東京交響楽団 第652回 定期演奏会|藤原聡 

東京交響楽団 第652回 定期演奏会 [東響コーラス創立30周年記念公演] 

2017年7月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara
Photos by 池上直哉/写真提供:東京交響楽団 

<演奏>
指揮:ジョナサン・ノット/東京交響楽団
メゾ・ソプラノ:藤村実穂子
ソプラノ:天羽明恵
合唱:東響コーラス
合唱指揮:冨平恭平
コンサートマスター:グレブ・ニキティン 

<曲目>
細川俊夫:『嘆き』~メゾ・ソプラノとオーケストラのための
マーラー:交響曲第2番 ハ短調 『復活』 

 

ジョナサン・ノットは2014年4月の東京交響楽団音楽監督就任演奏会にいきなり難曲であるマーラーの『交響曲第9番』を乗せ、その後この作曲家の作品では2014年12月の『第8番』、2015年9月の『第3番』という声楽入りの大規模な楽曲を取り上げた。そして彼らのマーラー第4弾もまた声楽入りの大曲、『復活』である。マーラーの交響曲の中では良くも悪くも「俗っぽい盛り上げに長けている」という側面が目立つこの曲においてノットが発揮する手腕には大いに興味をそそられる。一味違った演奏になるのは間違いなかろう。 

さて、コンサートではそのマーラーの前に細川俊夫の『嘆き』が演奏された。誤解を恐れずに書けば細川作品の中では「分り易い」部類に属すると感じられるが、これは傑作と思う。楽曲の題名及びトラークルの歌詞を見ずとも、冒頭から感じられるその不吉な音彩――定期的に発せられる打楽器による鈍い打音、常に余韻や予兆を内に孕む音楽の運びからは誰しもが衝撃を受けるに違いなく、これはもう「理解する」、という感じではなく「礫に打たれる」とでも形容すべきだろう。第一次大戦での従軍に際しその筆舌に尽くし難い惨状に遭遇した詩人トラークルの絶望(という言葉ですら恐らく十分ではない。詩人は精神に異常を来たし27歳で自死した)に作曲者の精神がすこぶる濃密に共鳴していることがありありと分かるような音楽である。 

冒頭の蠢くような音楽がしばらく続くと、藤村が「手紙」と題されたパートを読み始める(歌う、ではなく)。「痛みをも拒む無言の苦悩」(「手紙」第2節から)は歌を召喚し得ず、呟く以外にない。友への語り掛けであるこの部分はしかし限りなく独白に近く、その言葉はあてどなく中空へさまよう。それでも神に向かって「生き延び、正しいことを行なうための力が必要だと私に言いたまえ。私が正気を失っていないと言いたまえ」と語りかける第5節では、まだ辛うじて正気の側の自分を信じ、希望を繋ぎとめようとする。 

しかし、激烈なオーケストラの総奏が一瞬止んだ後、ミューザ川崎の空間を切り裂くように単独に屹立する圧倒的な藤村の声で歌われ始める「嘆き」のパートにおいては、「眠りと死、陰鬱なワシが夜通しこの頭のまわりでざわめき、金色に輝く人間の肖像は永遠という冷たい波に飲み込まれたようだ」に象徴されるように、絶望は永遠に意識の底にへばりついて決して癒されはしない。起こってしまったこと、見てしまったことは誰にも消せないし忘れることも出来ない。とは言え、その音楽は終結に向かうにつれて静寂の度合いを増して行き、歌は冒頭と同様語りになり、希望と癒しをかすかに感知させながら終わりを迎える。ここでブラームスの『運命の歌』を引き合いに出すのもそれほど突飛なことでもないと思うのだが、あそこではヘルダーリンによる人間の苦悩と絶望を歌う詩の後に、その音楽冒頭の変ホ長調による明るい前奏をハ長調で回帰させた。希望がなければ人間は生きられない。尚、本作は「2011年3月11日の東日本大震災の津波での犠牲者、特に子供を失った母親たちに捧げられる哀悼歌」である。 

藤村の歌唱についてはその声質の美しさ、練り上げられたフレージングと言語への鋭敏な反応、ダイナミクス、ともかく賞賛の言葉以外になし、ノットの作り出す細やかな音色と強弱のグラデーションもさすがと思わせるに十分なものがある。余談だが、本作の初演者デュトワとアンナ・プロハスカが2017年12月にN響でこれを再演する(今回のノットの演奏は藤村実穂子のためのメゾ・ソプラノ改訂版)。この傑作をぜひ体験されたい。 

休憩を挟んでの『復活』は、非常に引き締まった硬質な造形でスタイリッシュに決めた演奏。細部の緻密な造形も光る。ここぞと言う箇所での激しいアクセントとダイナミクスは有無を言わさない迫力を聴かせるが(第1楽章の展開部クライマックスの凄まじさ…)、第2楽章は間奏曲的な性格を明確に意識して、大方の演奏よりも弱音を中心に組み立てた虚無的とも言える繊細さが光る(この楽章は過去の幸福だった時代への回想なのだ)。この第1楽章と第2楽章の明確な対比1つ取っても、常にノットが全体を大きく俯瞰しながら部分を掘り込んでいくことに意識的な指揮者だと分かる。終楽章ではバンダの位置に一工夫あり、上手後方、下手後方、下手ステージ脇の3箇所。東響コーラスは今一つの洗練と深い音色が欲しいところではあるが、まずは健闘。独唱2名は万全の出来。楽曲のコーダにおいてはやはりノットが演奏したブルックナーの『第5番』での同箇所と同じことを感じたのだが、それまでは緻密で冷徹な運びを見せていたノットが、いきなりテンポを上げて急激に「盛り上げにかかった」。より壮大にゆったりとした息の長い終結部の方が明らかに効果的と素人耳には思うのだが、最後でいきなりハイテンション、はノットの「癖」なのだろうか、と思ったりもする。東響はホルンが不調だったりアンサンブルの乱れも散見されたが、ノットの意志を少しでも汲み取ろうと最大限の積極性を見せたのが素晴らしい。 

『復活』、総じて良い演奏には違いないもののノット&東響ならばより高いレヴェルを求めたくなったのは事実だが、前半の細川作品でのカタストロフと絶望を経てのマーラーでの救済のビジョン、というコンサート全体を通してのコンセプチュアルさという点でノットの真骨頂を見た思いだ。『復活』1曲に絞り、より時間を使って綿密に仕上げることも出来ただろうに、敢えて難しい、決して軽くはない細川作品をカップリングする。これが「キュレーター」ジョナサン・ノットだ。無論、こういうやり方には全面的に賛成。何より知的好奇心を刺激されはしまいか。