Pick Up(17/07/15)|連続講座「芸術は何処へ?」|能登原由美

連続講座「芸術は何処へ?」 マエストロの本音を聴く壮大な全9講座
2017年1月〜9月 

2017年4月30日、6月25日 京都府立文化芸術会館
Reported by 能登原由美(Yumi Notohara)

第4回 2017年4月30日
<講演I>
岡田暁生「音楽は何処へ〜19世紀から振り返る21世紀〜」
<講演II>
岡田暁生×フィリップ・ストレンジ「JAZZという愉しみ」(ピアノ演奏有)

第6回 2017年6月25日
<講演I>
井上道義(聞き手:通崎睦美)「演奏家から〜今まで言わなかったこと〜」
<講演II>
会田誠「僕から見える日本の美術界の状況」
<鼎談>
井上道義・会田誠・通崎睦美

1月から毎月1回、文化・芸術に関する連続講座が京都で開催されている。音楽や美術、詩などの文化・芸術分野の実演家、評論家からゴリラ研究者に至るまで(!)、第一線で活躍する錚々たる面々が登壇するもの。お題は「芸術は何処へ?」。チラシに書かれた説明から読み解けば、「芸術」の「創り手」と「受け手」の乖離に危機感を抱き、その難題に立ち向かうべく各界の識者の話を聞こうというのが趣旨らしい。とはいえ、テーマが壮大な上、分野や立場によって視点や見方がさまざまに異なることは容易に予想できる。ここでクエスチョンマークの答えを見つけるのは、綿毛を針の穴に通すようなものだろう。いっそのこと、答えを見つけるよりも一緒になってクエスチョンそのものを楽しむ方が得策かもしれない。そんなゆるい気持ちを抱きながら、音楽関係者が登壇する2つの回に参加した(以下、敬称略)。

まずは第4回目。音楽学者で評論家の岡田暁生による講演と、フィリップ・ストレンジによるジャズ・ピアノ演奏が岡田の解説とともに行われた。講演のタイトルは「音楽は何処へ〜19世紀から振り返る21世紀〜」。岡田は自らを「19世紀ロマン派の音楽の専門家」であると紹介した上で、そこからみた「現在」の状況として話を始めた。さらに、岡田自身を形成した過程というべきか、大きな衝撃を受けた自らの聴取体験をいくつか挙げた。その上で、昨今はこのように「神が降臨した」と形容できるような聴取体験が少なくなってきていること、その背景として、話題性や感動話に依拠した「虚名」がマーケットで幅を利かせているのではないかと指摘した。

ここで岡田は、自らが重要視する要件を3つ挙げる。すなわち、Truth(真実/本物)、Unknown(未知)、Love(愛)。以下に要約しよう。まずはTruth。岡田によれば、「本物はつねに規格外である」。今は規格化されたもの、つまり客や審査員に受けるものだけがマーケットに流れるが、本物は必ずしもそうではない。金銭価値を超えたものだ。次にUnknown。受け手の期待値に合わせない、期待値でもって創り手に接しない、「馴れ合い」にならないことが重要。そしてLove。録音機器が発達した今日、音楽を一人で聞く機会が増えたが、本来音楽は他者と一緒に楽しむものではないか。「あなたと私のレスポンス」として、その場の気配を察知し合うのは音楽の楽しみの一つでもある。岡田自身は述べなかったが、これはまさに「創り手と受け手」の関係に置き換えられるのかもしれない。

これら3つの要件、すなわちTruth、Unknown、Loveのある音楽として、岡田はストレンジを紹介する。休憩後は、そのストレンジによるジャズ・ピアノの演奏が行なわれた。《枯葉》、《Take Five》などスタンダード作品に加え、ストレンジのオリジナルの新曲も披露された。

ただし、岡田はここでストレンジの演奏に対する評価を求めていたわけではないだろう。冒頭から彼が示してきたように、これはあくまで岡田自身の聴取、音楽体験である。というのも、規格の内か外かの判断は、受け手自身がもっている「規格」の枠によって決められる。期待値で言えば、それは個人のバックグラウンドによって全く別物となる。また、どこで愛を感じられるかは、あくまで個と個の関係だ。つまるところ、岡田が挙げた3つの点は、創り手も受け手も含めて音楽に携わる個人がそれぞれ自分で探求していくほかないことを示しているのではないだろうか。Truth、Unknown、Loveは、その探求の過程における手がかりと捉えれば良いのではないか。

*****

第6回目は、指揮者の井上道義、現代美術家の会田誠による講演と、井上の聞き手役となった打楽器奏者の通崎睦美を交えての鼎談という三本立て。冒頭から大波乱となった鼎談がよく示すように、話の内容が終始あちこちに飛び、実に聴衆泣かせの回となった。演奏会の常識に従い、録音を取ることに思いが及ばなかったため、ここではメモと記憶を頼りにまとめていくほかない。多少の齟齬や誤解はあるかもしれないが、誤解も含めて一聴衆が受けとめた内容として記したい。

