヴァイオリンの地平3|丘山万里子
2017年7月22日 トッパンホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 藤本史昭/写真提供:トッパンホール
<演奏>
vn日下紗矢子
pf ミヒャエル・ゲース
<曲目>
メンデルスゾーン:ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調(1838)
クララ・シューマン:3つのロマンスOp.22
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レーガー:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ イ短調 Op.91-7より第3楽章「シャコンヌ」
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調Op.78「雨の歌」
(アンコール)
R・シュトラウス:アレグレット ホ長調
日下は東京藝大卒後渡米、フライブルグ音大でさらに研鑽を積み、2008年ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団第1コンサートマスターに就任ほか読売日本交響楽団の特別客演コンサートマスターなど内外で活躍。2000年パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール2位など多数の受賞歴を持つ。
トッパンホールでは<ランチタイム>、’10年<エスポワール>に登場、’14<日下紗矢子ヴァイオリンの地平>で「バロック」「古典」と辿り今回が第3回「ドイツ・ロマン派」。
私は今年のニューイヤーでチェロのC・ハーゲンとがっぷり4つに組んだコダーイ『二重奏曲』に感心したが、ソロは今回が初めて。
共演のゲースはプレガルディエンとの歌曲世界ほか作曲・即興・ジャズなどマルチな才人ぶりを発揮している。
そのゲースを相手に、日下がどんな<今>を聴かせるか。
両者相乗を見せたのはクララ作品とブラームス。
日下は中低音領域の響きがとりわけ深く、色合いの多彩、濃淡をたっぷりと含む。これが生きたのがこの2作。
まず、クララ。彼女はただの音楽家でない、といたく納得させられた。
旋律線や和声のうつろいはシューマンに似るが、半音や音程間の動きに独特な身振りがあり、多分クララという人はこういう心象世界を抱えていたのだろう、とその独創性に惹きつけられる。心の綾が織りなすある種の錯綜と屈折、時々「近代」の窓を爪先立ちで覗き込むような不安定な一瞬があり、それが日下の音のくぐもりと内密な声にフッと浮かび上がってくる。第2曲に現れるさりげないトリルの漣など、幼い頃から世間の風に当たり続けたクララらしい目配せが見えるようだ。ヨアヒム(vn)に献呈、この若人と共演も重ねた彼女だが、作曲年の翌年、夫シューマンはラインに身を投げた。
それぞれの趣を持ちつつ、3曲がひとつのクロスのように広げられたあたり、クララの心身の素地とも思え、日下とゲースの音の編み込みの確かさ、美しさに新鮮な感興を覚えた。
次にブラームス。ここでも日下の響きの放熱が全体の奥行きを生む。
クララへの止み難き思慕が音楽を内側から火照らせているような、とは彼女が好んだ<雨の歌>ゆえ、ばかりではない。前半のクララ作品の残影が、そこに重なった。
第1楽章冒頭の滑らかな付点をともなったテーマが描くヴァイオリンの放物線とそれを縫いとるピアノ、互いの濃やかな応答と大きな波動、発火寸前の熱情の昂まり、と両者の眼差しがブラームスの心の裡に深々と分け入ってゆく。
第2楽章、詩情あふれるゲースのピアノに静かにのってゆく日下の伏し目がちな音の表情はブラームスの抑制された想いの丈を伝えるようだ。繰り返されるリズムパターンでのピアノの打奏がいっそうそれを切なく掻き立てる。
終楽章の<雨の歌>、ピアノの柔らかな泡立ちに身をまかせつつ歌い継ぐヴァイオリン。焦がれと憧憬、回想が両者に行き交いつつ流れる。最後の音を二人は儚い夢の終わりのように弾いた。
他の2作だが。
メンデルスゾーンのこのソナタ、「壮大華麗な空虚」という私の理解を覆すような演奏とはならなかった。ゲースの微に入り細を穿つ才知・アイデアてんこ盛りの曲作りに日下が正面から対峙するには彼女自身の音楽像が不明瞭と思われ、一方で、ゲースが施す様々な細工・仕掛けを私はいささか煩わしく聞いた。
レーガーの無伴奏はきっとのびのび翼を広げるのでは、と思ったが、意外に小さくまとまり迫力を欠く(客席からはブラボーの声あり)。
ドイツ・ロマン派を物語るに一本筋の通ったプログラムで、クララを入れたセンスも光る。
共演については収穫と留保、<今>の課題も見えたのではないか。
次なる挑戦を期待したい。