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小人閑居為不善日記|モール映画としての《ゾンビ》|noirse

モール映画としての《ゾンビ》

text by noirse

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体力がないので、夏は苦手だ。涼しい話題がいい。ホラー映画の話をしたい。

ホラー映画の巨匠にして「ゾンビ映画の父」、ジョージ・A・ロメロが亡くなった。

「ゾンビ」というジャンルは、今ではマンガやアニメ、ゲームなど、様々な分野で、一大潮流を築き上げている。そのあいだで流通している、「ゾンビに噛み付かれた人間はゾンビになる」とか、「ゾンビを倒すには頭を狙う」などといった「ゲームの規則」を完成させ、ゾンビブームの基礎を作り上げたのが、ロメロだ。

ロメロの最高傑作といえば、ゾンビ映画としては2作目の《ゾンビ》(1978)だろう。理由のひとつは舞台設定にある。ロメロはペンシルヴァニア州のモンローヴィル・モールをロケ地に選び(このモールは今も営業中で、ファンの「聖地」となっている)、ゾンビから逃げ回る主人公たちを、その中に立てこもらせた。

ショッピング・モールの誕生が何時かは見方によるが、現在定着しているエンクローズド・モール(屋内型のモール)については、1956年に開業したミネアポリスのサウスデール・センターに端を発している。この業態は好評を博し、たちまち各地に広まったが、不思議と映画の舞台になることはなかった。

その点、ロメロは画期的だった。《ゾンビ》の主人公たちは、ショッピング・モールに集まるゾンビを、生前の記憶や習慣に基づき、行動しているのではないかと分析する。そこには、資本主義や消費社会に翻弄される、現代人への風刺が込められている。
ロメロは、舞台設定ひとつで、怪奇映画のモンスターの概念に新しい価値を与え、「ゾンビ」という文化を形成する存在にまで変貌させることに成功した。と同時に、ショッピング・モールという場を、映画の中にはっきりと刻み込んだのだ。

つまりロメロとは、ゾンビ映画の巨匠であると同時に、ショッピング・モール映画の開祖とも呼べよう。
その上で、わたしはロメロに不満を持っている。

2

わたしはショッピング・モールに興味がある。と言うより、モールが大好物なのである。

モールにはシネコンが付きものである。シネコンに映画を見に行き、時間があると、ついつい辺りをそぞろ歩き、時間があれば外観、駐車場、屋上まで、どこがどうなっているのか、確かめてしまう。同時に買い物客まで――家族連れなのか、友人同士で来ているのか、カップルなのか、年齢層はどうか、近所から普段着で来ているのか、遠方からオシャレしているのか云々――見やってしまう。
いい趣味ではない。だがそうして、そのモールがその街においてどのような価値を持ち、どういう役割を果たしているのか、想像を巡らさずにはいられないのだ。

「モール映画」というジャンルがあるとすれば、ロメロはその歴史上燦然と輝く、偉大な先駆者だ。だが残念なことに、《ゾンビ》以降、ロメロがモールを舞台に映画を撮ることはなかった。
ロメロは社会問題に対して強い関心を持っており、《死霊のえじき》(1985)では軍需産業、《ランド・オブ・ザ・デッド》(2005)では格差問題など、作品ごとにゾンビを巡る状況を置き換え、権力や資本主義社会を批判していった。
同じテーマ、同じ舞台に固執しないのが、ロメロのこだわりだった。すなわちロメロにとって、ショッピング・モールとは通過点に過ぎず、回帰する必要など何ひとつない場所だったのだ。

こうしてロメロの軌跡を追ってみると、ゾンビに託された意味の変化に気付くだろう。《ゾンビ》では、ゾンビは資本主義に振り回される大衆のメタファーとして機能していた。ところがその後のロメロ作品、たとえば《ランド・オブ・ザ・デッド》は、自我に目覚めたゾンビによって死者の蜂起が起こり、資本家が滅んでいくという筋書きとなっている。つまり、ゾンビが意味するものが、権力や資本に蹂躙される大衆の怒りの象徴へとすり替わっているわけだ。

ロメロにとって反抗するゾンビは「よいゾンビ」だが、モールをうろつくだけのゾンビは「悪いゾンビ」なのだ。

3

日本の論壇でショッピング・モールの議論が活発になったのは、リサーチャーで評論家の三浦展が《ファスト風土化する日本》(2004)を発表してからだ。しかし三浦が訴えた「郊外の風景の均一化を促進する」などといったモール批判は、今では否定的に受け止められることが多い。
一見均一化されたように見えるモール(および郊外)でも、「そこで人々は、仕事へと往還し、生まれ、育ち、育てつつ、現に営んでいる」(谷口功一《ショッピングモールの法哲学》)。モールは新たな生活やコミュニティ、あるいは物語を育む場所として、立派に機能しているのだ。

ロメロのモール観にも、三浦と同様の、一方的なレッテル貼りを感じてしまう。70年代にして既にモールを取り上げたことの鋭敏な嗅覚には敬服する。しかしロメロにとって、モールは手段、道具に過ぎない。