同じ音楽に携わる身として肩を持つわけではないが、井上の講演は非常にわかりやすくまとめられていた。「演奏家から〜今まで言わなかったこと〜」と題した講演で、井上は様々な映像を見せながら指揮者の役割を説明する。また聞き手と進行役を兼ねた通崎の好リードにより、失敗談や裏話を通して井上の音楽に対する姿勢を見ることができた。とりわけ、「楽譜の半分は作曲者ではなく演奏者に委ねられている」と述べるあたりは異論も出ることだろう。ここで通崎は、第4回講演で岡田が挙げた「規格外」という観点を持ち出し、「鬼才」と呼ばれる井上に「自分の演奏を規格外と思うか?」と問いかけるが、どうやら井上にその意識は全くないようだ。

一方の会田の講演。井上が鼎談で開口一番、「途中で会場を出た」と怒りを露わにしながら非難したように、確かにこの講演では話を追うことに苦労した。「時間配分が下手で・・・」とは会田自身の釈明だが、一つの話題の終点が見えないうちに次の話題に移る、全体の方向性が見えない、などわかりづらさの理由はいくつもある。まるで述語のない文章を延々と聞いているような状態だ。ただし、後から振り返ると講演内容はいたってシンプル。「僕から見える日本の美術界の状況」と題するように、会田ははじめに自らの創作活動を提示することで「僕」という視点を断っておきつつ、1960年代以降の日本における現代美術の様子を、作品画像を使って紹介した。

その後の鼎談については、冒頭から終始波乱であった。喧嘩を売ることが自らの対話のスタイルでもあるという井上。だが述語の判然としない会田とは、喧嘩にもなっていない。それに苛立つ井上は話の内容のあちこちに飛びつく。通崎の的確な進行によって何度か議論が整理されたが、その流れを追って全体を説明する気力は筆者にはない。

ただし、カオスの中に時折垣間見える各自のスタンスは、とても興味深いものであった。例えば井上は、会田の講演の不味さを非難する中で「自分は舞台に立つ人間として聴衆を蔑ろにできない」と述べる。この辺りは演奏家と美術家との違いが出ているのかもしれない。つまり、舞台が彼自身の芸術創造の場である井上にとっては、常に目の前に「受け手」となる客がいる。自身の芸術が理解されるか否かは、目の前の「受け手」の反応が瞬時に突きつけてくるのだ。一方、会田のような美術家の場合、ライヴ・パフォーマンスなどを除けば「受け手」の反応は即座にはわからない。少なくとも、舞台芸術に比べると若干の時間差が生まれる。さらに、作品は一定期間、「受け手」の前に晒されることで、その反応は時間をかけてゆっくり醸成される。もちろん定型化はできないが、音楽と美術の間に見られる「創り手」と「受け手」の距離感の違いと捉えることができるかもしれない。

あるいは、「芸術は何処へ?」という問いに対する答え。会田は、「芸術はやがて雲散霧消するだろう」と述べるが、井上は「芸術は何処へも行かない」と断言する。井上によれば、芸術は「ウソ」であり、「全てを疑うこと、そこと戦うこと」だという。つまり、井上にとって芸術は「もの」ではなく、「疑う、戦う」といった「行為」なのではないか。だからこそ、彼にとって「芸術」はそもそも価値判断を下す対象にもならないのだろう。実際、講演の中で通崎に「芸術における上品と下品」について問われた井上は、「芸術には上品も下品もない」と一蹴した。

一方、「芸術はやがて雲散霧消する」と述べた会田の言葉。ここではすでに、「芸術」という何らかの枠組みが想定されていることが明らかだ。いみじくも、鼎談の終了間際に通崎が会田に対して放った「『規格』を認識しているからこそ、あえてそれを外した創作活動をしているのではないか」という言葉は正鵠を射ているのではないだろうか。かたや井上には、「規格」という物差しは無いに等しいのだろう。無論、このような両者の違いはあくまで個人の問題に違いない。けれどもまた、創り上げると同時に消えていく音楽と、創りあげたものがいつまでも残り続ける美術との違い、それがこの場に表れているような気がしてならなかった。

他にも興味深い点はいくつもあったが、曲解を招く危険もあるのでこの辺りでとどめておきたい。なお、この連続講座は記録集も出版されるとのこと。よって、鼎談の内容ついては、各者の発言を言葉のままにたどっていくこともお薦めする。なにせ、枠の中に収まりきれない面々なのだから。