Books|「チェルニー30番」の秘密——練習曲は進化する|小石かつら

「チェルニー30番」の秘密——練習曲は進化する

上田泰史 著
春秋社
2017年3月/ 1800円 ISBN 978-4-393-93794-5
text by 小石かつら(Katsura Koishi)

ピアノを習ったことのある人なら誰もが知っている「チェルニー30番」。ベートーヴェンの高弟としてウィーンで活躍した作曲家チェルニー(1791-1857)のこの曲集は、有益な練習曲教材として今日まで広く使われてきた。

その「練習曲」に対して、筆者は問う。「ピアノに向かった人々は、いったいなぜ、そして何を『練習』したかったのでしょうか。」そして筆者は、「見る人が見ればわかる奥深さ」を読者に見せるべく、我々を「チェルニー」や「練習曲」の世界に引き込み、見事な手さばきで、秘密——曲集の背後に秘められた世界——をするすると解き明かしていく。その解法は入念かつ完璧だ。そればかりか、本書に対応する特設サイトまで用意されていて、言及された作品の多くが動画で確認できるようになっている。

本書がすばらしいのは、いわゆる、お稽古事の現場で使われてきた教則本の実体を明らかにする、という課題に留まらないことだ。もともと全日本ピアノ指導者協会(PTNA)のウェブサイト上に連載された文章なので、読者として主にピアノ教師が想定されていた(いる)ことは言うまでもない。文章自体は大変わかりやすく書かれている。しかしその内容は、表面的平易さとは裏腹に、精緻な調査に基づく、きわめて専門的なものである。しかもその音楽学的な専門世界は、19世紀という現代に直接つながる時代において、音楽の在り方が、大きな意味を持っていたことを我々に示してくれる。「勤勉で」あること。心をふるわせる「ロマン」を追うこと。「高尚な」芸術をこそたしなむべきであること・・・。「チェルニー30番」というひとつの事例を解明していくことで、背後にひろがる世界観の奥行きを実感できることこそが、私は本書の特質であると感じた。

感動はさておき、本書の概要を紹介しよう。全体は3章で構成される。「チェルニー30番」は、「30のメカニスム練習曲」というタイトルで、チェルニーの最晩年にあたる1856年にパリで出版された作品集である(追ってウィーン、ロンドン、ブリュッセルでも出版される)。
第1章では、そもそも練習曲とは何かが問い直される。当時の、つまり19世紀のフランス語の辞書をいくつも繙いて、練習曲という言葉の意味を確認するところから始められる。そして、「訓練課題(エグゼルシス)」と「練習曲(エチュード)」という語が別のものとして在ることが示されるのだが、その語が含有する意味が詳らかにされることで根拠が明確に固められ、読者としては絶対的な安心感がもてる。
第2章では、1830年代に「練習曲」が芸術作品として花開き、多様化するさまが明らかにされる。つまり、「練習曲」というモノが、「ソナタ」や「変奏曲」といった、ひとつの作品ジャンルとして成立し、発展していく過程が詳細に説明される。
そして最後の第3章では「チェルニー30番」の中から、様式的な特徴の際立つ14曲が選ばれ、それぞれの作品の背景、作品が含有する様式が詳らかにされるという仕組みだ。特に第3章では、様式を説明するためにさまざまな作曲家が引き合いに出されていて、特設ウェブサイトでそれらの楽曲を確認しながら読み進めると大変おもしろい。

話は少し飛ぶが、実技に打ち込む人と、音楽を調べていく人というのは、なかなか一致しないと言われてきた。本書は、実技に取り組む人が共有する教材を用いて、その歴史的な意味をさぐっていくものである。ピアノを学習していて、ちょうど、チェルニー30番に取り組んでいるか、チェルニー30番を終えてしばらくしたかくらいの、ピアノが大好きなこどもたちが、本書に出会うことで音楽史の豊かな世界を知り、二つの手法——音楽に実技として取り組むという手法と音楽を総体として見るという手法―—が合わさったときの豊かさを実感してくれたなら、まさにそれは、ひとつの側面として、訓練課題(エグゼルシス)が練習曲(エチュード)に変容していく過程になぞらえられる気がした。そんなことを妄想しながら、私は豊饒な気分に満たされている。