《ゾンビ》は、ロメロの傑出した演出力により、モールを魅力的に描くことには成功している。しかし《ゾンビ》を見てモールに惹かれるということは、ロメロにとっては喜ばしい結果ではないはずだ。
「モール映画」愛好家として《ゾンビ》はかけがえのない作品だが、同時に乗り越えられるべき壁でもあるのだ。

4

今年公開された、《パッセンジャー》(2016)という映画を紹介したい。舞台は惑星への移民が乗り込む宇宙船「アヴァロン」。自動運転によって、船員から乗客まで、全員が冷凍睡眠に就く中、アクシデントでひとりの男、ジム(クリス・プラット)だけが目覚めてしまった。目的地に着くまで残り90年、男がその時まで生存できる可能性は低い。

ジムは絶望に打ちひしがれるが、アヴァロンには、コンピュータの管理下のもと、レストラン、バー、各種ショップ、エンタテインメント施設、スイートルームまで完備されており、開き直ってみれば快適な空間でもある。本や音楽、映画などにもいくらでもアクセスできるため、時間をつぶすにもこと欠かない。その気さえあれば、90年の月日を費やすにあまりある楽しみを見出すこともできるだろう。

アヴァロンは、明らかにショッピング・モールを意識して作られている。クリスは、巨大なショッピング・モールをひとり占めしているわけだ。それだけなら、わたしのようなモール好きには夢のような状況だ。

ただし、それを分かち合う人はいない。

《パッセンジャー》のシナリオは永らくブラック・リスト(高く評価されながら、様々な事情で映画化が果たされていない脚本のリスト)に載っており、それゆえ今回の映画化は大きく注目された。だが結果、内容は大きく改変されてしまった。

圧倒的な孤独に押し潰されたクリスはある決断を下す。ネタバレになるため詳しくは触れないが、クリスは孤独に耐え切れず、倫理的に許しがたい所業に及んでしまう。
本来のシナリオでは、それを踏まえた上できわどいラストを用意していたが、実際の映画化では、安易な着地を許している。これを好意的に評価するのは難しく、概ね批判されている。

自己中心的なクリスの決断に、問題があるのは間違いない。だが彼の行動にも、理解できる余地はないだろうか。

5

「ここで生まれ育ったわけでもない独身者の居場所は、いったいどこにあるんだろう?」

《東京から考える》(2007)という本での、北田暁大(共著者は東浩紀)の発言だ。子供連れの家族に住みやすく設計されているという柏への疑問だが、これはモールにおいても当てはまる言葉だろう。

モールを行き交う人々を眺めているとき、思わず目に止まるのは、孤独な人々である。ひとりベンチに座り、退屈そうにしている人(主に老人が多い)を見ると、何とも言えない感情を抱く。
孤独な人は、どの時代のどの場所にもいる。物質的精神的に満たされようと、孤独を忘れることは、なかなかできない。

クリスを見ていると、昨年ある映画祭で見た《ノクトラマ/夜行少年たち》(2016)という作品を思い出す。豊かな社会に所属しながら、それぞれに孤独や怒りを抱えたテロリストたちが、深夜のデパートに立てこもる。デパートとは当然資本主義社会のメタファーで、《ゾンビ》を念頭において作られたのは間違いない。近年の「モール映画」の収穫のひとつだ。

もちろんテロは許されるものではない。だが、圧倒的な孤独に追いつめられたとき、正気を保つことができるかどうかは、その立場になってみなければ分かるまい。
これ以上列挙するのは避けるが、《ゾンビ》の後を継ぐモール映画には、孤独と暴力(テロや暴動)をテーマに加えているものが目に付く。これは、《死霊のえじき》以降のロメロのゾンビが革命を志向したのと無関係ではないだろう。
だが、孤独からの救済の手段が、暴動やテロしかないわけではあるまい。

優れた寓話作家であるロメロは、ゾンビを、翻って言えば民衆を、「意味」の中に閉じ込めていく。しかしそうすると、どうしても零れ落ちるものがある。
《パッセンジャー》は、作品としては問題があるかもしれない。だがモールに向かう人々を集団でのみ捉えるのではなく、彼らを個々の人間として考えていった点に、わたしは一定の真摯さを感じる。

ロメロの訃報に際して、彼の死を惜しみ、功績を称えるのみではなく、その仕事を見つめ直し、乗り越えていくことも重要ではないだろうか。そうした視点から見れば、《パッセンジャー》は、《ゾンビ》が語り落ちた問題を掬い上げた、ロメロの遺産の後継のひとつと言えまいか。

などと嘯きつつ、わたしはまたモールへ向かうだろう。ひとり目的もなくモールをうろつくわたしもまた、ゾンビに違いあるまい。そして同時に、わたしたちはひとりひとりが、アヴァロンに乗り込んだ、孤独な乗客でもあるのだ。

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noirse
同人誌「ビンダー」、「セカンドアフター」に映画/アニメ批評を寄稿
映画作家・佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中